旅立ちの日に
「よし」
と小夏は満足げに一息つき、床に置いていた荷物を沢山詰め込んだ両開きのトランクケースの片面を持ち上げる。全体的に古びた大きなトランクは、ギチッという金属が擦れ合う少し不愉快な音を発した。
「詰めすぎちゃいましたか?壊れないでくださいね、お願いします」
答えないはずのトランクに思わず声をかけつつも、それを持ち上げる手は止めない。きちんと蓋が閉まってくれるだろうという期待感と、何せ古いトランクだから、壊れてしまったらどうしよう…という不安感。2つの感情を抱き、小夏はとトランクを閉めることに今はただただ集中した。
トランクの片面がゆっくりと降ろされる。中の荷物に暗い影が落ちた。金具の音を立てないようにトランクの片面にもう片面を合わせた。
ぴったりと、トランクは重なり合う。
…さて、問題はここからである。小夏は真剣な顔で、恐る恐るロック錠へと手を伸ばした。
例えトランクの蓋が閉まっても、錠が閉まらなければ意味が無い。
トランクと同じくロック錠も古ぼけ錆び付いていて、少しの衝撃を与えただけで壊れてしまいそうだ。
だが、残念なことにこの家にトランクケースはこの一台しかない。父が数十年も前に気に入って購入し、彼の一人旅を支えてくれたもの。言うなれば、大事な相棒だったトランクケースである。そんな思い出の品を、荷物の詰めすぎという残念な理由で壊すわけにはいかない。
ロック錠を持ち上げ、トランクと同じようにゆっくりと降ろす。錆び付いた金属は尚も少し軋みはしたものの、無事にトランクをしっかりとロックしてくれた。ついでに反対側も。同じく恐る恐る錠を動かしたが、こちらはあっさりと閉じてくれた。
小夏は立ち上がり、トランクケースの持ち手を掴んで上に引き上げる。トランクケースは重いながらも小夏の手に吸い付くように持ち上げられた。
「よし、準備万端ですね」
大きな独り言と共におもわず微笑む。
この荷纏めが一番大変であった。部屋にあるものをどうやって詰めていこうかと試行錯誤し、詰めては出して、出しては詰め、結局当日ギリギリまでかかってしまった。それが完了した今、小夏は達成感を一人噛み締めた。
ふとトランクケースを床に下ろし、自身も床にペタンと座り込んだ。顔を上げ、周囲をゆっくりと確認する。
木の天井。
少し汚れのついた白い壁紙。
ワックスの剥げたフローリングの床。
壁には所々テープの跡がついている。
そこには先程まで、自身の好きな風景の写真が貼られていた。
小夏の住むこの村の大好きな風景だ。
金色の稲が一斉に揺れる田んぼ、歩く者達を歓迎するかのように花びらを散らせる桜並木。肩を組み合って元気な笑顔を浮かべる姉と兄。その後ろで小さな小夏を抱きかかえながら、優しい笑みを浮かべる父という構図の家族写真…。
小夏は、トランクケースのボディを軽く撫でた。革製の、ツルリとした感触が手に伝わってくる。
写真は今、この中にある。これからはこの部屋ではなく、小夏が新しく住むことになった、とある学校の寮の部屋に貼られることになるのだ。
小夏はこの春から晴れて高校生となる。この村には中学までしか学校がなく、高校へ進学するには別の市町村へ行かねばならない。近くの町の高校へ行っても良かったのだが、彼女は敢えて少し遠い町の高校へ進学することを選んだ。
箱庭町
それが、これから小夏が通う高校が建っている町の名前である。ここから行くにはバスを3回、電車を2回乗り継がなければならない。勿論この村から通うことは不可能である為、小夏は高校が運営する寮に入ることになった。
今日は、その寮へ向かう日。謂わば旅立ちの日である。
小夏は自身の部屋の中身をトランクに詰め、箱庭町へと旅立つ準備をしていたのである。
箱庭町とは一体どういう場所なのだろう。高校受験で1度訪れたことはあるが、あの時は緊張のあまり町中探索する余裕も無かった。
覚えていることといったら、学校の門構えが恐ろしい程の威厳を放っていたことくらいだ。黒に染まり所々赤い錆びの浮いた鉄の門。受験者を見下ろし、無限の威圧感をもってこちらを覗き込んできた門。
小夏はその時の感覚を思い出した。
小夏は、思い出したことを振り払うかのように小さく頭を振った。頭に結わえた2つのテールが、彼女の動きに合わせてブンブンと勢い良く揺れる。
高校受験には無事に成功しているのだ。これからその門は、小夏の為に入り口を開いてくれる。
「ふう…」
息を1つ。とりあえず落ち着こう。妙なことだけを思い出すだなんて、少し緊張しているに違いない。
楽しいことを考えよう。そうだ、箱庭町という町が、どのような町なのか。
小夏は数日前の夕食後、父と交わした会話のことを思い出した。
一人旅の最中に箱庭町を訪れたことのある父に、箱庭町とはどんなところなのかを聞いたのだ。姉と兄もそれには興味津々で、期待を込めた瞳で父の返答を待った。
が、父は少しだけ思案した後
「面白い場所です。行ってみたら分かりますよ」
と曖昧に答えて笑った。
その穏やかな物言いと優しい微笑みから察するに、決して意地悪をしているわけではないようだ。
心の底から楽しそうに、そしてこの冬森家の末子に期待をさせる為に、そう答えたのだろう。
その問いを小夏と同じく期待の眼差しを持って聞いていた姉と兄は「ええ~」と不満そうであったが、その時の小夏は「お父さんがそう言うのならば、そうなのでしょう」と納得することにした。そして箱庭町への期待半分、新生活の不安半分を背負って、この日を迎えたのだった。
小夏は自身の胸に手を当てた。
心臓の鼓動が少し早く感じる。箱庭町への期待はあれども、やはり見知らぬ場所へ行くことに緊張はしている。心臓を落ち着ける為に、また1つ息をついた。
その時
「小夏ちゃん」
と、背後から名前を呼ばれた。
「ひゃいっ!」
小夏は驚いてしまい、思わず上擦った変な声で返事をする。
…私は一体何をやっているのでしょうか…と内心反省しながら声のした方向を慌てて振り向くと、そこには1人の女性が立っていた。
その女性は、シンプルな薄手のセーターにふわりとした素材のロングスカート、上から薄手の白いショールを羽織っていた。腰の辺りまである長い髪の毛を、小夏とお揃いのピンクのリボンで後ろに1つに結わえている。その顔には、優しげな微笑みが浮かんでいた。
「お、お母さん…。ごめんなさい、びっくりしてしまって」
小夏は女性…母の姿を目で捉えると、頭を下げて謝罪の言葉を口にした。
「あらあら、謝る必要なんて無いわよ。顔を上げて?」
と、母は小夏の頭を優しく撫でてくれた。
温かみの中に何処かひんやりとした温度を纏った手の感触がとても心地よい。ずっとこのままでいたい、とは思ったが、いい加減に頭を上げないと母を困らせてしまう。小夏はゆっくりと顔を上げた。目の前には母の顔。小夏の表情が、母の美しい瞳に宿っている。
「今日、なのね」
母はゆったりと首を傾げて言った。背中に流れる一房の髪の毛が、首の動きと同時にサラリと揺れる。
「はい」
その言葉に、1つ頷いた。
「1人で知らない町に行くのは大変だと思うけど、小夏ちゃんが自分で選んだ道だもの。お母さん応援するわ。ありきたりな言葉しか言えないけれど、向こうでも頑張って…いえ、頑張り過ぎないでね。小夏ちゃんは昔から頑張り屋さんだもの。無理しないのよ?」
「はい」
「何かあったら、誰かに頼ること」
「それ、お父さんにも言われました」
「流石お父さんね。小夏ちゃんのこと分かってるわ。
…寂しくなるわね…離ればなれなんて」
小夏の返事に母はゆっくりと頷き、小夏の背中に手を回し、ギュッと抱き締める
母の肩からフワッと心地よい花の香りがしたような気がして、小夏は抱き締められたまま目を閉じた。
そのまま数秒、いや、数分。
もしかしたら数時間そうしていたような気がする。
小夏は目を開き「お母さん」と声をかけた。母は抱き締めていた腕を緩め「きつかった?ごめんね?」と謝る。その言葉に小夏は否定の意味を込めて首を振った。
「私、箱庭町に行ったら家族にお手紙書きます。毎日書きます。毎日電話もします。連休になったら帰ってきます。だから、寂しがらないでください」
小夏の真っ直ぐな視線と言葉に、母は満足げに目を細める
「大きくなったわねぇ…。子供の成長は早いわ」
「そんなこと無いですよ…身長まだまだ小さいですし」
「そういうことじゃないわよ。相変わらず天然なんだから」
母は人差し指で小夏の胸を示した。
「ここが、大きくなったってこと」
「…胸…?」
「違う違う。心ってこと」
「心?」
「そう。心。小夏ちゃんは心が大きくなったってことよ。一昔前までは、学校の先生とバイバイするだけで泣いていたのに」
「い…いつの話ですかそれは」
「うふふ…ほんの数年前よ。でも、こんなに大きくなった。もう家族とも離れられるくらいに」
母は小夏の頭に手を置き、再び優しく撫でる。それが心地よくて
「…やっぱり寂しいです。知らない町で、1人でこれから過ごすのは」
思わず本音が出た。母は一層目を細める。
「結局…みんな一緒なのね…。昨日お父さんも泣いていたのよ。『夏ちゃんが明日いなくなっちゃうー』って」
「え!?」
「釣られてお兄ちゃんも泣いてたわ」
「あー、それは想像出来ます…。その後お姉ちゃんが2人に喝入れしているところが目に浮かびますね…」
「うふふふふ、まさにご名答!」
小夏の言葉に母はニコニコ笑いながら明るい声音で言った。釣られて小夏も声を上げて笑う。
2人でひとしきり笑った後、部屋の扉の向こうから
「夏ちゃん」
と呼ぶ声がした。父の声だ。
そろそろ出発の時間となってしまったようだ。
「いってらっしゃい」
母がにっこり笑って小さく手を振る。
「行ってきます、お母さん」
小夏も笑い、大きなスーツケースを手に部屋のドアを開けた。
ドアの向こうには誰もいなかった。きっと父は、小夏に声をかけてすぐに玄関へ向かったのだろう。
「今行きまーす」
と、玄関の方向に大きな声で呼び掛けると
、案の定「はーい」と父の声が返ってきた。
背中を向けていた部屋と向き合い、部屋のドアノブに手をかけてゆっくりと押す。
ドアがだんだん閉まっていく。
小夏はもう1度母の顔が見たくなり、部屋の中に目を向けた。母はこちらを見つめながら、ヒラヒラと軽く手を振っている。それに答える為、小夏も小さく手を振った。
ドアを閉める手は止めない。ドアが開いている面積が小さくなっていく。母の顔が見えなくなっていく。やがて
パタリ
と木のドアは、枠にピッタリとまるで吸い込まれるかのように嵌まった。少しの隙間もない。
母の姿が、顔が、その微笑みが、見えなくなってしまった。
ドアにそっと触れる。木材のざらりとした感触が手に伝わってきた。何か一言、中にいる母に声をかけようとしたが、何も思い付かない。
ずっとドアの前に突っ立っていてもしょうがないので、小夏はドアに背を向け、玄関まで歩き始めた。
まっすぐに伸びた廊下を進んで玄関へとたどり着く。
出入り口のドアには古い磨りガラスが一部はめ込まれており、玄関全体に柔らかな光を届けている。
小夏は玄関が大好きだ。幼い頃、よくこの磨りガラスの温かい光の下で、熊三郎さんとおままごとをしていた。
雨の日に外に出られない時は、磨りガラスに伝う雨の雫を何時間も眺めていたものだ。雨の雫が尾を引いて伸びたと思ったら、突然プチリと切れて丸い一滴が勢いよく流れていくこともある。変化の激しい雨の様子が、小夏には楽しく思えて仕方なかった。恥ずかしながら、大きくなった今でも磨りガラス越しの雨はよく眺めている。これから数年はこの一人遊びは出来なくなるのだなと思うと、少し寂しい気持ちになった。
小夏は靴箱から、1セットのローファーを取り出し、手慣れた手付きで履いた。それぞれの足のつま先をコンコンコンと3回鳴らし、履き心地を確かめる。…よし。
これは小夏なりの、気合を入れるための儀式であった。つま先を鳴らす音を聞くと、自然と身が引き締まる思いがする…気がする。幸いなことに先程感じた寂しさも、靴の音を聞くと幾らか薄れてしまったように感じた。
それから、顔を靴箱に向ける。靴箱の上にはお母さんが好きな花の小さな鉢植え、それから、鉢植えよりも少し大きな木彫りの子熊の人形「熊三郎さん」が座っている。絵の具製の、少し塗装の剥げた青いシャツをワンピースのように着、小さな可愛らしい手には何故か缶詰めを持っている。缶には「高級すぎるトマト」と黒い達筆で書かれていた。
何故鮭ではなくトマト缶なのか、子熊が高級すぎるトマト缶を一体どこから調達したのか、いやその前に何故熊「三郎」さんなのか、熊一郎さんと熊次郎さんはどこへ行ったのかと疑問が生じるところではあるが、その疑問を疑問だと思わない年月を小夏と熊三郎さんは共に過ごしてきた。小夏にとってはそんな細かいことはどうでもいいことである。
小夏は靴箱に向き直り、熊三郎さんを持ち上げ、ギュッと胸に抱きしめた。表面を磨かれた木の感触が、ツルリと手に伝わってきた。
しばらく、熊三郎さんとも会えなくなる。出来ることなら彼も連れていきたかった。が、彼に与えられたこの家の玄関の見守りという役目は果たさねばならない。
しばらく小夏は熊三郎さんを抱きしめ、そっと元の位置に戻した。さようなら、の代わりにいつも通りの言葉をかける。
「行ってきます、熊三郎さん」
ニコッと熊三郎さんに笑いかけ、それから玄関の出入り口を開けた。春の陽気を纏った空気が、春の匂いを帯びた風が、ふわりと玄関へ入ってきた。
…なんて気持ちの良い日だろう。清々しい気持ちで一歩外へ踏み出す。春の風の微かな音に交じり、ふと背後から
「行ってらっしゃい、小夏」
と聞こえたような気がした。
玄関を出たと同時に「やっと来た!」と元気な声が聞こえた。
声のした方向を振り向くと、小夏の姉と兄がこちらを見ている。先程の声の持ち主は姉だろう。強気な姉と違い、繊細な性格の兄はあんなに張りのある元気な声をほとんど出さない。
「お姉ちゃん、お兄ちゃん」
小夏は姉兄の前に駆け寄った。
「小夏、結局準備に時間がかかったね」
「仕方ないよ…夏ちゃんはマイペースなんだから」
「出発時間が少し過ぎてるね」
「きっちり守らないといけない時間ってわけじゃないんだから良いんじゃないか…?」
次々に会話を展開していく姉兄に、小夏はエヘヘと笑った。
「でも、こうやって少し遅れることで、お姉ちゃんとお兄ちゃんと過ごす時間もあることですし」
「可愛いこと言うね。確かに。今朝は収穫もあって少しバタバタしちゃったもんね…。時間通りだと、こうやって落ち着いて見送り出来なかったかも」
姉の言葉に、兄がうんうんと頷いた。
「それにしても、夏ちゃんが別の町に一人で行けるようになるとは…うっ、寂しさで泣けてきた…夏ちゃん、今からでも遅くないから考え直さない?」
「無理です」
兄が声を震わせながら、小夏の肩に手を置いて懇願したが、すかさず小夏は拒否をする。
「そうやってスパッと切るところは私に似たんだな」
と、姉が何故か満足そうにフフフと笑った。小夏も同じようにフフフと笑い、
「毎日電話しますから。そう寂しがらないでくださいよ、お兄ちゃん」
「ほんと?ほんとに?」
「ほんとのほんとですよ。私が嘘ついたこと、ありました?」
「ない…夏ちゃんはいつでも正直に生きてるから…」
「ですよね。さ、泣かないでください。ティッシュ使ってお兄ちゃん」
「ありがとう…その気遣いに尚更泣きそう…」
「泣くな」
目の端に更に涙を溜め始めた兄に、姉がピシャリと言葉を放った。
「不安で寂しい思いなのは、私たちより小夏だよ。私たちはせめて、笑顔で送ってあげないと。しっかりしなさい」
「うん…」
小夏から差し出されたティッシュで鼻を噛みながら、兄は頷き、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔でこちらに笑いかける。その様子がなんだか嬉しくて。
でもおかしくて。
「んっふふふふ…」
笑ってしまった。
「ごめんなさいお兄ちゃん。顔が面白すぎて」
「ええー!酷いよ夏ちゃーん!」
「夏ちゃん」
と、兄とは違う落ち着いた声に呼ばれて振り返ると、父がおいでと手招きをしている。その側には…引っ越し業者だろうか?スラリとした背の高い、作業着の見知らぬ女性が立っていた。姉兄と共に急いで父の方へと駆け寄ると、先に女性が小夏に声をかけてきた。
「あんたが小夏ちゃんだね?」
「はい」
「あたし、あんたの荷物を運ぶことになってるんだけど、ついでに箱庭町まで一緒に乗ってく?」
箱庭町へは電車やバスを乗り継いで行く予定だった。乗り継ぎを繰り返して苦労して行くよりも、車一本で行った方が遥かに効率的ではあるだろう。小夏にとってはありがたい、魅力ある提案だ。だが、今日初めて会った女性を信用しても良いものか…。助けを求めて父を見ると、小夏の考えていることを見て取ったのか「この方は箱庭町に住んでいる、僕の古い友人なんですよ」と言葉を続ける。
「僕も全国を旅している時期に箱庭町へ行った時、お世話になった方なんです。母さんの親友でもあります。うちの子達が生まれた時、ご祝儀も送ってくださって…お世話になりっぱなしで、このご恩をどう返せばいいのやら…ご祝儀のお返しだけではまるで物足りないのです…。いえ、話が逸れましたね。僕は信用している方です」
父の話を聞きながら、女性は軽快な笑い声を上げた。
「警戒心が強くて良いねぇ!女の子はそうでなくっちゃな。あんた子育て上手いじゃないか!立派なもんだ」
と父の背中をバンバン叩く。噎せて軽く咳をする父を見て、あははは!と尚更声を上げて笑う女性。父も怒るでもなく、困ったように笑った。迷惑だと思っている風ではなく、心の底からとても嬉しそうな雰囲気が伝わってくる。
仲がとても良いんだな、と小夏は思った。お互いに気を許し合い、心の底から笑い合える。素敵な関係性だ。
「小夏ちゃん、心配ならこれ渡しとくよ」
女性はポケットに入れていたヨレヨレの財布の中から、1枚のカードを取り出した。運転免許証だ。
「あたしの身分証明書。ちゃんと本物だよ。あたしが何かあんたに危害を加えたら、これ持って警察に行きなさい。危害なんて加えないけど…まあ、口だけなら何とでも言えるからねー。あ、くれぐれも失くさないでね。これが失くなったら仕事に支障が出て困るんだよ。これでどうかな?」
小夏は運転免許証を受け取り、再び父を見た。父はニコリと笑ってうんと1つ頷く。
小夏も頷いた。父が気を許しているし、ここまでしてくれるのであれば、信用しても良いのかもしれない。失くさないようにハンカチに包み、肩から下げていたバッグに入れる。
「あたしが1つでもあんたに嫌なことをしたら、すぐスマホで警察に電話するんだよ。ま、そんなことするつもりはないけどね。あんたの母さんと父さんのこと、大好きだからさ。裏切るような真似はしたくないね」
軽快に笑っていた時とは打って変わって、女性は真剣な顔で、ゆっくりと、まるで小夏と家族に誓うように言った。そこまで言うならば、と小夏は
「はい、よろしくお願いします」
と深々と頭を下げた。
女性はニカッと笑って
「任しとけ」
と親指を立て、それから
「じゃ、その荷物をこっちに。あんたは家族にしっかり挨拶してきて。自分のタイミングでトラックに乗ってね」
小夏の持っていた、重たい古びたトランクケースをさっと受け取り軽々と持ち上げ、駐車場に停めていた小型のトラックに、これまた軽い足取りで運んで行った。普段から力仕事をしている者の、しっかりとした確かな足取りである。
…似ている、と思った。小夏はこの足取りをする者をもう一人知っている。農家であり、いつも冬森家のことを第一に考えてくれる者。強く、優しく、小夏を見守ってくれる者。
小夏はその者…父に向き直った。
「夏ちゃん」
いつも通りの落ち着いた優しい声音で、父は小夏に呼びかける。
これだけで、別れの時間が近づいていることを悟った。
「はい」
父の呼びかけに、返事をする。
「どうか体に気を付けて。無理をしないように。辛くなったら、耐えるんじゃなくていつでも声をかけてくださいね。その時は箱庭町へ飛んで行きますから」
「はい、ありがとうございます。毎日電話しますね。手紙も書きます」
「うん」
父は頷くと同時に鼻をズズッと啜った。よく見てみれば、穏やかな両の目に涙が溜まっている。流すのを必死に堪えているようだ。それにつられて小夏もまた泣きそうになったけれど、これから知らない町に一人きりで行くのだ。本人が不安がっていては、余計に心配をさせてしまうに違いない。父の隣にいる兄が再び「考え直してよ」と言ってしまうかも、そして姉が怒り出して兄の頭を叩くかも。
小夏は泣く代わりに、ニッコリと笑った。
皆を安心させるために、そして、再び沸いてしまった小夏自身の不安と寂しさに蓋をするように。
「ああ、そうだ。夏ちゃん。これ、よければ持っていってください」
父は首の後ろに手を回し、着けていたネックレスの金具を外しながら言った。
シャラリと金属の軽い音。差し出された大きな手の隙間から、ネックレスの少し寂れた金色の細い鎖が垂れ下がっている。小夏が両手を広げて差し出すと、父がその上にそっと手を重ねてきた。
父の手が離れると、鎖と同じく寂れたような色合いの金色のロケットネックレスが姿を現す。
本の形のロケットだ。確か、蓋を開けると写真を入れられるような作りになっていたはず。本の右上の部分には、花の装飾があしらわれている。蓋を開けると、写真は入っていなかった。実はこのロケットには、今まで一度も写真が入ったことはない。理由は分からないが。
「…いいのですか?これはお母さんの…」
「うん。お守りの代わりに」
「ありがとうございます」
小夏は礼を言い、すぐにネックレスを身につけた。普段からアクセサリーを着け慣れていないせいか、ネックレスは小夏の首に小さな違和感のある重みを伝えてくる。…これからずっと着け続ければ、きっとこの重みも気にならなくなるに違いない。
ネックレスに手を当て、息を深く吸って深く吐いた。
「似合ってるじゃん。失くさないようにね」
姉がニコッと笑って言った。続けて兄も
「夏ちゃんを守ってくれますように」
と願掛けをしてくれる。
「ありがとうございます、お姉ちゃん、お兄ちゃん」
「高校生活、楽しんでね」
「きっと毎日が楽しくなるよ」
「はい。がんばります!」
小夏は笑って、飛びつくように姉の背中に両腕を回した。姉が「わっ」と驚いたような声を上げたが、すぐに腕を小夏の背中に回してくれる。ギュッと抱きしめると、姉も小夏を抱き締める両腕に力を入れてくれた。満足するまでひとしきり抱擁したあとは、兄と父にも同じように抱擁する。
3人への抱擁が終わったあと、小夏は3人の家族越しにチラリと家を眺めた。15年間当たり前のように過ごしてきた我が家。少し古い日本家屋だが、住心地は抜群。家の中はいつでも温かかった。笑い声が絶えなかった。小夏の中で、楽しい思い出が溢れ出す。
ふと、小夏の部屋の窓から、母がこちらを眺めているのが見えた。ニコニコと穏やかそうに笑って、こちらに向かって手を振っている。小夏は大きく手を振り返し、よく聞こえるように大きな声で
「行ってきますねー!!」
と叫んだ。母はうんと1つ頷き、目元に浮かんだのであろう涙を拭う仕草をした。
直後
「え?」
と。父の声が上がる。姉と兄も先程の優しげな顔とは一変し少し戸惑ったような表情になった。父が背後にある家を振り返って、凝らすように目を細める。
小夏は「ああ、しまった」と思ったが、誤魔化すように3人に「あ、あの、もう一回ハグ!させてください!」と半ば無理やりに先ほどと同じ順序で3人を抱き締める。3人は戸惑いながらも、先程よりも少し力を込めて小夏を抱きしめてくれた。
「あの、では、そろそろ…行ってきます!」
小夏の元気な声に圧倒されながらも、3人は声を揃えて
「いってらっしゃい!!」
と笑って声をかけてくれた。
小夏は後ろ歩きで、3人に手を振りながらトラックへと向かった。途中、地面に転がっていた石に躓きかけ、3人をハラハラさせてしまったが…それでも、最後まで3人から目を離すことなくトラックへと辿り着く。
トラックのドアを開けると
「十分に挨拶した?」
と声がかかった。女性は小夏達が最後の挨拶をしていた時、スマホで動画サイトを眺めていたらしい。スマホから軽快な音楽と、配信者のハキハキとした声が漏れ出ている。
家族の団らんを、他人の自分がまじまじと眺めるべきではないという気遣いをしてくれたのだと小夏は気づく。
「はい。2回もハグしてしまいました」
そうか、と満足そうな返事。続いて
「ハグはたくさんすればするほど幸せになれるんだよ。良いことさ」
女性はニッコリと笑う。小夏も笑った。
トラックのドアを閉め、小夏は窓を全開した。「頭気をつけなー」という運転席からの声にはいと1つ返事をして、小夏は頭を窓の外に出した。窓枠に頭をぶつけて女性に「言わんこっちゃない」と笑われてしまい、エヘヘと苦笑を返しつつ家の方向へと顔を向ける。
こちらに向かって大きな声で小夏の名前を呼び、大きく手を振ってくれる家族に向かって手を振り返した。
トラックのエンジン音が響き、発車する。
…いよいよ、だ。
「行ってきまーす!!」
と声を張り上げれば
「いってらっしゃーい!!」
と力強い家族の声が響く。
家が見えなくなるまで、家族の姿が見えなくなるまで、小夏は家に手を振り続けた。
さて小夏の家から少し離れた場所に、桜が植えられた小さな道がある。トラックは冬森家の駐車場から出発してわずか1分後、その道に差し掛かった。
道、といってもコンクリートできっちりと整備されている道ではなく、砂利が敷き詰められた簡易的な道である。進む度に、ゴトンガタンと派手な音を立てて車体が大きく揺れた。
毎年、この時期になるとこの道の桜は一斉に咲く。今年も例外無く、全ての桜の木が満開になっていた。薄いピンクや白の花びらが風に舞い上がり、はらはらと儚げに、クルクルと踊るように辺りに舞い散って、地面に美しい色合いの絨毯を作るのだ。
小夏はこの道が大好きだ。写真に撮り、部屋に飾っておくほど大好きな場所の1つ。今までは春になると、毎日のようにこの道を歩いたものだ。柔らかな春の絨毯を歩き、春の陽気を浴びて鼻歌を口ずさみながらスキップをしていた。スキップによって舞い上げられた桜の花びらは、小夏の足元でヒラリと身を翻していた。
しばらくこの桜達とはお別れとなる。再び少し寂しい気持ちになり、小夏はトラックの助手席で小さくため息をつく。
それを聞き逃さない運転席の女性が「大丈夫?」と声をかけてくれた。
「大丈夫です」
「寂しくなっちゃった?」
「……」
隠しても意味がないだろう。先ほど兄が言っていた通り、そして数分前に無理やり家族にハグをして誤魔化しなんとか事を切り抜けた通り、そもそも小夏は隠し事や嘘が上手い方ではない。
「はい…」と素直に頷いた。
「そうだよね。15年?も過ごした家と故郷だし。寂しいのも無理はないよ。しかも未成年だし。知らない町に行くのも不安だよね」
「はい…」
「でもね、大丈夫さ。こういう時は、根拠なく大丈夫って思えばいいよ。あんたの不安は自分の中で作り出したものであって、何1つ始まってもない。だから、大丈夫で上書きしちゃえば良いんだ。それと寂しいと感じるいうことは、それほどあんたがこの村を愛しているってことだよ。それならば、また戻れる。あんたはこの故郷にいつでも帰ることが出来るのさ。帰る場所があるのは幸せなことだ。帰るまでは、田舎の外で修行でもしちゃおっかなーって、軽い気持ちで過ごせばいいよ」
「…ふふ、そうですね」
確かに、と思った。女性の言う通りだ。ここには小夏の家族がいて、帰りを待ってくれると言っていた。大好きなこの田舎も自然もこの地に存在してくれる。彼らはいつだって、優しく小夏を受け入れて帰る場所となってくれるだろう。それまでは、この帰る場所への思いを胸に秘め、遠い地で学業に励めばいい。
「元気出た?」
「出ました。ありがとうございます」
「いいってことよ。ま、でも箱庭町に着いたら寂しさなんて一瞬で吹き飛んでしまうかもしれないねー」
「一瞬で…?」
「だってあの町、年中騒がしいところだし」
「そうなんですか」
「うん。もしかして、父さんから箱庭町については何も聞いてない?」
「面白いところ、としか…。受験の時も行ったんですけど、緊張しすぎて町のことは全然記憶に無いんです」
「面白いところ、ね。確かに面白いね。変な奴らが大勢住んでるし。そうだねぇ、何かに例えるなら…」
「例えるなら?」
「不思議の国。童話でアリスが落っこちたとこ」
ーーー同時刻、冬森家前にて。
トラックが見えなくなるまで手を振っていた家族は先程可愛い末っ子を送り出した時とは打って変わり、各々が戸惑った表情を浮かべて小夏の部屋の窓を眺めている。
やがて
「お父さん」
と姉が父に顔を向けた。父も姉を見返す。
「うん」
「さっきのことなんだけど」
「うん」
「小夏…1回目のハグした後、誰に向かって手を振ってたの?」
その問いかけに父は首を傾げ、続いて兄を見た。兄は小夏の部屋の窓をじっと眺めているが、姉と同じく戸惑っている表情で、何かを知っている様子ではない。
父は顎に手を当ててしばし思考したが答えは出るはずも無く。
「さあ…?」
と1つ、返事をした。
一方その頃、主のいなくなった小夏の部屋の中で。
1つの小さな光の玉が、部屋の中でふんわりと浮いていた。
光の玉は意思を持っているかのように上下左右に移動しながら小夏の部屋を徘徊する。その様子はまるで、この部屋の主の思い出を辿っているようだった。
机、椅子、壁のテープ跡、中身が少し減った本棚、小夏がよく転がっていた床ーーーと、順番に徘徊していく。
光の玉はしばらく小夏の部屋を彷徨いていたが、やがて部屋から廊下へ、廊下から玄関に近い部屋ーーーリビングへとゆっくりと移動する。
しんと静まり返った、家族団らんの場。その隅に、小さな仏壇が備え付けられていた。立派というわけでは無いが、小綺麗で清掃が行き届いており埃1つ残っていなかった。早朝に小夏が一生懸命掃除をしてくれたおかげである。
光の玉は迷うことなく仏壇へと向かい、やがて跡形も無く消え失せた。
何の気配もなくなったリビング。その天井近くの長押に飾られた写真には、ピンクのリボンで長い髪を1つに結わえ、薄手のセーターを着てショールを羽織った女性が、一人優しく微笑んでいた。




