0089.千年の重み
視点:アノン
「ち、父上!!」
素数など数えている場合ではないのじゃ!!
父上の腕が、灰のように崩れかけておる。
あの女……知恵の紫が、
父上の腕を“土へ還す”ように掴んだ瞬間、
妾の胸が凍った。
妾の杖は握り締められ、
魔力は喉まで上がっておるのに、
父上の合図一つで動けない。
動いてはならぬ。
父上が言う“素数を数えよ”は、
妾を守る命令でもあるのじゃ。
だが、そんな妾なんぞなんのその。
父上の声は変わらず、穏やかじゃった。
父上は崩れかけた腕を一度見下ろし、
アメシストの手を払うように振り解いた。
指先が砂を散らすみたいにほどけて、
けれど父上は眉一つ動かさぬ。
「安心しなさい、アノン」
父上はそう言って、
自分の腕へ保持の法術をかけた。
父上の指輪がきらりと光る。
目に見えぬ鎖で
骨と肉を繋ぎ留めるような感覚が走る。
続けて循環で崩れた“形”が元へ戻っていく。
血が滲んでいたのに、
その血すら吸い込まれるように消えていった。
「少し、腕が欠けちゃったね。
血が滲むよ。ははは」
冗談めかして笑う父上。
けれど、妾は笑えぬ。父上の腕が欠けた。
それだけで胸が痛いのじゃ。
「ふははは! 何が起きたかわからないだろう?
これが知恵あるものに挑んだ無知の咎だ!」
「いや、正直驚いたよ。
私が負術に気づき、辿り着いたのに
百五十年ほどかかったのに。
君はまだ若いのに随分と優秀だ」
アメシストが、目を細める。
苛立ちが、目の下をぴくりと動かす。
「……なんといった? 今」
父上は、まるで講義のように優しく言う。
「いや、だから。負術だよね?
そんな高度な法術を使えることに、
素直に驚いているよ」
「知っているというのか? 負の法術を」
妾は心の中で鼻を鳴らす。
父上が知らぬわけなかろう。
……妾は使えんがの。
そして、父上は淡々と説明を続けた。
「勿論。法術を正ではなく負で使う逆の作用。
火は抑制、水は混乱、土は崩壊、風は滞留。
簡単には到達できないし、使える者も少ない。
さっきも言ったが、私が理論を理解し、
展開し、実用まで持って行った時には……
ゆうに百五十歳を超えた頃だ」
百五十。
妾の感覚ではもう意味不明な数字なのに、
父上にとっては“頃”で済むのが恐ろしい。
父上は言葉のままに動いた。
活性と循環で身体を軽くし、
足運びは滑るように。
けれど、軽いだけではない。
踏み込みの一歩に“保持”が入っておるのが、
妾にも分かった。崩れぬ芯を携えた軽さ。
アメシストも応えるように動く。
が、足がもつれた。
まるで自分の脚の位置が
分からなくなったかのように。
無様に地べたへ転がっていく。
父上が静かに告げる。
「混乱。君の運動神経を狂わせてもらったよ。
思ったように動けないはずだ」
「な、なんだと!?
だが、この程度、調和で!!」
アメシストが術式を組もうとした瞬間、
ハッと、顔色が変わった。
息を吸うのに躊躇うような、焦りの目。
父上が微笑む。
「滞留。君のマナを滞らせてもらった。
もう魔法は使えないんじゃないかい?」
「ぐあああああああっ!!!」
父上は容赦なく踏み込み、
転がるアメシストを蹴り上げた。
重いのに、速い。
骨が鳴る嫌な音がした。
妾の喉が勝手に鳴る。
父上の蹴りは、妾の火球よりよほど恐ろしい。
「抑制。君の筋肉を弛緩させた。
おかげで、綺麗に入っただろう?」
アメシストが天井近くの壁に跳ね返り、
重力を帯びて落ちた所へ、父上は掌底で追撃。
衝撃が壁を震わせ、無惨に激突する。
そして、アメシストの身体の輪郭が、
わずかに崩れ始めた。
土へ。砂へ。灰へ。
さっき父上にしたことが、今。
あやつへ返っていく。
「崩壊。君が私にしたことだ。
因果応報……だね」
「あぁ……、あぁ……!!
なぜ、何故だぁ!!」
父上はにっこりと笑う。
優しい笑みなのに、逃げ道がない。
「何度も言うよ、君は大したものだ。
私より優れているかもしれない。
……だが、単純な話だよ」
何でもないような声で、父上は続けた。
「私がその理論に気づいたのは百五十歳ほど。
……今から千年以上前の話だ」
千年郷。
父上の声が、遺跡の冷気の中で重く響く。
「一言でまとめれば……年季が違う。以上だよ」
これだから、父上はかっこいいのじゃあ!!
妾の胸が、誇らしさでぱんぱんになる。
だが、その瞬間。
あの、湿った声が滑り込んできた。
「ふふっ、失礼しますね? ゼノン様」
背筋が凍る。
さっき遺跡に入る前にも聞いた、おぞましい声。
父上が振り返る。
「慈愛の緑。また君かい?」
エメラルドが、くすりと笑って言葉をつなげる。
「この方を連れていくのも私の仕事なので。
でなければ愛でなく、愛無くしては愛は語れず、
愛の証明の為、愛を持って彼女を……」
「話が長いよ」
父上は遠慮なく火炎弾を放った。
無詠唱。
妾の本気より濃い熱量が、空間を一瞬で焼く。
だが、炎は途中で“ほどけた”。
何かに相殺され、燃え広がらず消える。
次の瞬間、エメラルドの姿も、
アメシストの姿も消えていた。
残ったのは、声だけだ。
「ふふっ、貴方達の素敵な親子愛。
私よりも娘様を守るゼノン様の愛を。
……私は、愛してます♡」
意味がわからぬ。
どういうことじゃ。
気づけば父上が妾の前に立っておった。
妾を背に庇う位置。いつの間に。
「まったく……抜け目のない女だよ」
父上はそう言って、妾の頭を撫でた。
「心配しなくて良い。
もうエメラルドは遠くだから」
父上の視線が、妾の背後を見ている。
……そういうことじゃったか。
妾を人質にするつもりなら、
父上は迷わずこちらを守る。そう踏んだのだ。
「……手を出せば、
妾に攻撃してたと言うことじゃな?」
「そんなことないよ、アノン。さぁ、いこうか」
父上は、優しい。
いつも、優しい。
じゃから……悔しいのじゃ。
妾は、まだ守られる側にいる。
父上の隣で戦うと言ってくれたのに、
結局父上の背中の後ろだ。
妾は唇を噛み、父上に手を引かれて歩き出す。
アメシストが残した古代機巧大蛇の停止。
父上が抑え、妾が術式を補助する。
できることを、やる。
次は、妾も。
いつかは、守る側に立つのじゃ。
◇
視点:俯瞰
「はなせ、エメラルド!!」
遺跡の別の通路。
命を失いかけたアメシストが叫ぶ。
身体の輪郭は崩れかけ、呼吸は浅い。
だが目だけは憎悪で燃えていた。
「ふふっ、無理はしないでください。
愛を愛のまま受け取ること、それも愛ですから」
エメラルドは穏やかな微笑みで、
アメシストの肩を支えるように見せかけていた。
その指先が、逃げ道を塞ぐ。
「離せと言っているだろう!!」
アメシストは必死に振り解き、
よろめきながら自己治癒を始める。
マナの残滓が、紫の霧のように滲む。
「アイツら……許さない!
よくも私を虚仮にしてくれたなッ!」
その様子を見て、エメラルドは笑った。
「何がおかしい、この馬鹿女が!!」
「いえ……やはり、
貴方はただの穴埋めなんだなぁって」
「はぁ!? 何を……うっ!!」
エメラルドの手が、
アメシストの首を掴み持ち上げた。
足が床を離れ、空を蹴る。
声が喉に詰まり、抵抗が鈍る。
「慈愛の美徳は私、エメラルド。
愛が貴方にないことに不満はありません。
ですが、貴方には体現すべき“知恵”がない」
「な……なにを……はな……せ……」
「私達、七彩の使徒に“忠誠”はいらない。
アイリス様への忠誠は個人の自由。
ですが、代わりに義務付けられたのは、
誰にも負けない美徳への誇りです」
アメシストの顔色が白んでいく。
血の巡りが、止められているのだろう。
瞳の焦点が揺れた。
そして、少しずつ干からびていく。
「貴方には知恵に対する誇りが、
……少しも感じられませんね?
貴方のはただのプライド。小さな、ね?」
「き……さま……同格のわ……たしに……」
「同格? 言ったでしょう?
貴方はヴィオラが戻るまでの代理の紫です。
それに、同格だなんてそんなそんな……」
エメラルドは微笑んだまま、
ローブのボタンを二つ外した。
胸元に刻まれた『II』の印が、
冷たい光を帯びる。
「穴埋めの貴方じゃ知らないですよね?
私はアイリス様より序列二位を授かった
『II』の七彩。誇りが違うのです」
アメシストの抵抗は弱まった。
声も、途切れがちになる。
そして、やがて動きが止まる。
エメラルドは、骨と皮だけになった
アメシストをそっと手を放した。
床へ落ちた音は軽かった。
「ふふっ、ごちそうさまでした♡
貴方の愛は私がこれから愛していきます」
彼女は、乾いた笑みで呟く。
アメシストの存在は、
もはや“道具”として処理されたのだ。
「自由の風……愛ある方々でした……。
また……愛(会い)たいですねぇ……♡」
誰に届けるでもない言の葉が、
遺跡の片隅に落ちる。
甘い声と、冷たい行い。
その矛盾が、虹の都の本質を示していた。




