0074.慈愛の緑
「ど、どうも」
とりあえず俺は、
条件反射みたいに会釈して挨拶を返した。
ゼノンさんとディアさんの空気が
あからさまに険しかったし、
出来れば深入りしたくない相手。
ってことくらいは、さすがの俺にもわかる。
……けど、してしまった挨拶。
それが引き金だったらしい。
「ふふっ、挨拶は愛の始まり。
貴方には愛があります。ヴェル様」
エメラルドは、胸の前でそっと両手を組んだ。
慈愛の微笑み、みたいな顔をしてるのに、
目の奥がぜんっぜん笑ってない。
「貴方には、アイリス様のもとで
私と共に“愛”を学べる素質があります。
従って、貴方の愛を深めるために──」
(やばい、なんか始まった──!!)
前世を思い出す。
ピンポーンと鳴った玄関を開けたら
ニコニコした人がいて、
気づいたら二時間くらい話を聞かされてた。
あの悪夢の再来である。
この人、絶対ああいう系だ。
どうしようかと
一瞬で思考のギアを上げた、その時──
「何を勝手なことを言っておるのじゃ」
横から、アノンがずい、と前に出た。
ローブを揺らして、顎をツンと上げる。
「此奴は妾の下僕。
貴様らのような狂人どもと
関わりを持たすつもりはない」
(おぉぅ……)
いや、待て。
いつ正式に“下僕”になった?という疑問と、
“狂人”に向かって「狂人」なんて
直球で言うなよっていうツッコミが、
頭の中で盛大に衝突する。
そして案の定──
「……狂人?」
エメラルドの微笑みが、
ぴきり、と音を立ててひび割れた気がした。
「私はともかく、アイリス様も“狂人”と?」
声のトーンは穏やかなままなのに、
周囲の空気がぐわっと重くなる。
空気の密度が上がったみたいに、
肺に入る息が急に苦しい。
「アノン様。貴方は
今、“狂人ども”とおっしゃいました。
私の敬愛するアイリス様を……
狂人呼ばわりするなんて!」
エメラルドの瞳が、ぞわりと揺れた。
感情が溢れ出す、というより、“濁った液体”が
じわじわ増えていくような、不吉な変化。
「愛に誓って。愛をもって。
愛に従って。愛を──!」
膨れ上がる“狂気”が、
目に見えそうなほど空間を歪ませている。
内側を冷たい針で刺されてる様な不快感だ。
(うわ、やっぱヤバい人だった!!)
そう思った瞬間──
「そこまでだよ、慈愛の君」
柔らかいはずの声が、
今は刃みたいに鋭く響いた。
同時に、風がうねる。
ぶわっ、と目に見えない何かが
エメラルドを殴りつける。
空気の塊に何度も叩きつけられているような
鈍い音が、連続して響いた。
「百歩譲ってヴェル君は良いとしても──」
(いや、譲らないで!?)
「アノンにその矛先を向けるなら、
容赦しないよ」
ゼノンさんの周囲で風が渦巻き、
目に見えない拳になって、
エメラルドの体をボゴボゴッ!!
と打ち据えていく。
その中には、どう聞いても
“骨が折れた音”が混じっていた。
「「えええええっ!!」」
俺とセリアの悲鳴が、ぴったり重なる。
忠告とか、穏便なやつじゃない。
普通にぶっ飛ばした。問答無用開幕パンチだ。
「大丈夫よぉ。
慈愛の緑には傷一つ残らないから♡」
ディアさんが、腰に手を当てながら、
笑ってのほほんと言う。
「いや、でも今ので多分、骨が──残らない?」
“つかない”じゃない。“残らない”だ。
つまり──
壊れても、元に戻るってことか?
ゆらり、とエメラルドが上半身を持ち上げた。
さっきまで床に叩きつけられていた体を、
何事もなかったかのように立ち上がらせる。
「あぁ……痛みによる愛……♡」
口元を押さえ、恍惚とした表情で
身をふるふると震わせている。
「ですが、その愛も──アイリス様の愛で。
そう、全てがすべて上塗りされていく……」
(ダメだこの人、ヤバい人“じゃない”。
物凄くヤバい人だ……!!)
「愛が私を作り、愛が私を動かし、
愛が私を染め、愛が私を許して、
私から──新たな愛が生まれるッ!」
ぐしゃりと歪んでいた腕の骨が、
内側から押し戻されて真っ直ぐになっていく。
わずか前まで頬を伝っていた血が、
まるで時間が巻き戻ったみたいに
傷に吸い込まれ、跡形もなく消えた。
完全に“元通り”だ。
「こんな素晴らしい愛を……。
貴方がたも、賜りたくはありませんか?」
さっきよりも深い笑みを浮かべて、
エメラルドが一歩近づいてくる。
(結構です!!)
と言いたい言葉も出ない恐怖。
もう怖すぎて、足が勝手に一歩下がった。
セリアも顔を引きつらせている。
アノンに関しては「う、うぬぅ……」と
唸りながらカルドの背中に半分隠れていた。
あのアノンが引くレベルって、どんだけだよ。
「ディア、殴り飛ばしておいてくれるかい?」
「了解よ♡」
ディアさんが一歩前に出る。
腰を落とし、拳を下から斜め前へ
──アッパー軌道の構え。
「じゃ、ちょっと散歩してらっしゃいな♡」
床を砕くほどの踏み込みと共に、
拳がエメラルドの鳩尾へ突き上げられた。
ドガァンッ!!
衝撃で地面がびりびり震える。
エメラルドの体が『くの字』に折れ、
そのままロケットみたいに……。
天へ向かって飛び上がった。
きりもみ回転しながら、
空の点になるまで舞い上がり──
そのまま森の奥の方へ。
流れ星みたいに落下していった。
……たぶん、また元通りになるんだろう。
それが余計に怖い。
「さぁ、行こうか」
ゼノンさんは、
いつも通りの穏やかな笑みに戻って言った。
もう完全に“終わったこと”として扱っている。
俺たちも、口を挟むタイミングを見失って、
ただ、うなずくしかない。
カルドは何も言わなかったが、
目は「関わりたくねぇ……」と
雄弁に語っていた。
こうして俺たちは、
半ば逃げるようにして拠点を後にし──
古代遺跡の暗い入り口へと、
足を踏み入れたのだった。




