9 信じることと信じてもらうこと
依然、二見れなの手掛かりは見つけられないままだった。私はその日の午後布団にうずくまって、ラジオのFM放送のクラシック番組を聴いていた。シューマンの「蝶々」だ。
電話が鳴った。いかに世間から隔絶されようとも、人との縁を完全に断ち切るのは難しいようだった。ここ最近で家に電話をかけてきたのはサキ、黒崎彩夏、吉名千那。女の子ばっかりだ。しかし電話の相手は声の低い男だった。篠原だった。
「今晩、サキ様がお前と共に食事をしたいそうだ」
彼は開口一番そう言った。
私もサキに会いたかった。「ありがたいね」
「午後六時にマンションに迎えに行く。恥ずかしくないよう、ちゃんと正装をしておくんだな」
「待ってくれ。二見れなのことは調べてくれたのか?」と私は慌てて言った。
「その件に関してはサキ様のほうからお話する」
電話の回線は切れ、ツーツーとビジートーンの音が、私の耳に虚しく響いた。
篠原は相変わらず黒いスーツを着て、黒塗りのSクラスで迎えにきた。私はまたダンヒルのグレーのスーツを着て、彼の運転するベンツの後部座席に座ると、車はゆっくりと加速した。道中、会話もなく、おそらくバックハウスの演奏するベートーヴェンのピアノソナタが車中にかかっていた。お互いに世間話をするほどの間柄でもなく、かける言葉さえも持ってはいなかった。無言。西の空には太陽が落ちようとしていた。街は夕日に照らされて赤く染まり、街路樹は燃えるように煌々とそびえている。西日は街の至るところに焼けつくような影を落としていた。ほどなくして、車はどこかのホテルの地下駐車場に停まり、私はエレベータに乗って上層のステーキハウスに通された。その最奥のVIPルーム——つまり完全な個室——でサキはテーブルの前に座って赤ワインのグラスを悠然と傾けていた。黒いワンピースに銀のブレスレットとネックレス。彼女は私を見ると篠原を退席させ、クールに微笑んだ。
「会いたかったわ」
私は黙って首肯した。
「まあ、座って。何を飲む?」とサキは訊いた。
私は彼女の向かいの席に腰を下ろした。「同じのを」
「オーケー」
サキは個室の受話器を取ってメニューをオーダーした。
我々の目の前には火傷しそうなくらい熱々の鉄板の皿が運ばれ、鉄板の皿の上にはこれまでに私が見たこともないくらいに分厚いフィレステーキが載っていた。400gはありそうだ。他にも温野菜のサラダに半熟卵が載ったピザもあった。完食できるのだろうか? 私は試しにフィレステーキにナイフを通してみた。柔らかい。そしてゆっくりと口に運んだ。
「美味い」と私はうなった。
「でしょ?」とサキは嬉しそうに言った。「やっぱり精をつけるなら牛の赤身よね」
「君はいつもこんなに高価なものばかり食べているの?」と私は赤ワインを飲みながら訊いた。
「まさか」と彼女は言ってナプキンで口もとを拭いた。「駅前の立ち食い蕎麦だって食べるわよ」
でもそれはなんだか彼女のイメージとはかけ離れていて、想像し難かった。
「この前だって、良心的な価格のお好み焼き屋に行ったじゃない」
「まあ、たしかに」
「美味しければどこだっていいのよ」と彼女は言ってステーキを口に運んだ。咀嚼し、呑み込むと、そっとワイングラスを摑んだ。「でも、今夜は特別」
私はナイフの手を止めた。「何が特別なんだろう?」
「あなた、馬鹿なの?」彼女は呆れたようにワイングラスを傾けた。「そんなのあなたと落ち着いて話をするために決まってるじゃない」
私は思い切って尋ねてみた。「私たちは付き合っているのかな?」
「世間的にはね」と彼女はあっさりとした口調で言った。それから茹でられたブロッコリーをフォークで刺して食べた。「少なくともあなたがわたしのボーイフレンドであることに変わりはないわ」
「そうだね」
「そうよ」サキは満足そうに肯いた。「食べましょう」
そのあと我々はたわいもない話をしながら食事をつづけた。サキはとにかく機嫌がよさそうに色んな話をした(と言ってもたぶん話せる範囲のことだろうけれど)。最近は養護施設にも出入りをしていて、子供たちは皆彼女を慕っているそうだ。そして困っている人を助けたいという彼女の信念には一点の曇りもないことを私は改めて確信し、感銘を受けた。また彼女はそれを成しうるだけの器と情熱と才能を兼ね備えている。使命と言ってもいい。あるいは大義名分があるのだ。おおよそ並大抵の人間にできることではないし、普通の人間はこうも不確かな「何か」のために行動はしない。彼女にはただただ明確なビジョンがあるだけなのだ。私はそこを尊敬し、また同時に助けになりたいとも思った。
ひととおり食事を済ませたところで私は切り出した。
「それで? 今日、私を呼び出したのは世間話をするためなのかな?」
「ううん」とサキは微かに首を振り、そのあとまたナプキンで口もとを拭った。「二見れなの話よ」
その瞬間、個室の空気は一変し、氷のように張り詰めたのを私は感じた。
「二見れなの件からは手を引いてちょうだい」
サキは開口一番そう言った。
「どうして」と私は言った。その声は乾いていた。
「こんなふうに言うと白々しく聞こえるかもしれないけれど、あなたのためを思って言っているのよ」
「でも彼女は私に助けを求めているんだ」
「すごい自信ね」
「自信なんてないさ。ただ約束したんだ」
「約束」と彼女は噛み締めるように言って頬杖をついた。「でも深入りすると、命の保証はないわよ」
「かまわない。どうせ病気によって一度死んだような身だ」
「ふむ」
彼女はしばらくひととおり考えているようだった。そして、
「二見れなの住所は特定している。でも彼女はある日忽然と姿を消した」
と断言した。
「住所は特定している?」と私は聞き返した。「姿を消したって、行方不明ってこと?」
「そう」と彼女は言ってあごを上げ、赤ワインをひとくち飲んだ。そしてもう一方の手のひらををぱっと上に開いた。「まるで煙のようにね」
「もっと詳しく話を聞かせてもらえないかな?」
サキは装飾のついたポーチからピアニッシモを取り出して、口に一本咥えると、金のライターでその先端に火を点けた。そのままゆっくりと息を吸い込み天井の換気扇に向けて煙を吹いた。
「バックには黒い組織がついているかもしれない」
「暴力団ってこと?」
「いえ」と彼女は言った。「もっと禍々しい、力を持った光の住人たち」
「ちょっと待って」と私は言った。「もっと順を追って説明してくれないかな?」
「仕方ないわね」と彼女は言って、灰皿に煙草の火を丁寧に落として消した。
「二見れなはうちの運営するマンション——というか保護施設——〈サギス・ハウス〉に四年前から入居していた。覚悟して聞いて欲しいのだけれど、彼女は幼いころに母と死別し、父とは長いあいだ二人暮らしをしていて、その実の父に幼いころから毎夜暴行されていたの。露骨な言い方をすれば、強姦されていたのね。彼女の父は弁護士。それもかなり名うての有名人よ。二見創成って言えばわかるかしら? インターネットで検索すればすぐに出てくるし、テレビのコメンテータもたまにしている。二見れなは四年前のある日、着の身着のままでうちを訪ねてきた。どこかで〈サギス・ハウス〉の存在を知ったみたいね。もちろん即刻保護したわ。彼女の父親を訴えようともしたのだけれど、相手は有能な弁護士で、しかも政治家や警察、財界にもつてがあるときている。そして黒でも白に変えるのが生来の仕事なのよ。それに彼女自身が居場所を知られるのを怖がった。だから二見れなの望むとおりに平穏な生活を与えてあげたの。もちろん最低限必要な物資や費用も提供したわ。ちなみに彼女が来ていた服の半分はわたしのお下がり。でも一週間前に彼女のマンションの部屋から——衣類やら日用品やら——一部の荷物が消えていた。消息を絶ったのよ。わたしもずっとあの子の居場所を探している。可能な限り力になってあげたい。どう? 信じられる?」
私はサキの瞳を見詰めながら、息を呑んでずっと黙っていた。いつの間にか拳を堅く握っている。私は静かに口を開いた。
「信じるよ」
*
黒崎彩夏に会いたい。
翌朝、私は無性にそう思い、彼女の携帯電話の番号に電話をかけた。電話の回線はすぐに繋がった。
「元気?」と私は言った。
「元気はつらつだよ」と彼女は言った。「ファイトー、いっぱーつってね」
ああ、これだ——これを求めていたんだ、と私は安心した。
「会いたいな」
「この女たらしめ」
私は動揺した。「こんなこと誰にでも言ってるわけじゃないよ」
「本当かなあ?」と彼女は訝しげに訊いた
「本当だよ」と私は真剣に答えた。
「よし」しばらくすると黒崎彩夏は肯いた。「君を信じよう」
「ありがとう」
「その代わり、もし裏切ったら、あとで絶対に殺すからね」と彼女は笑った。
私も笑ったが、声にはならなかった。
「お待たせ」
待ち合わせしたU駅の駅前に彼女は意外にも清楚な恰好で現れた。黒いブラウス、コーラルピンクのフレアスカート、ピンクベージュの革のサンダル、ダークブラウンのハンドバッグ。髪をアップに纏め、金のイヤリングまでつけていた。私は緊張して一寸声を失った。
「どうしたの?」と彼女は言って、私の顔を覗き込んだ。
「なんでもない」
「そ? 行こ」
私は黒い柄もののシャツ、オリーブ色のチノパンツ、ナイキのバスケットボール・シューズという恰好だった。なんだか申し訳がない気がした。これでは私がまるで彼女につり合っていない。
その日は日曜日だった。
「どこに行こうか?」と私は訊いた。
「何も決めてないの?」と彼女は若干呆れたように言った。
「うん」
彼女は考えた末にひとこと言った。「映画館」
我々は近くの映画館に行った。休日なので家族連れも多く、混雑していた。彼女は最近流行っているアニメの映画が観たいと言ったので、そのチケットを購入することにした。
券売機の前で私は、
「ちょっと待って」
と言って、障害者割引のチケットを二枚買った。
「君、障害者なの?」彼女は少し驚いた様子だった。
「うん、まあ」
「意外。全然そんなふうには見えないな」
「よく言われるよ」
映画を観ている最中も私は微かな緊張を抑えきれなかった。彼女を意識してしまって、映画が終わるまでずっと、私の胸はまるで思春期の中学生の初デートみたいに、最高潮に高鳴っていた。