8 マクドナルドのチーズバーガーは美味い
その日、ニコはミッキーズ・バーでいたく上機嫌にいつもどおりにコーク・ハイを飲み、煙草をひっきりなしにすぱすぱと吸っていた。いつの間にか髪を金髪にし、髭を生やしていて、それはお世辞にもあまり似合っているとは言い難かった。
「えらくご機嫌じゃないか?」と私は言った。
「まあね」とニコは満足げに首肯した。
「愛人でもできたか?」
「まさか」
「じゃあ愛人とうまく縁を切れたか?」
「ちょっと待て、なんで話を愛人に限定するんだ?」と彼は眉をしかめて言った。そのあと嬉しそうに、
「ちょっと競馬で大勝ちしてね」
「へえ、いくら?」
「五十万ほど」
「そりゃすごい」
「だから呑もうよ。今日は奢るからさ」
「いいね」
ニコは紺とえんじ色のサッカーシャツにフィラのスウェットパンツ、クロックスの赤いサンダルという恰好だった。私はソニック・ユースのバンドTシャツにライトグレーのショートパンツ、ナイキのスケーター・シューズだ。我々はチーズの盛り合わせと卵のサンドウィッチとポップコーンを食べ、酒を飲み、煙草を吸った。
「あれ以来奥さんとはうまくいってる?」と私は尋ねてみた。
「まあ、なんとかやってるよ」とニコは歯切れ悪そうに答えた。「ただ、俺の趣味にケチをつけてくるんだ」
「どんな趣味?」
「フットサル」と彼は言った。「あと競馬、競輪、競艇、パチンコ、パチスロ」
「あ、フットサルだけでいいかも」と私は呆気に取られながら言った。「よく破産しないな」
「こう見えても研究熱心なんだ。今日だって儲かったし、去年のギャンブルの収支もプラスだよ」
「ふうん」
「勉強してれば、ちゃんと儲かるようにできてるんだよ」と彼は得意げに言った。「ところでカメ、お前の趣味はなんなんだ?」
「月並みだけど、読書と音楽観賞だね」
「本なんてただの一冊も読み終えたことないね。面白いか?」
「ひっくりかえるほど面白い小説もある」と私は言った。「ごく稀にね」
「そんなものなのか」
「そんなものだよ」
そして我々は音楽の話をしたが、お互いに共通して聴いているアーティストはひとつとして見当たらなかった。店内にはデューク・エリントンの「ザ・ポピュラー」がかかっていた。
「バーに来ているのに、ジャズを聴かないのか?」と私はいちおう訊いてみた。もちろん、そういった人間が世間の大半なのは心得ている。
「聴かないな。ぜんぶ同じに聴こえるからな。正直に言えば俺は単に雰囲気を楽しんでいる。別に中身なんてどうだっていい」
私はそれについて少し考えた。「それって虚しくないか?」
*
電話の音で目が覚めた。時計を見ると時刻は正午過ぎだった。私は起き上がって電話に出た。
「もしもし」と私は口籠りながら言った。
「もしかして、寝ぼけてます?」と電話の相手は言った。若い女の声だった。
「うん」
「もうお昼ですよ。いったいどんな生活をしているんですか」と相手は呆れたように言った。
「ところで君は誰なのかな?」
「吉名千那って言ってわかります? 図書館の司書をしている――」
「ああ」と私は声を挙げた。図書館の受付をしていた女の子だ。名札にも「吉名」と書いてあった。「おはよう」
「こんにちは」
「何かわかったんだね?」
「少しだけですが」
「教えてくれないかな?」
「今仕事の昼休みに電話をしているので、午後五時に図書館にきてくれますか? 早番なので仕事が終わります。迎えにきてください」
「わかった」と私は肯いた。
午後五時前に徒歩で図書館に行き、吉名千那を迎えにいった。空いちめんが鈍色だった。空気からは微かに雨の匂いがする。
図書館の受付カウンターに吉名千那はいた。
「やあ」と私が声をかけると、彼女はにこやかに小さく首肯した。「外で待っててください」
図書館の出入口で待っていると、十五分後に吉名千那は現れた。白と黒のボーダーのTシャツにサスペンダーつきの紺のジーンズ、アディダスの黒いスニーカー、ノース・フェイスの黒いリュックサックといった恰好だった。見事にカジュアルダウンされていて、私は一寸誰だかわからなかった。
「なんですか? じろじろ見て。警察呼びますよ?」
「いや、よく似合ってるよ」
「そうやっていつも女の人を口説いているんです?」
「違う」
「まあ、いいです」彼女は溜息をついた。「行きましょう」
我々は吉名千那のお勧めするつけ麺屋に行って、早めの夕食を取りながら話をした。
「実はわたし、ずっとお腹空いてたんです」と彼女は言った。
吉名千那の話によると丁度最近まで何度かアッシュ・グレーの髪の長い女が図書館に出入りしていているのを他の職員が目撃していたらしい。図書館のデータベースで彼女に関する貸出履歴を検索すると名前と住所も判明した。名前は二見れなだった。私の努力は徒労に終わってはいない。いくらかは彼女の痕跡に近づいているのだ。少しだけでも報われた気持ちになった。
「ほんとは他人に洩らしちゃいけないことなんですからね。ばれたらわたしは確実に仕事をクビになります。絶対に他言はしないでくださいよ」と彼女は笑顔を崩さず、念を押すように口留めした。
「約束する」と私は神妙に答えた。「二見れなの住所は教えてもらえないのかな?」
「駄目です。あなたが信用に足る人だと判断できるまでは」
私は苦笑いした。「誠意努力するよ」
つけ麺屋から出ると、外は小雨がぱらついていた。吉名千那はリュックサックから水色の折り畳み傘を取り出して開いた。
「一緒に入ります?」
「いや、いい。家まで走って帰るよ。今日はありがとう」
「どういたしまして」と彼女は言って微笑んだ。
それはいつもの作り笑いではないように私の目には映った。
*
それからしばらくは何も進展がなかった。まるで時計が止まったかのように空白のときを私は過ごした。電話も押し黙るようにして沈黙し、私は家にずっといた。本も読まなかったし、音楽も聴かなかった。食事もろくに取らなかった。私はカナディアンクラブをロックで飲みながら、ただクロード・モネの「睡蓮〈イエロー・ニルヴァーナ〉」のポストカードを眺めて、ぼんやりと何事かに想いを馳せるのみだった。
吉名千那に信用してもらうにはどうすればいいのだろう? 彼女は二見れなの住所を知っている。でも頻繁に図書館に顔を出して話しかけたら彼女は嫌がるかもしれない。
また篠原は二見れなのことを調べてくれたのだろうか? もし情報を得ていたとしても、向こうから連絡してくれるのだろうか? 正直、私には彼がそこまで親切な人間だとも思えなかった。
改めてサキは今頃どうしているのだろう? もう私のことなんて忘れてしまったのだろうか? サキに会いたいと私は思った。会って話がしたい。どんな話だっていい。彼女のことをもっと知りたい。でも用事もなく彼女の事務所に行くのも気が引けた。それに事務所に行ったところで会えるとも限らないのだ。彼女は仕事をしていて、尚且つとても忙しい。
私はダン・シェイティーズのサングラス、近所のスーパーマーケットで買った白いプリントTシャツと柄物のショートパンツに着替え、スリッポンを履き、歩いて埠頭に行った。海を眺めるために。
外はまだ真夏のような陽射しが照り付けていた。海の臨める芝生の上には朝露が星くずを蒔いたように煌めいていて、私はそこに腰を下ろし、港に停泊している大型貨物船を見やりながら、きしなにコンビニで買った缶ビールの栓を抜いた。そうしてTシャツを脱ぎ、寝転んで日向ぼっこをした。
しばらくすると顔の上に感触があった。何者かに舌で舐められている。どうやら私は眠り込んでいたらしい。
「こら、チロ、やめろって」と声がする。
目を開けると、リードに繋がれたポメラニアンが私の頬を舐めまわしていた。
「悪いね。起こしちゃって」とリードを持った青年が申し訳なさそうに言った。
それがのちに私にとって生涯の友となる悠比との出逢いだった。
「俺は姫川悠比。悠比って呼んでくれ」と悠比は言うとにかっと白い歯を見せて笑った。「そっちの名は?」
「亀井開」
「変わった名前だな。人のこと言えないけど」と悠比は言って苦笑した。「じゃあひらくって呼ぶ」
悠比は三匹のポメラニアンを連れていた。
「こら、ニロ、サロも、大人しくしてな」
「三匹も犬を飼っているんだね」と私は言った。
「いや、うちにはあと二匹の猫と一羽のオウムがいるぜ」と彼は得意げに言った。「しかしこんなところで上裸で昼寝とか、ひらくはずいぶんとファンキーなんだな」
「単に暇を持てあましているだけだよ」
「だったらちょっと付き合えよ」
「なんで?」
「うちの犬どもは臆病な分、賢いからな。優しい人間にしか絶対に近寄らない。ひらくとは仲良くなれそうだ」
「私は優しくなんてないよ」と私は言った。
しかし三匹のポメラニアンは私を取りかこみ、無邪気に尻尾を振っていた。
私は犬のリードをひとつ渡されて、一緒に海沿いの埠頭を散歩した。
悠比は一見どこにでもいるような普通の青年だった。中肉中背、黒髪のショートカット、黄緑色のボーダーシャツにオレンジ色のニット・ハーフパンツ、アシックスのカラフルなスニーカー。服装はいくらか派手だが、他に特徴的なところはほとんど見受けられなかった。そのままぐんぐん前を歩いていく。
「ここからの景色が一番好きなんだ」と彼は言って立ち止まって座った。
近くには高い建物がなく、見渡す限り青い海と空だ。
「悪くないだろう?」
「うん」
「ここに来る前に買ったんだ」と彼は言って、メッセンジャーバッグからマクドナルドのチーズバーガーを取り出して私に手渡した。「食えよ」
「いいのか? 君の分は?」
「もちろん、確保してある」悠比はチーズバーガーをもうひとつ見せて笑った。
我々は海を眺めながらチーズバーガーを食べた。その間、お互いのことを色々と話し合った。どんな幼年期を過ごし、どこの学校を出て、今は何をしているのか。親密にしている異性はいるのか、いないのか。今は何に興味があり、今後の夢はなんなのか。挫折した経験はあるのか。驚くほどにお互いがスムーズに――また淀みなく――会話をした。私は病気のことを含め、正直に話した。それが正しいと本能的に自分で察知したからかもしれない。その間、ポメラニアンたちはしきりに尻尾を振り、羨ましそうに舌を出しながらずっと我々を見詰めていた。話し終えると、
「電話番号の交換はまだ早いかな?」
と悠比が照れくさそうに言った。
「乙女かよ」と私は思わず言った。
携帯電話は持っていなかったので私は自宅の住所と電話番号を教えた。
「必ず連絡する」と彼は真剣な顔で言った。
「待ってる」と私もおしとやかに調子を合わせた。
「乙女かよ」と彼は言って、声を拳げて笑った。
犬の散歩が終わると我々は解散した。私にとって、それはとてもいい気分転換になった。そのまま家に真っ直ぐ帰ると、また部屋に寝転びながら漠然と色んなことを考え始めた。