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イエロー・ニルヴァーナ  作者: Kesuyu
第1部 夢の中から責任は始まる
7/33

7 点と点、プライバシーとその売買




 インターネットで色々と検索してみたところ、図書館で借りた本に挟んであったポストカードにプリントされていた油彩画は、クロード・モネの「睡蓮」――その中でも俗に〈イエロー・ニルヴァーナ〉と呼ばれている作品だということがわかった。クロード・モネは一八四〇年から一九二六年にその生涯を過ごし、印象派を代表するフランスの画家となった。その作風は彼固有の光の描き方に象徴される。見たままを忠実に再現するのではなく、時間や視点を何度も変えて、五感で感じるすべての瞬間を丁寧に写し取り「印象」としてカンバスに描いている。光と影、またその色彩は見たものの心を揺さぶり、ときとして魅了する。そんなクロード・モネの代表作こそが「睡蓮」である。クロード・モネは人生の途中から晩年までの三十年もの間に「睡蓮」の連作を実に約250枚も描いている。

 次に私は市内の美術展について調べた。すぐにクロード・モネの作品も展示されている美術展が見つかった。「光の印象派展」。期間は二〇一四年六月二十八日から九月三日。今日は二〇ー四年の八月二十五日だった。まだ間に合う。私はシャワーを浴びて、服を着替えた。

 黒いボタンダウンシャツに黒いチノパンツ、ダナーの黒い革靴といった格好で電車に乗った。電車内ではウォークマンでずっとビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」を聴きながら、眠るように座席に座っていた。ここ三日、それこそ寝る間も惜しんでずっと本を読んでいたせいで寝不足だったのだ。時刻は午後二時をまわったところだったので、車両の中は空席が目立つほどに空いていた。五十分後に、目的地である市立美術館に到着した。


「障害者手帳を持っているんですけれど」と私は言って、障害者手帳を美術館の窓口の若い女性スタッフに見せた。

「確認します」と女性スタッフは生真面目そうに言った。「中を開いてください」

 私は障害者手帳を開いて見せた。

 女性スタッフは特に確認する様子もなく、即座に、

「けっこうです。入館券の料金は半額となります」

「ありがとう」と私はいちおう礼を言った。


 市立美術館の展示会の中は暗く、高い壁で囲われ、一方通行の迷宮のようだった。最奥では、ミノタウロスが独りぼっちで腹を空かせながら生贄(いけにえ)が来るのを待っているのかもしれない。

 ひと口に印象派と言ってもたくさんの画家がいる。モネ、ルノワール、ゴッホ、ゴーガン——。私は来場者に紛れながら、ときには他の来場者と場所を譲り合いながら、一つひとつ展示している作品を眺め、ときにはパネルに記載された説明書きを読んでみたりもした。画集やパソコンの画像で一部の作品を見たことはあるが、現物はまったく別の代物だった。油彩が厚く塗られ、奥行きがあり、押し迫るような迫力があった。価値があるのも肯ける。作品はぜんぶ名のある美術館から、一時的に借り受けているらしい。つまり複製ではないということだ。そして入館してから三十分ほど経ったころに、私はひとつの絵画と邂逅した。クロード・モネの「睡蓮」だ。


 クロード・モネの「睡蓮」の原画を前にしたとき、私は思わす息を呑み、茫然と立ち尽くした。色彩、タッチ、陰影、それらすべてに得も言われぬ荘厳さ、煌めき、深い情熱と魂が宿っているように感じられた。題材に対しての、一種狂気的なまでの執着心を彼は持っていたのだ。それが凄みとなって正に表現として、色褪せず、放たれている。おおよそ百年のときを経てもクロード・モネが稀有な画家として、こうして今なお人びとにカルト的な支持を得ている理由がなんとなく理解できた。

 クロード・モネの代表作、「睡蓮の池」もあった。池に浮かぶ睡蓮と、水面に反射する雲が描かれている。遠くから眺めるのと近くで仔細に観るのとでは、印象はずいぶん異なる。離れて観ると、あたかも本物の風景のように目に映るのだが、間近で観察すると思うがままに絵具を塗り重ね、デフォルメされているのがよくわかるのだ。暗い水面と、そこに映った眩しいまでの雲と睡蓮の対比が美しい。私は圧倒されていた。

 ふとまわりを見渡した。多くの来場者がいて(優に会場に収まる程度だが)、皆それぞれに作品を嗜んでいた。たいていの人は目立たない服装をしている。美術館の主役はあくまでも展示品なのだ。足音を立てる人すらいない。ヘッドフォンをつけ、有料の音声ガイダンスに従ってめぐっている人もちらほらいた。

 最終的に一枚の油彩画に辿り着いた。クロード・モネの晩年の作、「睡蓮〈イエロー・ニルヴァーナ〉」だ。だいたい縦2メートル、横4メートルの大作だった。睡蓮の池が全面黄色に彩られていて、とても鮮烈だ。クロード・モネは晩年、緑内障を患い、目がよく見えなかったと云う。それでも彼は睡蓮を描くことをやめなかった。その作品は光に満ち溢れていた。生涯彼が光を求めつづけていた証だ。私はしばらくのあいだ、飽きることなくその絵画を眺めていた。イエロー・ニルヴァーナ――直訳すると「黄色い涅槃(ねはん)」。彼は人生の終わりが近づくにつれ、視力のほとんどを失い、何を思い、何を求めたのだろうか? そしてその黄色い睡蓮の絵こそが、私が図書館で借りた本に挟んであったポストカードにプリントされていた絵であった。

 会場を出ると物販コーナーがあり、人でごった返していた。画家に関連する書籍、ポストカード、ポスター、キーホルダー、トートバッグやTシャツ、果てはブックカバーやメモ帳なんていうものまであった。私は人ごみの中、ポストカードを一枚いちまい丹念に吟味した。クロード・モネのポストカードももちろんあった。種類は豊富だったが、それでも粘り強く検分し、遂に見つけだした。黄色い睡蓮のポストカードを。イエロー・ニルヴァーナである。そしてレジに並んでそれを購入した。まさしくそのポストカードこそ、図書館で借りた本に挟んであったポストカードと同じだったのだから。

 帰りに近くのブリティッシュ・パブに寄って、ジン・トニックを飲みながら、生ハムのサラダとフィッシュ・アンド・チップスを食べた。そしてショルダーバッグからついさっき美術館で購入したポストカードと三日前に図書館で借りた本に挟まれていたポストカードを取り出してじっくり見比べた。まったく同じだ。つまりそれは図書館でウィトゲンシュタイン入門を借りた人物は、だいたいここ二カ月のあいだに、光の印象派展に足を運んだことを意味している。太宰治、ウィトゲンシュタイン、光の印象派展、クロード・モネの黄色い睡蓮のポストカード。わずかにも点と点が繋がってきた。そして片方のポストカードの絵画の裏に書いてある言葉。「わたしはここにいる」。いったい何を示唆しているのだろう? 誰に向けられた言葉なのだろう? もしもそれを書いた人物が二見れなだったとしたら、彼女はきっとこの街のどこかにいる。私は確信した。そうしてポストカードをショルダーバッグにしまい、一時間半ほどジン・トニックを飲みながら、私は尽きることなく考えをめぐらせていた。


     *


 あくる日の午後六時、ミッキーズ・バーに顔を出した。

「えらいやつれたんちゃうか?」と三木さんが私の顔を見て言った。

「そうかな」

「これはサービスや」と三木さんは言ってポテトサラダを出してくれた。「なんか食べたほうがええ」

「ありがとう」と私は礼を言って、ハイネケンを注文した。

 客は私ひとりだった。私はカウンターの中央に座り、ポテトサラダを食べながらハイネケンを飲んだ。異様に腹が減っていたので、ポテトサラダを食べ終わると、ミックスナッツとオイルサーディンを注文した。その間、ビールを立てつづけにぐびぐびと飲んだ。

「なんかあったんか?」と三木さんは言った。

「いつもどおりだよ」と私は言った。

「そのわりには元気ないやんか?」

「どうかな」と私は答えたところでふと思い出して、

「そういえば最近、黒髪の綺麗な女に私の電話番号を訊かれたりしなかった?」

 具体的にはサキのことを訊いたつもりだったが、三木さんはグラスを磨きながら、考えるように天井を見上げた。「ないな」

「ない?」

「だからない言うとるやん」と三木さんは私の顔を見ながら言った。「ただえらいでかい中年の男には訊かれたで」

 私は息を呑んだ。きっと篠原のことだ。

「それで教えたの?」

「いや」三木さんは首を振った。「そもそもわしはあんたの電話番号知らへんし」

 たしかにそのとおりだった。私はただの客だ。三木さんに電話番号を教えた覚えはない。

 三木さんは言った。「でもフルネームは教えたで。なんやまずかったか?」

「まずくない。でもよく私のフルネームを知っていたね」

「そら珍しい名前やからな。亀井開。開くと書いて『ひらく』。忘れへんよ」

「そのでかい男はそのあとどうしたの?」

「軽くメモ取りながらオレンジジュース飲んで帰ったで」

 私はビールを飲みながら驚愕した。サキはフルネームだけで、私の電話番号と住所を割り出したのだ。しかも速やかに。二見れなの手掛かりすらほとんど見つけられない私とは大違い——それこそ正に雲泥の差だった。

 三木さんは煙草に火を点けた。「でもあんた、最近綺麗な子がよう会いに来とるな。短めの黒髪のいかにも仕事できそうな子とか、色のくすんだロングヘアの肌の白い子とか。どっちが本命なん?」

 おそらくサキと二見れなのことを言っているのだろう。

「髪の長いほうの女はあれ以来店には姿を現していないのかな?」

「そういや見てへんな」三木さんは煙草の煙を吐き出し、そのあとにやりと笑って私を見た。「なんや、そっちが本命か?」

 私は苦笑して、それには答えなかった。そしてハムときゅうりのサンドウィッチを注文した。


 翌朝、近所の図書館に借りていた本を返却しに行った。図書館の受付カウンターに行くと茶色いショートカットにべっ甲の丸みを帯びたフレームの眼鏡をかけた若い女性司書が、椅子に座って俯きながら書類の整理をしていた。名札には「吉名」とあった。

「すみません」と私は声をかけた。

 女性司書は顔を上げ、微笑んだ。「どのようなご用件でしょうか?」

 私は太宰治の短編集とウィトゲンシュタイン入門を提示しながら、

「ここ二カ月でこの本を借りた人のことを教えてくれないかな? その中にアッシュ・グレーの髪の長い女の子がいると思うんだけど」

 女性司書は(こけ)のように顔にこびりついた微笑を絶やさなかった。「すみませんが、来館者のプライバシーに関わることは申し上げかねます」

「どんな些細なことでもかまわないんだ。服装、雰囲気、話し方——」

「申し訳ございません」

 私はしばらく黙り込んだ。顔は笑っているが、明らかな拒絶の態度である。あまりしつこくすると不審に思われるかもしれない。

「何かわかったことがあったらここに連絡をして欲しい」と私は懇願して、メモ帳に名前と自宅の電話番号を書き記して、そのページをちぎって渡した。「とても大切なことなんだ」

 女性司書は笑顔でそれを受け取り、しばらく黙ってメモの両面を眺めた。

「ナンパ?」

「違う」と私は即座に答えた。「切実な問題なんだよ」

 しばらくすると女性司書は、

「わかりました。何かわかればご連絡差し上げます」

 と言って、私が渡したメモをブラウスの胸ポケットに入れた。

「助かるよ」

 そのあと私は借りていた本の返却手続きを済ませた。


     *


 私はサキにプレゼントされたダンヒルのグレーのスーツを着て家を出た。電車に乗り、ドストエフスキーの「貧しき人びと」を読んでいると、四十分ほどで都心の一等地に到着し、そこから以前の記憶をたよりにサキの事務所を探した。電話番号どころかメールアドレスさえも知らないのでアポイントを取ってはいない。歩きまわった末に目的の事務所を見つけた。ビルの入り口に表札があり、二階の欄に「サキ・キシイ」と書いてある。

 事務所のドアが開かれると、出迎えたのは篠原だった。また黒いスーツを着ている。

 見覚えのある事務所の大部屋に通され、黒い革張りのソファに座らされた。篠原はウォーター・サーバーで紙コップに水を二つ入れて、ひとつを私の前に、ひとつを自らの手に持ったまま私の向かいに座った。

「サキ様はご多忙だ」と篠原は顔色ひとつ変えずに言った。「要件なら私が伺おう」

 私は少し間を置いてから話した。「篠原さん、あなたは以前ミッキーズ・バーで私のことを調べていたらしいね」

 沈黙。

「そして私の家の電話番号と住所を調べあげた」

 また沈黙。

「あなたはどうやってそれを調べあげたんだろう?」

 深い沈黙のあと篠原は言った。「何が言いたい?」

「言葉のとおりだよ。別に勘ぐっているわけじゃない。名前だけで私の個人情報を調べ当てた(すべ)を知りたいんだ」

「知ってどうする?」

「探している人がいる」

 篠原は水をひと口飲んで、紙コップを大理石のローテーブルに置き、そのまま前屈みに手を組んで真っ直ぐに私を見詰めた。「探している人とは?」

「まだ言えない。そちら側が情報を提示してくれたら話す」

 長い沈黙のあと、篠原は言った。「我々の業界ではたいていの個人情報は名簿として出まわり、売買されている」

 私は首肯した。

 彼はつづけた。「まず亀井開という珍しい名前に、出入りしている店がわかれば住んでいる地区もおおよそ検討がつく。調べるのはそんなに難しいことではない」

「いくら金を積んだんだ?」

「積んではいない。すでにここら辺の土地の個人情報はある程度までなら握っている」と篠原は言って少し眉を寄せた。「もちろん、情報が古い場合もよくあるがな」

「そのネットワークで探して欲しい人物がいる。住んでいる地域は私の住まいとはそう遠くないはずなんだ」

「それは私の一存では了承できない。うちのボスはあくまでもサキ様だ。だいたいそんなことをしていったい我々になんのメリットがある?」と篠原は言ってしばらく黙った。「いちおう探している人物の名前と特徴だけは聞いてやる」

「二見れな」と私は即座に答えた。「二見は数字の二に、見る。れなはひらがな。おそらく二十代前半、アッシュ・グレーの特徴的な長い髪をしている。それ以上は知らない」

「わかった」と彼は言って、別段興味もなさそうに手帳にメモを取った。




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