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イエロー・ニルヴァーナ  作者: Kesuyu
第1部 夢の中から責任は始まる
6/32

6 ハッピーアワーの背徳感、舞い落ちるウォーター・リリィズ




 その朝、私はベートーヴェンの交響曲第6番「田園」のイントロを口笛で吹きながら、珍しく部屋の掃除をしていた。凝り性なので一度やりだすと色々と気になってやめられないのだ。山となった洗濯物も洗濯機に突っ込んでまわしていた。昨夜の天気予報どおりに外は快晴で、まさに洗濯日和だった。

 しばらくすると部屋の固定電話が鳴った。忙しいので無視しようかと思った。しかしサキからかもしれない。少し迷ったのち、電話に出た。

「元気?」と黒崎彩夏は受話越しに言った。

「元気だよ」と私は社交辞令的に返したが、実際はそう元気でもなかった。「どうしてこの電話番号を知っているの? もしかしてサキに聞いた?」

「君は原始人なの?」と彼女は呆れるように言った。「そんなの携帯電話の通話履歴を見たらわかるじゃない」

 なるほど、と私は思った。ついこの前に彼女の携帯電話に電話をかけたのだ。

 彼女は言った。「今から出て来られないかな?」

「あいにく今は洗濯中なんだ」

「夕方は?」

「今のところとくに予定はないね」

「決まりだね。じゃあ午後五時にN駅の前のロータリーで待ち合わせね」と彼女は言って通話は途切れた。

 私は突然のことに面食らって、しばらく手に持った受話器を眺めていた。


 黒崎彩夏は黒いキャップ、黒いアディダスのサングラス、黒いレッド・ツェッペリンのオーバーサイズのバンドTシャツ、黒いスキニージーンズ、黒いコンバースのキャンバス・シューズ、黒いショルダーバッグに黒いGショックをという恰好だった。黒ばっかりだ。

「今日はずいぶんとラフなんだね」と私は言った。

「オフだからね」と彼女は言った。

 今日は土曜日だった。

「ピンクも身に着けてない」

「のんのん、リップとネイルはばっちりピンクだぜ」と彼女は得意げに言って、揃えた指先のピンクの爪を見せた。

 私はチャンピオンの緑のTシャツを着て、黒いショートパンツを履いていた。足もとはナイキのスケーター・シューズだ。

 まだ辺りは明るかったが、我々は駅前の庶民的な海鮮居酒屋に入った。夕方だというのに、店は思いのほか混雑していて、空いているテーブル席に向かい合って座ると、とりあえずビールをふたつに枝豆と刺身の盛り合わせを注文した。黒崎彩夏はサングラスをキャップのつばの上にかけた。

「最近どう?」と彼女はおしぼりで手を拭きながら言った。

「とくに何も」と私もおしぼりで手を拭きながら言った。

「あれからサキと会ってる?」

「いや、会ってないな」

「連絡もなし?」

「ないね」

「ふむ」と彼女は言って頬杖をついた。

 そこにビールと枝豆が席に運ばれてきた。

「とりあえず乾杯しようよ」と彼女は言った。

「何に?」

「そうだね」彼女は少し考える素振りをした。「ハッピーアワーに」

 店は客寄せのために開店から午後七時まで、ビールなどの一部のドリンクが半額だった。

「ハッピーアワーに」

 我々は乾杯をした。

 黒崎彩夏は一息にビールをジョッキ半分ほど飲み干すと、うなるように言った。「日の落ちるまえに呑んじゃう背徳感って最高」

 私は日中に飲酒する背徳感なんてものはとうに忘れてしまっていた。


「君は司法書士なんだね」と私は蛸のから揚げを食べながら言った。

「なんかドラマに出てくるようなかっこいい職業をイメージしてない?」黒崎彩夏は微笑んだ。「実態は単なる事務所の法的な使い走りだよ」

 彼女は牡蠣の炙り焼きをひと口で食べて焼酎ハイボールを美味そうに飲んだ。

「でも簡単になれるものじゃない」

「まあね」と彼女はメニューを真剣に眺めながら首肯した。「司法書士は、この法律の定めるところによりその業務とする登記、供託、訴訟その他の法律事務の専門家として、国民の権利を擁護し、もつて自由かつ公正な社会の形成に寄与することを使命とする」

「ずいぶんと立派だね」

「司法書士法第一条だよ」と彼女は言って揚々と笑った。「カニクリームコロッケが食べたい」

 私は店員を呼んでカニクリームコロッケときゅうりのぬか漬けを注文した。

「ところでこのあいだ渡した書類は役に立ったのかな?」と彼女は私の眼を見詰めながら言った。

「とても」と私は眼を逸らさずに肯いた。

「以前は『責任』とか厳しいこと言っちゃったけれど、どうするかはあくまでも君の自由だからね。わざわざ呼び出して心から悪いとは思うんだけれど、やっぱり君には(じか)にそれをきちんと伝えて置きたかったんだ」

「助かるよ」

 私は本心からそう言った。

 カニクリームコロッケときゅうりのぬか漬けがテーブルに置かれ、彼女は焼酎ハイボールのおかわりを、私は常温の日本酒を追加でオーダーした。たわいのないお喋りをしながら、彼女はカニクリームコロッケを二口で食べ、おしぼりで口もとを拭い、満足そうな顔をした。我々は店をあとにして、近くの喫煙所に入り、並んで煙草を吸った。

「すっかり日も落ちちゃったね」と黒崎彩夏は肘を抱え、ハイライトを口から離すと夜空を見上げながら言った。

「うん」と私もアメリカン・スピリットを咥えながら肯いた。

「今日は付き合ってくれてありがとう」

「こちらこそ」

 彼女はしばらく沈黙した。「どう? サキとはうまくやっていけそう?」

 それについて私は真剣に考えた。「もしも彼女が私に何かを期待しているのだとしたら、自分もできる限りそれに応えようとは思っている」

 彼女は瞳を見開いて私の顔をじっくりと点検し、そのあと微笑んだ。

「答えとしては悪くないな。ちょっとキュンとしちゃった。君に10ポイントをあげよう」

「なんのポイントだろう?」

「100ポイント貯めると君へのわたしの信頼度がレベル2になるのだよ」

「恋愛シミュレーションゲームかよ」

 彼女は本当に可笑しそうに笑った。

 去り際に黒崎彩夏は振り返って言った。「頑張って」

 そのあとやや迷うような素振りを見せたあと、

「もしかしたら君になら――」

 車のクラクションの音が鳴り響き、それ以上彼女の言葉は聞き取れなかった。


     *


 二見れなを見つけなければならない。

 しかし手掛りはほとんど何もなかった。皆無と言ってもいい。色んな検索エンジンで彼女の名前を入力してみたのだが、もちろん何ひとつとしてヒットしなかったし、検索の仕方を工夫しても同じだった。インターネットでは一般人の個人情報はどこも取り扱っていないようで、堅くブロックされている。雲をも摑むような作業だった。住民票を調べるにも委任状が必要だし、探偵事務所に依頼するような財産も持ってはいない。お手上げだった。

 自分の足で探すしかない――それが私の最終的に辿り着いた答えだった。

 まず彼女は私の家や近所のバーに現れたことがある。住まいは私の生活圏内にあるのではないのだろうか? だとしたらどうすればいい? 家の表札を一軒々々見てまわるのか? しかしそれは満天の星空の中に人工衛星を探すかのように、あるいは広大な砂漠に井戸を探し求めるかのように途方もない作業に思えた。

「アイツに見つかった」と二見れなは言っていた。誰かが彼女を見つけ出したのだ。つまり探し当てること自体は不可能ではないはず。いまいちど情報を整理する必要がある。私は新品のノートを取り出し、真っ白なページを開いて彼女について知っていることを、なんでもいいから書き記していった。


 翌朝、私は図書館に行って、ここ一か月の新聞を四誌ずつ注意深く読むことにした。何か手掛かりが見つかるかもしれない。

 私は二見れなに関連のありそうな記事がないか、一頁一ページ丁寧に新聞を読んだ。その中では紛争があり、株価が下落し、政治家や官僚が汚職事件を起こし、デモがあり、人が車に撥ねられ、放火が起き、殺傷事件があった。

 中でも私が注視したのは、記事の隙間に差し込まれている三行広告だ。もしかしたら「人探し」の広告もあるかもしれない。だが三行広告のほとんどの内容が求人か不動産売買だった。人探しの広告は見当たらないどころか、三行広告自体が珍しく、衰退の一途を辿っているように見受けられる。

 結局、二見れなに関連する記事は見当たらなかった。

 気がつけば窓の外は日が沈みかけていた。帰る際、何か本を借りようと思った。彼女は以前に太宰治とウィトゲンシュタインの言葉を引用していたな、と思い、太宰治の短編集とウィトゲンシュタイン入門という簡易な哲学書を借りた。手続きを済ませると本を鞄に入れ、その足でミッキーズ・バーに行き、冷えたビールを飲んだ――ついさっき図書館で借りた太宰治の短編集を読みながら。


 それからは三日三晩、缶ビールとホワイトホースのストレートを飲みながら、座椅子に座って本を読んで過ごした。ときおり急に睡魔がやってくるので、そのときは布団に潜り込んで少しのあいだ目を瞑った。

 太宰治の小説を読むのは実に学生のころ以来だった。案外とっつきやすいな、というのが当時の私の率直な感想だったのだが、内容そのものはもうほとんど忘れてしまっていた。今改めて読み返すと、ある種破滅的ともとれる思想のなかに垣間見える、倫理観や自虐、そして独特のユーモアは私の心を魅了した。彼の生き方を抜きにしても、細部の描き方が巧みで、読み物として純粋に優れていた。そして読み進める内に気がついたのだが、本のところどころの文章の横に鉛筆でラインが引かれている。例えばこうだ。


「真の思想は、叡智(えいち)よりも勇気を必要とするものです」


 過去にこの本を手に取った誰かは、よほど熱心にこの本を読んでいたらしい。


 次にウィトゲンシュタイン入門を読んだ。興味深いことに彼は太宰治と同じく大金持ちの家に生まれ、八人兄弟の末っ子であった(太宰治は十一人兄弟の十番目)。そして激しい自殺願望や鬱に悩まされていた。生い立ちがよく似ている。ウィトゲンシュタインが生前に発表した「論理的哲学思考」の紹介の欄には、またいくつか文章の横に鉛筆でラインが引かれていた。


「世界は成立していることがらの総体である」


「語りえぬものについては、沈黙するしかない」


「世界は事実の総体である。事物の総体ではない」


 よく見るとウィトゲンシュタイン入門と太宰治の短編集の文章の横に引いてあるラインの筆跡はよく似ていた。線がいびつに震えているのだ。私は両書を手に取って見比べてみた。線の筆跡が酷似している。このふたつの本を結び付けられる人物を私はひとりしか知らない。二見れなだ。彼女は私が想像しているよりもずっと近くにいるのだろうか? しかし確証は持てなかった。

 本を手に立ち上がり、窓の外を見た。街並みは翳り、向かいのマンションはどれもいかにも意固地そうに佇んでいた。ふとウィトゲンシュタイン入門の巻末の隙間から一枚の紙がひらりと落ちた。拾ってみると、それはポストカードだった。まだ真新しい。鮮やかな黄色い水辺と花の油彩画がプリントされていて、私はその絵をしばし見入った。ポストカードを裏向けると、左隅にClaude Monet/Water Liliesと印刷されており、残りの大部分を占める余白にはボールペンで文字が書かれていた。がたがたの象形文字のような字で、ただひとこと――


『わたしはここにいる』




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