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イエロー・ニルヴァーナ  作者: Kesuyu
第1部 夢の中から責任は始まる
5/32

5 託された想い、世界の果てから冒険は始まる




 翌朝、ホテル・ヒルトンのロビーでもらった名刺を手に黒崎彩夏に電話をかけた。

「思ったより早かったじゃない」と黒崎彩夏は受話越しに言った。

「サキのことを教えて欲しい」

「いいよ」と彼女は答えた。「今から言う喫茶店に正午過ぎにきて」

「わかった」

 私は喫茶店の名前と場所をメモ帳に記した。

 ビジネス街のど真ん中に黒崎彩夏に指定された純喫茶〈時計うさぎ〉は存在した。私はダイナソーJRのバンドTシャツの上にストライプのボタンダウンシャツ、オリーブ色のチノパンツを着て向かっていた。空は少し曇り、空気は生温かった。正午に待ち合わせの喫茶店に到着した。建物はレンガ調のブロック塀で、壁には蔦が生えている。とてもアンティークな佇まいだ。扉を開けると店内にはレッド・ガーランドの「グルーヴィ」が軽快なリズムでかかっており、座席にはビジネスマンが五人いて、それぞれに飲み物を飲み、軽食を取っていた。

 黒崎彩夏の姿は見えなかったので、私は最奥の窓際の席に座り、ホットコーヒーを注文した。二十分後、カフカの短編集を読んでいると黒崎彩夏は慌てた様子で現れ、私の向かいの席に腰を下ろした。

「会議が長引いちゃって、ごめんね」と彼女は切り出した。

「かまわないよ。どうせ寝てるとき以外はずっと暇だし」

 彼女は笑った。

「寝てるときは忙しいんだ?」

「夢を製造するためにね」

 彼女はまた笑った。

 黒崎彩夏はベビーピンクのブラウスにローズピンクのタイトスカートを身に纏い、足もとにはマゼンタのパンプスを履いていた。リップもネイルもベージュピンク。よほどピンク色にご執心らしい。

「とりあえず何か食べながら話そうよ」と彼女は言った。

 異論はなかった。

 彼女の勧めるナポリタンを我々は食べたのだが、それはナポリタンとはかくあるべしという条件をすべて兼ね備えているような代物だった。

「特別手が込んでいるわけじゃないのに、何故かたまに無性に食べたくなっちゃうんだよね、ここのナポリタン」

「わかる気がする」

「で? 君の知りたいことって?」と彼女はフォークにスパゲティーを巻き付けながら言った。

「サキに関することならばなんでもいい。私はもっと彼女のことを知る必要があると思うんだ」

「本人に直接訊けばいいじゃない」

「そのとおりだよ」と私は言った。「でもサキは話してくれないだろう」

 黒崎彩夏はベージュピンクのトートバッグからコピー用紙の束を取り出して私に手渡した。

「これがわたしの知りうるすべて」と彼女は言った。「でも知ったからには責任を伴うことを忘れないで」

「わかった」と私は深く首肯した。


     *


 黒崎彩夏が手渡してくれた資料によるとサキは親族をほとんど失っていた。家庭はそれなりに裕福だったが、彼女が十五歳のときに父は深夜の職場で焼身自殺をし、母もそのあとを追うように翌年に自宅の客間で首を吊った。姉は新興宗教にどっぷりと浸かり、今は音信不通で、生まれながらに障害を持つ妹は病院のベッドで寝た切りのまま、四年前に息を引き取った。彼女は両親の遺産で生活をしながら、猛勉強をして、一流の難関大学に首席で入学した。彼女はその年にして学歴の重要性を熟知していたし、また学費も免除されるからだ。交友関係は広かったようだが、特定の男性と付き合おうとはしなかった。もともと私立の女子高上がりだったし、女同士でつるんでいるほうが気も楽だったのかもしれない。そんな中で彼女は大学の経験を経てボランティア活動に興味を持った。苦しんでいる人を助けたい。動機は一途だった。しかし実際にキャンパスの掲示板にあったボランティア活動に参加すると、そこはほとんど出会いを求めている若い男女の溜まり場だった。彼女は失望した。代わりに経営に興味を持ち、大学の経営サークルに在籍するも、サークルのメンバーに飲み会に誘われて男らに暴行されそうになる。暴行はなんとか未然に防がれたものの、自分の力で事業を始めようと思い立ったのはそれからだ。寝る間も惜しんで勉強した末に〈サキ・キシイ〉というファッション・ブランドを立ち上げた。それが彼女にとって一番手っ取り早かったし、昔から洋服は好きだったからだ。コンセプトは「至極の夢をあなたに」。高級路線である。最終的な決定権は彼女にあるものの、若くて熱意のあるデザイナーを引き抜き、高い給料を支払った。縫製はすべて腕のいい職人に委託した。半年もすると富裕層のあいだで評判になり、雑誌にもたびたび掲載されるようになった。自分でも思いもよらないほどに順風満帆だった。店舗は増え、事業は拡大し、次第には海外の著名なタレントにも衣装を提供するほどになった。しかしサキの心は広大な砂漠のように渇いていた。どれだけ成功しても満たされないほどに。ひとしきり悩んだ末に、彼女は会社を突如辞職した。後任にすべてを託したのだ。そして貯まった資産で色んな事業に手を出した。特に彼女が本来やりたかった保育とボランティアに注力した。しかし良心的にやればやるほど儲けは手のひらから零れ落ちた。もっと金が要る。彼女はこれまでに自分の手にした資産の半分を、秘密裏に取引した株と不動産につぎ込んだ。もちろん損害もあったが、利益の方がはるかに大きかった。信用の置けるコンサルタントも依頼した。腕利きの税理士と弁護士も専属雇用した。いつなんどき寝首をかかれるかわからない。彼女は不安で夜も眠れなくなってきた。そのようにして、いつしか彼女は金の亡者と化していった。朝方、タワーマンションの上層から世間を見下ろし、優雅にコーヒーを飲みながら、狂っているのはわたしじゃない、世間だ、と自身に言い聞かせるほどに。事業の拡大は止まらなかった。さらにもっと金が要る。やりたいことをやるためには手段を選んでいる余裕なんてない。一部で自分のことを「()()・キシイ」と揶揄されるようになったのはそのころだ。そういったSNSの書き込みを見ると彼女はうなだれて、泣き崩れた。わたしはただ自分と同じような苦しみを抱えている人びとを救いたかっただけなのに。わたしのどこがいけなかったの? 彼女はジョギングを始め、ジムにも通い始めた。もっとタフにならなければいけない——欲しいものを手にするためには。そして突然会社に復帰し、事務所にも頻繁に顔を出すようになり、いつだって部下に命令をした。もっと頑張りなさいと。そして様々な事情で行き場を失った女性たちを(かくま)うシェルターを設立し、皮肉をこめて〈サギス・ハウス〉と名付けた。要は慈善事業である。シェルターの女性たちはサキを慕い、サキもまた居場所を見つけたような気がした。それでも彼女の懊悩は収まる気配がない。たった今もワイングラスを片手に泣き崩れ、空虚な気持ちを抱えたまま、心の奥底では誰かに助けを求めているかもしれないのだ。


     *


「カメの言ったとおりだったよ」とニコはご機嫌にコーク・ハイを飲みながら言った。「おかげでカミさんとはよりを戻せそうだ」

「そりゃ、よかった」と私は言ってシーバスリーガルのロックを飲んだ。

 我々はミッキーズ・バーのカウンターに肩を並べて、酒を酌み交わしていた。

「しかしあんた、ずいぶんと印象が変わったね。髪型もすっきりとして、凛々しくなったじゃないか」

「色々あったんだよ」

「心なしか目つきも力強くなってる」

「色々あったんだよ」

「それしか言わないね」とニコは少し詰まらなさそうに言った。

「色々あったからね」と私は微笑した。

 彼は右手の小指を立てた。「女でもできたか?」

「違う」

「何があったのかは、教えてくれないんだね?」

「うん、正直私も自分の置かれている状況がまだうまく理解できていないから」

「まあいいさ」と彼は言った。「でもあんた、今の方がいい顔してるよ」

「どうだろう」と私は言って話題を変えた。「ところで人を探しているという女の夢はあれ以来見ていないのか?」

「見たよ。一度だけ」とニコは言ってラークに火を点けた。「妙にリアルな夢だったな」

「詳しく聞かせてくれ」

「夢の中で俺は罪人だった」と彼は語りだした。「人殺しの罪だよ。さる神官の背中をナイフで突き刺したんだ。そして中世の教会の地下牢に俺は手(かせ)をはめられて壁に繋がれていた。髪は伸び、髭もぼうぼうで、喉もからからだったね。頭に被せられていたずた袋をはがされると、壁にかかった松明(たいまつ)の火に眼が焼かれそうになり、次第に聖職者が四人でひとりの女をレイプしている光景が目に映った。俺はその女を知っていたよ。まぎれもなく以前に夢で見た彼女だった。俺は目を逸らしたが、聖職者のひとりが俺の髪を摑みあげて『よく見ろ。あれがお前の好いていた女だ。とんだ売女だな』と言ってほくそ笑んだ。殺してやる、と俺は叫ぼうとしたんだけれど、すでに自分の舌は切り取られていて、不穏な呼吸音がするのみだった。俺は涙した。なぜ彼女がこんなむごい目にあわなければいけないのか、救いようのない現実だと思ったよ。人間を呪った。聖職者どものケツに槍を貫きたかった。しばらくすると、傍にいた聖職者は俺の悲痛な面持ちを満足そうに眺めてから、祈りの言葉を唱えて十字をきった。『アーメン』。そして処刑用の剣で俺の首を()ねた」

 そのあいだ私はずっと黙って話を聞いていた。

「正直、今思い出しても反吐が出るよ」とニコは吐き捨てるように言った。「ところで『アーメン』ってどういう意味なんだ?」

「祈りを捧げたあとの結びの言葉だよ。意味は——」私はグラスをカウンターに置いた。「まことにそのとおり」


     *


「あまり時間がない」と二見れなは言った。

 気がつけば私はまた途方もなく広いプールサイドであぐらをかいていた。隣には二見れながいて、白いブラウスに黒いショートパンツを身に着けていた。そしてやはり裸足で佇んでいた。

「別れを告げに来た」と彼女は言った。

「どうして?」と私は尋ねた。

「外に出られないから」

「どうして外に出られないの?」

()()()()()()()()()()()

()()()って?」

 彼女はそれには答えなかった。「しばらく会いにこられなくなる。もしかしたらこれが最後かもしれない」

 私は拳を口に当てて少し考えた。「私にできることはないかな? どんな些細なことでもかまわない」

 彼女はしばらく黙っていた。「わたしを見つけて、あちら側の世界で」

「あちら側の世界とは現実世界のこと?」

「それはうまく説明できない」と彼女は言った。「でもわたしがあなたを見つけたように、今度はあなたがわたしを見つける」

「わかった」と私は肯いた。「必ず見つけるよ」

「たぶん簡単なことじゃない。そこはどこよりも深くて、どこよりも暗い。地の底まで繋がるダンジョンのように」

「それでも見つける」

「わかった」と彼女は小さく首肯した。「そろそろ行かないと」

「待って」と私は彼女を引き留めた。「君の探している人は見つかったの?」

「ええ」と彼女は無感動に言った。「何を今さら」

「それは誰なの?」

 彼女は私の眼を真っ直ぐに見詰めて言った。

「あなたよ――」

 二見れなはゆっくりとプールに入り、靄の中、奥へとぐんぐん進んでいった。姿が朧気になるころに彼女は振り返って言った。

「待ってる。何度生まれ変わろうとも、永遠に——」




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