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イエロー・ニルヴァーナ  作者: Kesuyu
第1部 夢の中から責任は始まる
4/32

4 1ダースの虚ろな衛星、一枚の名刺と涙




 パーティ会場はホテル・ヒルトンの四階だった。もちろん会場には例によって篠原が黒塗りのSクラスで送ってくれた。車はいつの間にかピカピカに磨きあげられ(もともとピカピカだったのだが)、塵ひとつ付着を許さない様子だった。どうやら彼は洗車が趣味のようだ。我々は午後六時半に会場に到着し、辺りを眺めまわした。大規模な会場は四百平米くらいありそうである。リヒターの演奏するバッハの「音楽の捧げもの」がBGMとして流れていて、その中で大勢の紳士や淑女がワインやシャンパンを片手に話し合ったり、ビュッフェを口にしたりしていた。

 私はいくぶん緊張して深呼吸をした。サキは私の左腕に自分の手を組んでぴったりとくっついている。クロエの白いフレームのサングラス、夜空のようにシックなミッドナイト・ブルーのドレス、肩には白いレースのショールを羽織り、シルバーのピンヒールを履いていた。首と手元にも銀のアクセサリーをつけている。

 たしかに徹底的だ、と私は彼女の出で立ちを見て感心した。

「いっぱい声をかけられると思うから、ずっとにこにこしてて」とサキは囁いた。

 そう言われると私はさらに緊張した。こんな場所には一生縁のないものだと思っていたのだから。

「つまり口説かれるってこと?」

「まあ、そう」と彼女は少しして首肯した。「とりあえず、シャンパンをいただきましょう」

 我々はウェルカム・シャンパンをウェイターから受け取り、ささやかにグラスを重ね、そのあとじっくりと味わった。

「悪くない」と私は言った。

「悪くない」と彼女も同意した。

 すると、

「サキ、ずっと探していたよ」

 とロングヘアーに顎髭をたくわえ、華美な茶色いスーツを着た男が近づいてきた。

「ごめんなさいね。ずっと事業が忙しくて」とサキは笑顔で言った。

「まあいい。ところで隣の男は誰だ?」

「とても親密な人」

 私は内心ひやりとしながら、彼女の言ったとおりににこにこしていた。

「俺よりもか?」と茶色いスーツの男は言った。

「ええ、そうよ」と彼女はなんの躊躇(ためら)いもなく、突き放すように言い放った。

「このあばずれ」

 茶色いスーツの男はそう捨て台詞を残して立ち去った。

「もしかしてこんなのがずっとつづくの?」と私は冷や汗をかきながら、笑顔を絶やさずに彼女に言った。

「金持ちも貧乏人も根っこは何も変わらないのよ」サキは嘆息するように息を洩らした。


 サキは次々と男たちから声をかけられた。ぜんぶで十二人。男たちは私の顔色をちらちらと盗み見しながら、あの手この手で彼女を口説きにかかっていた。酷いものだと、白髪の男に十万円あげるからホテルの部屋にこないか? という誘いもあった。もちろん私は終始笑顔でサキに腕を組まれながら彼女に付き添っていた。女の子は大変だ。私は心底サキに同情した。先ほどの茶色いスーツの男のように食ってかかるような手合いはもういなかったが、彼女は上手に男たちの誘い文句をかわしていた。

 ふと気になって、

「君はなんの仕事をしているの?」

 と私はサキに尋ねた。

「アパレル、保育、ボランティア」とサキはキャビアの盛り付けられたクラッカーを口にしながらそっけなく答えた。

 しかし彼女の金まわりのよさから、もっと危険な橋を渡っているはずだと私は踏んだが、そこまでは言及しなかった。

「ずいぶんと手広いんだね」

「そんなことない。たまに入れ替わりは激しいけれど、ほとんど同じような人たちで廻ってる。ごくごく狭い世界よ」と彼女は無表情に言った。

 しばらくすると、

「サキ? ひさしぶり」

 とピンクベージュのドレスを着て、ダークブラウンの髪をポニー・テイルにした女がサキに近づいてきた。

「アヤカ」サキも嬉しそうな表情を顔に浮かべ、サングラスを額にあげた。

 ふたりは手を握り合い、

「いつぶりかな?」

 とアヤカは言った。

「たぶん、半年前の講演以来ね」とサキは言った。

「そうだった。あのときは本当にありがとね」

「ううん、礼には及ばないわ。またいつでも言って」

「助かる」

 ふたりはしばらく親密そうに話をしていた。その間、アヤカはときおり私を観察していた。

「ところでこの人は君のいい人?」

 おもむろにアヤカは私を見てそう言った。

「そうよ」とサキはさも当然のことのように肯定した。

 私は否定しなかった。その方がいいのだろうと思ったからだ。

「素敵な人じゃない」アヤカは二歩下がり、しばらく我々を交互に眺めた。「うん、とってもお似合いだよ」

「ありがとう」とサキは微笑を浮かべ、私の背中を強く叩いた。

「どうも」私も気圧されて軽く会釈した。

 アヤカが去るころには我々の関係は会場中の噂になっていた。サキがハンサムなボーイフレンドを連れて来たらしい、と。

「堂々としてなさい」とサキは私に寄り添いながら耳打ちした。

「しかし、君の彼氏だなんて——こんな嘘をついていいのかな?」と私は少しうしろめたい気持ちで言った。

「何を言ってるの?」彼女は目を丸くして私の顔を覗き込んだ。「世間というものは、十中八九『ウソ』でできているのよ」


「こんな面倒な目にあってまで、どうして君はパーティに顔を出すの?」と私はローストビーフを食べながらサキに尋ねた。

「決まってるじゃない」と彼女はワイングラスを傾けながら答えた。「ビジネスよ」

 彼女はグラスの白ワインに口をつけた。

「人脈がなければ、これ以上先には上がれない」

「すでに君は十分に成功を収めているじゃないか」

「そんなことない」と彼女は首を振った。「わたしは自分の本当にやりたいことを、まだ何ひとつとして成し遂げていない」

 サキはおもむろに顔を上げた。

「あなたは応援してくれる?」

「もちろん」と私は首肯した。

「ところであなた、煙草をずっと我慢してるんじゃないの?」

「本当はね」

「喫煙所に行ってきなさい」と彼女は私の顔をまじまじと見詰めて言った。「その間、わたしは仕事をしてくる」

 そしてサキは荒波に立ち向かう勇敢な船乗りのように、たったひとりで人混みの中にまぎれていった。


 喫煙所はホテル・ヒルトンのエントランスの外にあった。高さ2.5メートルほどの木造の塀で囲われている。中に入るとパーティ会場よりも人がごった返していて、皆一様に塀際に肩を寄せ合って並んで煙草を吸っていた。私は人混みの隙間を見つけてそこに収まり、煙草を吸った。見上げた空は深い藍色をしていて、星はなく、か細い三日月がぽつんと浮かんでいた。私はいったいここで何をしているのだろう? しかしその答えは夜空に潜む星のようにどこを見渡しても見つからないもののように思えた。

「火を貸してもらえないかな?」

 ふいに隣から女の声がした。

 ピンクベージュのドレスにダークブラウンのポニー・テイル。パーティ会場でサキと親し気に話をしていた女——アヤカだった。


「君たち、付き合ってないでしょ」とアヤカは言って、私が貸した百円ショップのライターでハイライトに火を点けた。

「どうして」

「わかるよ。サキとは大学時代からの付き合いだもん」と彼女は言った。「でも彼女は『ごっこ』を楽しんでいる。正直まんざらでもないはずだよ。君のほうはどうなの?」

「わからないな」と私は正直に答えた。

「どうせ強引に連れてこられたんでしょ」

「どうかな」しかし図星だった。

 喫煙所を出ると、ホテルのロビーで彼女がふいに歩をとめた。

「サキはね、学生時代に男に乱暴されそうになったことがあるの」

 私は思わず息を呑んだ。

 彼女は言った。「当時彼女は大学一年生で、名の知られている大学の経営サークルに所属してね、経営のイロハを学ぶつもりだったみたい。でも実態はチャラい合コンサークルだった。活動といえば週末に皆で集まって、派手に酒を呑むだけ。サークルの幹部は皆生まれながらのボンボンでピーマンみたいに頭空っぽの連中だった。あるときサキは貸し切りのバーで酒を飲まされそうになって、もちろん彼女は未成年だからそれを断った。それにサークルの現状に失望し、抜けることをすでに決心もしていた。元々は頭のいい学生の社交場だったはずなのに腐敗しきっていたから、きっとうんざりしていたんだろうね。でもウーロン茶を飲んでいるうちに次第に意識が朦朧としてきた。飲み物に睡眠薬を混入されていたの。まわりの女の子たちもいつの間にか眠り込んでいる。彼女は不味いと悟って身支度をして帰ろうとしたけれど、その腕をサークルのリーダーに力強く引っ張られて、ソファに押し倒された。意識を取り戻すと服ははだけていて、バーは警官官で溢れ返っていた。サークルの活動はずっと警察にマークされていたわけ。ちなみに通報したのはわたし。サキとはそのサークルで知り合ったんだ。わたしは怪しいと睨んでずっと警戒して見張っていたから、異変にはすぐに気がついたの。サキは自身の身体を隅々まで点検して、どこも(けが)されていないことを確認すると安堵した。でもそれ以来、身体はがたがたと震え、たまにパニックになる。フラッシュバック現象だね。それからというもの彼女は心療内科に通いつづけている。彼女は心に深い傷を負い、男性恐怖症になってしまった。はっきり言うとずっと男を避けてきた。実を言うと彼女は虐げられた女性たちのためのボランティア活動を熱心に行っていて、その活動を始めたのもたぶんサークルの経験がきっかけ。さっきも言ったようにサキが君と一緒に居るのはあくまでも『ごっこ』。どう? 君には彼女を受け止めることができるのかな?」

 私はただ沈黙することしかできなかった。

「さっきは火を貸してくれてありがとう」

 アヤカがバッグの中に手を入れる。

「君はどこか見どころがありそうだからこれを渡しておくよ」と彼女は言って、名刺を指に挟んで差し出した。

「私は名刺なんて持っていないよ」

「気にしなくても大丈夫だよ。何かあったら連絡して。もしかすると力になれるかもしれないから」

 彼女はそう言ってその場をあとにした。

 私は佇んで手に持った名刺を見た。

『司法書士 黒崎彩夏 電話番号:080—****―****』


 パーティが終わると私とサキは篠原の運転するベンツに乗った。彼女は疲れた様子でぐったりと座席に身を預けていて、サングラスをしているのでわからないが、一言も発さないところを見ると、もしかしたら眠り込んでいるのかもしれない。私はというと車内に流れるラフマニノフのピアノ協奏曲第二番を聴きながら窓の外をずっと眺めていた。今日は予期せぬことが起こりすぎて、流れゆく街並みがまるで幻影のように虚ろに見えた。ふと、このまま突っ込んできたトラックと衝突して死ぬのも悪くないな、と思えた。しかし篠原の運転は砂時計のように正確で、振動ひとつしなかった。それがおそらく彼の運転に対する流儀なのだろう。サキをお護りするのが彼の役目なのだ。万が一にも事故などあってはならない。そう考えているはずだ。

「曲を変えますか?」と篠原は前方を見据えながら予告もなく言った。首ひとつ動かさない。

 おそらく私に言っているのだろう。

「これでいい」と私は言った。

 彼は何も答えなかった。

 曲の第三楽章が終わるころに車は私の住むマンションの前に到着した。私がドアを開けて降りようとすると、サキが、

「置いてかないで」

 と言った。

 彼女が眠っているのを確認すると、

「独りにしないで」

 とまた言った。サングラスの下から一筋の涙が頬をつたっていた。

「失礼」と篠原は言った。「たまにこうなるんです」

「本当に?」

「いえ、正確にはごく親しい人の前でしかなりません」

「そう」と私は言って、少し複雑な気持ちになった。

 そして、

「またいつだって会えるさ。約束する」

 とサキに声をかけて私はドアを閉めた。

 部屋に戻ると私は煙草を吸いながらサキの抱える重圧と心の闇について考えた。これまでずっと楽な人生を歩んできたわけではないはずだ。私は服を脱ぎ捨て、シャワーを浴び、歯を磨くと布団に潜り込んだ。眠りは今にも待ち望んでいたかのように、隙間なく向こうからやってきた。目を閉じると長い一日の幕は下ろされた。




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