3 二度の来訪、鍋焼きうどん、黒塗りのSクラス
サキに連れられて訪れた串カツ屋は雑居ビルの五階にひっそりと軒をかまえる高級店だった。店内は黒一色で統一され、カウンターのみ。スタン・ゲッツの「スタン・ゲッツ・カルテッツ」が大きすぎず、小さすぎず、程よいボリュームで流れていた。客は我々以外にはいない。店の表には看板すらなかった。
「こんな店、高くて払えないよ」と私はサキに囁いた。
「いいのよ。身体で払ってくれれば」と彼女は混じり気のない笑顔で言った。
「身体って」
「冗談よ。付き合ってくれたお礼だし、代金はわたしが払うから」
我々はまずビールで乾杯した。
「新世界に」と彼女は言った。
「新世界に」と私も言った。
彼女は牛、エビ、ほたて、牡蠣、ししとう、玉ねぎを二人前注文した。
「サキさん、随分とひさしぶりだねえ。元気にやってたの?」と店の店主は言った。
「ボチボチね」
「でもまた事業を拡大するって聞いたよ。この不景気にたいしたもんだ」
「その話はまた今度ね」とサキは言って会話を中断した。
出された串カツを食べると、それは私が今まで知っている串カツとはまったく別の代物だった。具も油も新鮮で、ソースをつけなくても美味い。
「美味しいでしょう?」と彼女は言った。
「うん、他ではちょっと味わえないね」
サキは満足そうな笑みを浮かべ、ビールを飲み干した。そしてハイボールを注文した。
「あなたはどうする?」
「同じのを」
彼女は機嫌が良さそうに首肯した。
出されたのは響のハイボールだった。
「君はひょっとして裕福なのかな?」と私はサキに訊いてみた。
「そんなことない」と彼女は言った。「普通よ」
「普通の人は到底こんなお店を知らない」
「たまたま知っているだけ。他は世間の人と何も変わらない」
「でも君はとても美人だ。スタイルもいい。自分に似合う服装だって熟知している」
「もしかして口説いてる?」サキは頬杖をついて笑った。いくらか眼がとろんとしていた。
私はどう答えていいかわからず黙っていた。
「でもそれは外面にしかすぎないわ。あなたには本当のわたしを見て欲しいの。だからわたしを普通の女の子として扱ってくれないかな?」
「もちろん」と私は言った。
「わたしの内面を見て。そして眼を逸らさないで」
「わかった」
「そしたらわたしはそれ相応の見返りをあなたにあげる」
「見返りなんて求めてないさ」と私は言った。「だって親友だろ?」
「そうね」と彼女は言って、少し物憂げな表情をした。
しばらくしてからサキは言った。「ねえ、わたしにはあなたを変えることができる。絶対に。あなたにはその素質があるの」
「どうかな」と私は曖昧に返事をして、ハイボールの残りを飲んだ。
食事を終えると彼女は代金をカードで支払った。いくらかは知らないが、きっと福沢諭吉が肩を寄せ合って真剣に井戸端会議できるくらいだろう。なんだか申し訳ない気がした。
サキがタクシーに乗り込む際、
「今日は楽しかったわ」
と言って手を振った。
「こちらこそ」と私も言って手を振り返した。
「またね」
「うん、また」
そして我々は別々の帰路に着いた。
*
十三日ぶりにミッキーズ・バーの扉を開けた。時刻は午後七時半をまわったところだった。
店には四人の客がいて、奥の方からラルフ・ローレンのロゴがでかいピンクのポロシャツを着たニコが私を呼んでいた。どうやらスカジャンはやめたようだった。
「ずいぶんとご無沙汰だったね」とニコは言った。
「ああ」私は席に着き、バス・ペールエールを注文した。
「あんたが顔を見せへんもんやから、ニコくんがえらい淋しがってな」と三木さんは言って、私の前にビールと灰皿と柿の種・ピーナツを置いた。「もちろん、わしも淋しい」
いつからそんなに人気者になったのか私には考えものだった。だって私は世捨て人同然なのだから。
「元気にしとったんかいな?」と三木さんは言った。
「ボチボチね」と私は答えながらビールを飲んだ。
私が三木さんと世間話をしている間、ニコはずっとグラスを握ったまま、うなだれた調子で黙っていた。
「カミさんに離婚を切り出されてね」と彼はぼそりと言った。
いきなりハードな出だしだった。私はビールを吹き出しそうになるのをこらえて固まった。
「つい最近まではとてもいい感じだったんだ。それを急に『あなたとはこれ以上一緒にいたくない』だなんて言われて。女はわからん」
「子供は?」
「いない」
「だったら相手の望むようにしてやるしかないんじゃないか?」
「俺は彼女を愛してるんだよ」
彼はそうどなった。
「そんなに想っているのなら本人に直接そう言うといい。死ぬ気で説得する覚悟が君にあればの話だけどね」
「そんなみっともない真似できるかよ」
「家を留守にして、バーでぐちぐち嫁に愛想をつかされた話をするのはみっともなくないのか?」
彼は腕組みをしてしばらく黙り込んだ。
そして、
「あんたの言うとおりだよ。それはわかってる」
と言った。
「まずは相手の話をきちんと聞いてあげることだね。例えそれがどんなに気に入らない内容だったとしても、口を挟むのはよくない。できるかい?」
「やってみる」とニコは首肯した。
しかし私にはそんなに偉そうなことを言う資格なんてない。だいたい家庭を持った経験すらないのだ。私は少し居心地が悪くなって、しばらく手の中の煙草を弄んでいた。
*
昨日は飲み過ぎた。宿酔いだ。私は朝から二度嘔吐し、ビタミン剤以外は何も口にせずに昼間まで布団にうずくまっていた。部屋のラジオからはドビュッシーの「アラベスク第1番」が流れていて、身を休めるにはまずうってつけの曲だった。
午後一時に玄関のチャイムが鳴った。いつも新聞の勧誘と訪問販売しか家にはこない。無視しようと思った。しかしチャイムは繰り返し何度も鳴らされたので、もしかしたら宅配便かもしれないと思い直し、私はのっそりと起き上がった。
玄関のドアを開けると、二見れなが立っていた。
赤い格子柄のシャツに穴の空いた淡い色のジーンズを着て、ナイキの緑と白のバスケットボール・シューズを履いていた。その手にはスーパーマーケットのレジ袋を提げている。今までにないカジュアルな装いに、私は一寸驚いた。
「上がっていい?」と二見れなは言い、私の返事も聞かずに靴を脱いで部屋の中をすたすたと歩いていき、ガラス戸を開けた。「空気はまめに入れ替えたほうがいい。閉め切っていると、身体によくない」
彼女はスーパーマーケットのレジ袋からペットボトルのスポーツドリンクを取り出して、私に手渡した。
「あとはわたしがする。あなたは休んでなさい」
二見れなは台所で料理を始めた。出汁を取り、肉と野菜を切り、火を調整していた。初めて使うキッチンとは思えないほど、手際がよかった。私はその背中をぼんやりと眺めながら、寝転んでスポーツドリンクを飲んでいた。
出来上がったのはとても本格的な鍋焼きうどんだった。プロ顔負けと言ってもいい。私はつゆを飲み、うどんをひと口すすった。
「美味い」
食欲はなかったが、本当に美味しかったのだ。
「ちゃんと残さず食べて」と彼女は言った。
「もちろん」と私は首肯した。
鍋焼きうどんを完食すると彼女が言った。
「桃も買ってきたんだけど、食べない?」
「いただくよ」
我々はこたつに向かい合って座り、カットされた桃を一緒に食べた。その間、彼女はひとことも言葉を発さなかった。そのあと食器を洗い、部屋に散乱していた本やCDをまとめて置き、部屋の隅に並んでいたビールの缶をごみ袋に入れた。
「お大事に」と二見れなは去り際に言った。
「ありがとう。とても助かったよ」と私は礼を言った。
目が覚めると午後の四時だった。私の宿酔いはすっかり解消されて、体調は優れていた。また夢だったのだろうか。私は煩悶とした気分でしばし考えつづけた。しかし彼女の残り香は仄かに部屋を漂っていた。
*
「あなた、スーツは持ってる?」とサキは訊いた。
持っていないと私は答えた。正確に言えば、五年前に近鉄の百貨店でオーダーメイドしたスーツがあったのだが(知り合いからチケットをただでもらったのだ)、残念なことにサイズがもう合わなくなっていた。
「じゃあこれを着てみてくれないかな」と彼女は言ってダンヒルのグレーのスーツを私に手渡した。「絶対あなたに似合うと思うの」
私は試着室でスーツに身を通した。生地は滑らかで肌触りはよし。着心地も申し分なかった。
カーテンを開くと、
「最高」
とサキは手を合わせて喜んだ。
なんでこんな状況になっているのか、順を追って説明せねばならないだろう。
その日、私は朝からレッド・ホット・チリ・ペッパーズの「カリフォルニケイション」を聴きながら、カティサークをストレートでちびちびと飲んでいた。午前十一時半に玄関のチャイムが鳴った。また二見れなかもしれない、と思いドアを開けると、そこには髪をうしろに撫でつけ、黒光りした肌に光沢のある黒いスーツを着た大男が立っていた。190センチメートルくらいはありそうだ。年のころは今ひとつわからないが、その堂々とした顔つきや雰囲気からだいたい三十代後半から四十代前半だろうと私はあたりをつけた。
「事前に連絡もなく突然失礼」と男は特に申し訳なさそうな様子もなく言った。「私はサキ様の秘書をしている篠原と申します。サキ様がお呼びです。ご同行願いたい」
私は少し考えた。「今からカルボナーラを作ろうと思っていたんだ。ベーコンをにんにくで炒めて、生クリームを使わないシンプルでトラディショナルなやつ。食べたことある?」
篠原は眉ひとつ動かさなかった。「食事はこちらでご用意差し上げます。急を要するのです」
「だったら本人が直接訪ねてくればいいじゃないか?」
「事情があるのです。そこは察してください」
「察するも何も、私は彼女のことをほとんど何も知らない。従う義理なんてないよ」
「悪いようにはしません。来てください」
この男に何を言っても無駄だ。『使い』で来ているのだから。こっちが根負けするまで一歩も引かないだろう。
「わかったよ」私は手のひらで額を押さえた。「ちょっと準備するから待っていてくれないかな?」
彼は言った。「いいえ、そのままで結構です。あとはすべてこちらで用意します」
「髭くらい剃らせてくれよ」
「腕のいい美容師を手配済みです」
「やれやれ」
私は黒いキャップを被り、コロンビアのTシャツ、ベージュのショートパンツ、ニューバランスのスニーカーといった恰好で、マンションのすぐ側のコインパーキングに停めてあったメルセデス・ベンツ——しかも黒塗りのSクラス——に乗せられた。
篠原に連れてこられたのは意外にも古い民家の立ち並ぶ住宅街の奥に佇む、一軒の素朴なお好み焼き屋だった。座敷の前には金のラメがほどこされたパンプスが揃えて置いてあり、畳の上でサキが足をくずしながらビールを飲んでいた。
「あなたも飲む?」
「いや、いい」と私は断った。私は彼女たちの強引なやり口にすこし不信を抱いていたから。
彼女はノースリーブの白いブラウスにピンクベージュのタイトスカート、金のネックレス、その上、顔には金縁の丸眼鏡をかけていた。
「篠原」とサキは言った。「下がっていいわよ。四十分時間をつぶしたら店の前に車をつけておいて」
「承知いたしました」と篠原は言って、店をあとにした。
私は警戒をしながらも靴を脱いで座敷に上がり、サキの向かいに座った。
「もっと楽にして」と彼女は言った。「ここのスジ玉は絶品なのよ。それも信じられないくらいに値段が安いの。あとミックス焼きそばもぜひ食べて欲しい。シェアしましょうよ」
「君は何がしたいの?」と私は尋ねた。
「まずは腹ごしらえをしましょう。話はそれから」彼女はにっこりと微笑んで、店員を呼んだ。
「あなた、少し顔がむくんでいるわね。呑み過ぎなんじゃないの?」とサキはお好み焼きを食べながら言った。
「否定はできないな」と私は苦笑した。
「ちゃんと食べてる?」
「今食べてるよ」
正直なところ、一日一食の日も珍しくはなかった。
「どう? 美味しいでしょう?」
「誇張するわけじゃないけれど」
と私は言って、
「今まで食べたどのお好み焼きよりも美味しい」
と肯定した。
「そう、よかった」彼女は嬉しそうに笑った。
サキはよく食べた。スジ玉とミックス焼きそばを我々はシェアしたのだが、彼女は追加でサイコロステーキ、とん平焼き、コーンバターも食べた。
「それだけ食べてよく太らないな」と私は感心した。「どんな胃袋をしているんだろう?」
「あら、これでも腹八分よ」と彼女は紙ナプキンで口もとを拭いながら、なんでもなさそうに言った。「美味しい食事はわたしにとっての活力源なの」
「ふうん」と私は言って腕を組んだ。
そして、
「それで話って?」
と私は深刻な顔で切り出した。
「うん」とサキは首肯して息をついた。「今夜とても大切なパーティがあるんだけれど、それをあなたにエスコートして欲しいの」
「本気で言ってるの?」私はびっくりした。「分不相応だよ。パーティのエスコートなんてしたことない。それに相応しい相手なら君にはいくらでも見つけられるだろう? 例えばさっきの秘書とか」
「あなたが一番相応しい」と彼女は迷いなく断言した。「特に気負わず、今までどおりのあなたでいいのよ」
「そう言われても——」私は口ごもった。
彼女は純金の腕時計を見た。「そろそろ迎えが来るわ。場所を移しましょう」
店の外に出るとベンツが停まっていて、その手前に篠原が胸を張って立っているのを認めると、彼は秘書よりもボディガードの方が向いているんじゃないかと思った。彼が後部座席のドアを開け、サキが私の手を取り、我々は車に乗り込んだ。
「高島屋へ」とサキは篠原に命令した。
車は音もなく走り出した。
そのようにして私は高島屋の紳士服売り場にてサキに仕立てのいいスーツを買い与えられ、ついでに白いワイシャツと黒いネクタイ、黒い革靴もプレゼントされた。そのあと私はシャワーを浴び、アロマオイルマッサージを四十分間受けさせられ、ヘアサロンに連れていかれて耳まわりを短く刈り上げられたのち、髭も丁寧に剃られ、仕上げには髪を若々しくセットされた。鏡で見ると、私は別人のように見違えていた。精悍な顔つきの人間がたしかに鏡の中にはいて、とても自分の顔には見えなかった。気がつけば私は、身の内に例えようもない恍惚感を覚えていた。
「わたしの目に狂いはなかったわ」サキは私の仕上がりを見て、いたく気に入った様子で微笑んだ。
今度は都心の一等地の大きなビルの二階にある広い事務所に通された。もちろん移動はすべて篠原の運転だ。事務所には誰も居なかった。部屋の中央には黒い革張りのソファと大理石のローテーブル、壁には大画面のモニター、そして窓際には簡素な事務用の机と椅子があった。机の上にはマッキントッシュが置いてある。彼女は私の左手に文字盤の青い銀のロレックスの腕時計をつけさせ、都会的な香りのするユニセックスの香水を軽く振りかけた。
「完璧」サキは腰に手を当てて満足そうに笑った。
私は宮沢賢治の「注文の多い料理店」のように騙されているんじゃないかと思った。彼女が私に何を求めているのかが、今ひとつ理解できなかったのだ。取って食おうっていうのなら、私は窮地を救ってくれるような優秀な猟犬を飼ってやしない。
「たかがパーティに行くくらいで、少々やり過ぎなんじゃないか?」と私は尋ねた。
「こういうことはね」とサキは言って、短く間を置いた。「やり過ぎるくらいで丁度いいの」
彼女は壁にかかっているモノトーンのモダンな時計を見た。「いけない」
時計の針は午後四時半を指していた。
「そろそろわたしも支度しなくっちゃ」
「そのままでもいいんじゃないか? 別におかしくないよ」
「駄目よ。やり過ぎるくらいで丁度いいって言ったでしょう?」
「そうだけど——」
「部屋の隅にワインセラーがあるから、好きなの飲んでくれていいわよ。だいぶ時間がかかりそうだから。グラスと灰皿はシンクに置いてあるわ」
彼女はそう言い残すと部屋から出て行った。
とりあえず私は流し台の横に干してあったクリスタルの灰皿を見つけ、それを大理石のローテーブルの上に置いた。黒い革張りのソファの真ん中に腰かけ、煙草に火を点けて大きく息を吸い込み、天井に向けてゆっくりと吹いた。ほどなくして大型の空気清浄機のうなる音が静かに聴こえてきた。