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イエロー・ニルヴァーナ  作者: Kesuyu
第1部 夢の中から責任は始まる
2/28

2 比類なき微笑み、フロム・ザ・ニュー・ワールド




 午後六時にミッキーズ・バーの扉を開けた。店に客は誰もおらず、マスターの三木さんがひとりで丹念にグラスを磨いていた。

 中央の席につくと私は三木さんに軽く挨拶をして、

「一番乗りだね」

 と言った。

 彼は軽く首肯した。

 私はバス・ペールエールを注文した。一杯目はいつもビールと決めている。それに喉もいくらか乾いていた。

 店内にはスコット・ラファロが交通事故で命を落とす前に(ときに天才は早世が多い)ベースを担当していたビル・エヴァンスのトリオの演奏がかかっていた。「サンディ・アット・ザ・ビレッジ・ヴァンガード」だ。

 三木さんが私の前にきて、瓶から注いだビールのグラスをそっとコースターに載せ、その隣に灰皿と小皿に入った柿の種・ピーナツを小気味よく添えた。

「景気はどう?」と私はバス・ペールエールを飲みながら質問した。

「ようないよ。昔はもっとお客さんもぎょうさんおったし、常連さんもしょっちゅう顔を出してくれた。でも今はなんとか経営していくだけで必死や。やっぱり時代の流れには逆らえへんわ」

「そう」

 三木さんは愛媛出身で大阪の大学を中退し、今ではここでバーを営んでいる。だから関西弁を巧みに扱う。

「以前はこの店の前の通りも人でいっぱいやった。でも今ではがらがらや。みんな家に引き籠ってしもたんちゃうかな」

 私はなんて答えていいのかわからず、静かに曖昧な笑みを返した。

 バーの扉が開いた。ひとりの女が店に入ってきた。その瞬間、店の空気が一変した。女は縁の大きなグッチのサングラスをかけ、髪は黒いボブカット、ピン・ストライプのブラウスにベージュのワイドパンツを纏っていた。足もとは光沢のある赤いピンヒール。そしておもむろにサングラスを外した。瞳の奥に輝きがあり、肌は艶やかだった。年のころはわからない。ただ綺麗な女だった。声をかけられるのが面倒だから美人はひとりではバーに入らないと以前本で学んだが、例外もあるようだった。

 女はひととおり店内を見まわしてから、すたすたと歩いて私の席のふたつ奥のカウンター席に座った。彼女が通ると仄かにグレープフルーツの香水のいい匂いがした。

「とても喉が渇いているの」と女は三木さんに言った。

「なんにします?」

「とりあえず、マリブ・オレンジ」

 彼女は出されたマリブ・オレンジをゆっくりと、しかも美味そうに飲んだ。

 私は彼女を視界の端に収めながら、今度はギムレットを飲んでいた。意識したいわけではなかったが、ただならぬ存在感がその女にはあったのだ。

 女はマリブ・オレンジを飲み干すと一寸満足そうな笑みを浮かべ、私のほうを見た。

「あちらの方と同じカクテルをいただけるかしら」と彼女は三木さんに言った。

 私は一瞬どきりとして、

「ギムレットを知っているの?」

 と女に話しかけた。

「ええ、チャンドラーの『長いお別れ』は好きよ」と彼女は首肯した。そして付け加えるように、

「それにあなたってとってもクールにお酒を飲むのね」

 と言って微笑んだ。

 私はクールに酒を飲んだ覚えなどない。いくぶん常人より肝臓が丈夫なだけが取り柄の精神障害者だ、と思ったが、それは口には出さなかった。それに黒い柄もののシャツにベージュのショートパンツ、ナイキの黒いスケーター・シューズという恰好で夕方から酒場に入り浸っている自分など、見る人によっては「不良」と言われて然るべきだったろうし、実際世話になっている心療内科の医師には毎年診断書に「不良」の烙印を押されるのが通例であった。

 我々はギムレットの杯を掲げ乾杯をした。

「これでわたしたちは同士ね」とサキは言った。

 彼女の名前はサキといった。それ以上のことは知らない。

「『長いお別れ』に(なら)うなら、同士ではなく()()だよ」と私は言った。

「わお」と彼女は言ってにっこりと笑った。十代と見違えるような屈託のない笑顔だった。「いいね、それ」

 しかし数多ある文学にまた倣うのであれば――『長いお別れ』然り――親友との関係はあまり素敵な結末にはならない。私はアメリカン・スピリットを一本咥え、ライターでその先端に火を点けた。


 サキが帰ったあと、三十分ほどしてニコがミッキーズ・バーに現れた。彼は迷いもせず、ずかずかと歩いてきて、私の隣の席にどかっと腰を下ろした。真夏だというのに百合の花の刺繍をほどこしたジャンパーを着ている。額には、じんわりと汗をかいていた。

「三木さん、いつもの」と彼は大きな声を店内に響かせた。

 ほどなくしてニコの前には冷えたコーク・ハイが置かれた。

「近頃は暑くて敵わないね」とニコは言ってコーク・ハイに口をつけた。

 たぶん私に言っているのだろう。

「だったらそのむさくるしいジャンパーを脱げばいいだろう」

「これはポリシーでね」と彼は言って頭をかいた。「わかんないかな? ときとして、人にはそういう美学が必要だってことを」

「わからないね。私は相応の恰好しかしないから」

「詰まんない奴だね」

「真夏にジャンパーを着ないのが詰まらないならたしかにそのとおりだよ」と私は言ってから少し嫌な気持ちになった。

 彼はうろたえたような表情を見せ、

「いや実はこのスカジャンはずっと予約待ちで、昨日やっと手に入ったんだ。どうしても誰かに自慢したかったんだよ。だから勘弁してくれ」

「別に咎めているわけじゃないさ。ここは冷房がきいているし、好きな服を着ればいい」

「すまないね」彼は居心地悪そうに笑った。

「ニコは冷え性なんや」と三木さんがすかさず弁護した。「いつやったかな、前はクーラーの風にあてられて唇が青おなっとった。あれは心配したで」

「そんなこともあったね」とニコは噛みしめるように肯いた。「まあ、昔の話さ」

「ふうん」と私は言って、煙草をガラスの灰皿に圧しつけた。

 ニコは煙草を吸いながら、たっぷり時間をかけてコーク・ハイを飲み干し、

「今日はもう帰るよ」

 と言った。

「カミさんが待ってるんでね」

 そして勘定を支払うと、帰り際に、

「また来る」

 と言い残して去っていった。

 私はその背中を黙って眺めていた。窓の外は日が沈み、辺りはすっかり暗くなっている。私はワイルド・ターキーのロックをチェイサーとともに注文し、グラスを傾けながら長い時間想いをめぐらせてみた。しばらくするとぼんやりとした疑念はじょじょに輪郭を帯び、次第に形取られ、やがては確信に変わった。()()()()()()()()()()()()()()、と。私には帰りを待っている人などいないし、本当の意味で帰るべき場所などというものさえも存在しなかったのだから。


     *


 あくる日も午後六時にミッキーズ・バーの扉を開けた。ユニクロの洗い立ての深緑色のポロシャツにブルージーンズ、ナイキの芥子色のバスケットボール・シューズといった恰好だった。カウンターの中央席にはカッターシャツを着た二人連れの中年男性が静かに話をしていたので、一番奥の席に座った。昨日サキが座っていた席だ。店内のスピーカーからはキャノンボール・アダレイの「サムシン・エルス」が聴こえていて、私はいつものようにビールを飲みながら、夏目漱石の「夢十夜」を読んだ。読み終えるといったん本を閉じて、店のカウンターの向こうの棚に並んでいるウィスキーやリキュールのボトルをただひたすらに眺めていた。

 三木さんが近寄ってきて、

「なんか欲しいのがあったら言うてや」

 と言った。

 私はラフロイグをストレートで注文した。酔いたかったのだ。しかし一向に酔いはまわらなかったし、むしろ頭の中は日中の動物園の白熊のように冴えていた。

 店の扉が開いた。そこにはレイバンの緑のサングラスをかけ、黒いワンピースを着た女の姿があった。光沢のある赤いピンヒールを履いている。しばらくすると女はすたすたと私のほうに歩いてきて、隣に座り、黒いエナメルのポーチを膝に載せた。

「ギネス」と女は言葉すくなに三木さんに言った。

 そのあとサングラスを外して彼女は私の顔を覗き込んだ。

「ひさしぶり」と彼女は無表情に言った。

 私は一寸息を呑んだ。二見れなだった。


「夢の中でしか会えないのかと思っていたよ」と私は言った。

「何を言っているの?」二見れなは怪訝な表情を顔に浮かべた。「夢と現実の境界なんて定かではない。そもそもわたしもあなたも実存するとも限らない。そう思っていること自体が間違い。ひょっとするとすべては〈夏の夜の夢〉なのかもしれない」

 彼女は黒いエナメルのポーチからマルボロを取り出すと、箱から煙草を一本抜き取って指に挟んだ。

「『思想は有意義な命題である』と、かのオーストリアの哲学者ウィトゲンシュタインも語っている。ゆっくりと考えるといい」

 二見れなの煙草にライターで火を点けてやると、彼女は静かに息を吸い込み、そして宙に向けてまた静かに吹いた。

「ついでに彼はこんな言葉も遺している。『世界は起こっている事の総体である』。刮目して、世の中を見据えるべき。どんな些細なことにでも人には――なんであれ――そこに意義を見出せる能力が備わっている。だって人間は世界の一部なのだから。どんな結果であろうと、考えることをやめない限り」

「肝に銘じるよ」と私は首肯した。「君は難しいことをよく知っているね。いつもそんなことばかり考えているの?」

「まさか」彼女は憂鬱そうに笑い、正面を向いてギネス・ビールを飲んだ。「でも抽象的な話は往々にして退屈。申し訳なかった」

「謝る必要なんてないさ」と私は言った。「だいいち私はゾンビだけの世界のように退屈な人間だからね」

「ゾンビだけの世界?」

「もしこの世をゾンビが征服してしまい、人間がいなくなってしまったらそのあとゾンビたちはどう暮らせばいい? 生きた血肉を求めて彷徨(さまよ)うのみだ。あとに残っているのは途方もない飢えだけだろう。きっとどこにも辿り着けやしない。ゾンビは歌も歌わなければ小粋にダンスをすることもしない。おまけに歯を磨く概念もないから口のなかは虫歯だらけだ。恋人にだってキスを断られる。退屈だろう?」

 彼女は私の眼をまじまじと見詰め、くすくすと笑った。

「あなたってかなり変」

「よく言われるよ」


     *


 グレン・グールドはバッハのゴルトベルク変奏曲を生涯で二度録音している。とりわけ私が好んで聴くのは(とりわけと言うかほとんどに等しい)、1955年の初期の盤だ。その軽やかで瑞々しい、そしてたしかな勢いのあるリズムとタッチに身をゆだねていると、私は――ときとして――心地よい非現実性を感じることができる。

 私は朝から何も食べず、熱いブラックコーヒーを一杯、缶ビールを二本飲み、アメリカン・スピリットを四本吸っていた。何をする気にもなれなかった。予定などというものは、月一回の心療内科の診察とヘアサロンしかなかった。まぎれもなく私は世間から取り残されていた。

 ふいに部屋の固定電話が鳴った。電話が鳴ったのはひと月まえに母からのたわいもない連絡がきて以来だ。もしかしたら回線はもう繋がっていないものかと思っていたがちゃんと機能していたのだ。

「おひさしぶり」と受話器の向こうで女の声がした。

「どちら様?」と私は訊いた。

「サキ」

 私は驚いた。「どうしてこの電話番号を知っているの?」

「三木さんに聞いたの。最近バーに顔を出していないんだってね?」

 最後にミッキーズ・バーに行ったのは十日前だった。

「金も気力もなくてね」

「でもどうせ暇なんでしょ? ちょっと外に出てみるつもりはない?」

「どうして?」

「だってあなたはわたしの()()なんでしょう?」

「たしかに」と私は首肯した。

「じゃあ今日の午後二時にU町の駅前の噴水広場の前で」

「わかった」

「なるべくちゃんとした恰好をしてきてね」

「なるべくそうする」

「待ってる」とサキは言って電話の回線は切れた。

 私はカレンダーを見た。気づけば今日は日曜日だった。自分の中で曜日の感覚が出鱈目になっている。私はまず部屋着を脱いで、バスルームで熱いシャワーを浴びた。


     *


 私は白いTシャツの上にダークブラウンのノーカラーシャツを着て、黒いチノパンツを穿いた。シャツのボタンをきちんと締めてジャケットを上から羽織ろうかとも迷ったが、暑いのでやめた。そして玄関でダナーの黒い革靴を履いて外に出た。

 電車に乗るのはひさしぶりのことなので少し緊張し、次第に額にじんわりと汗をかいた。私はズボンのポケットに手を突っ込み、車両のドアの隅にもたれかかって車両内を見渡した。乗客には色んな人がいる。家族や友人、恋人と話をしている人。携帯電話をずっと触っている人。リュックサックを手にぶら提げて退屈そうに外を眺めている人。ベビーカーの赤子をあやしている人。読書をしている人。眠り込んでいる人。様々だ。四十五分後、U町の噴水広場の近くの駅に到着した。


「上出来」

 サキは私を見るなりそう言って満足げな笑みを顔に浮かべた。

 それは時間どおりに着いたことなのか、服装のことなのか、それともその両方のことなのか、私には判断がつかなかった。

 彼女はセリーヌの黒いサングラスをかけて、鮮やかな赤いワンピースに身を包んでいた。唇にも真っ赤なリップが塗られている。ダークブラウンのレザーのサンダルを履き、足の爪にも赤いネイル、そして麦わら帽子を被り、ヘリンボーン編みのかごバッグを肘にかけていた。

「これからどこに行くの?」と私は尋ねてみた。

「新世界」とサキは答えてさっさと前を歩いていった。

 しかし彼女はふと立ち止まり、手首にはめた金のブレスレットの時計を見た。

「まだ少し時間があるわね」

 我々は近くの小綺麗なカフェに入ってお茶をした。彼女はカフェラテを、私はブレンドコーヒーを注文した。私が砂糖もミルクも要らないと店員に言ったら、サキが、

「あなたって、やっぱりどこかハードボイルドよね」

 と言って微笑んだ。

「まさか」私は席に着くといくぶん熱すぎるコーヒーを飲んだ。「私は君が思っている以上に()()だよ」

「例えば?」

「例えばふやけたマッシュポテトくらいにね」

「マッシュポテトは好きよ」サキは頬杖をついて唇の端を持ち上げた。私の知る限り、彼女は色々な笑い方を心得ている。

 そのとき、私は一瞬二見れなのことを思い出した。なぜだかサキと話をしていると、サキと彼女を重ね合わせてしまう自分がたしかに存在した。それはどことなく私を不思議な気持ちにさせた。

「さて」とサキは時計を眺めて言った。「そろそろ行きましょう。開演するころだから」

 彼女はサングラスをかけ、麦わら帽子を被った。


 私はシンフォニーホールの二階席でサキと並び、大勢の聴衆に混じってオーケストラの演奏するドヴォルザークの「新世界より」を聴いていた。彼女が言っていた新世界とはこのことだったのだ。

「お友達が突然来られなくなっちゃって、付き合ってくれてありがとう」とサキは言った。「クラシックはお好き?」

「詳しくはないけれど、それなりに好きだよ」と私は返事をした。

「よかった」彼女は本当に安心したように胸もとに手を当てた。

「でも新世界って言うから、串カツでも食べに行くのかと思ったよ」

「それは大阪の新世界よ」と彼女は言って、私の胸の前に手のひらを振り下ろした。

 私は声を挙げて笑ったあと、場違いであることに気づき、今度は声を潜めた。

「串カツ、長いこと食べてないな」

「わたしも」とサキは肯いてから、眼を輝かせた。「よかったらこのあと、食べにいきましょうよ。どうせこのあとの予定もないんでしょう?」

「失礼だな」と私は苦笑した。「でもせっかくお洒落したのに、服に臭いがついちゃうよ?」

「そんなのクリーニングに出せば平気よ」

「なるほど」

 そして我々はしばらく黙って、管弦楽の音に耳を澄ませていた。生のオーケストラほど迫力のあるものはそれほどに多くはないだろう。私は身をゆだねるようにその押し寄せる音の波に浸っていた。

 会場から出るとき、サキは、

「なかなか悪くなかったでしょう?」

 と言って私の肘を掴んだ。

 私は驚いたものの、彼女に恥をかかせないように細心の注意を払ってエスコートをした。




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