1 プールサイドとアッシュ・グレーの髪の女
すべての人を、ある時間だますことはできる。何人かの人は、ずっとだまし続けることもできる。しかし、すべての人を、ずっとだまし続けることはできない。
エイブラハム・リンカーン
死のうと思った。
齢二十七にして、重い精神障害が発覚し、世間体のためから父に実家を追い出された。私は祖父の遺したマンションの一室で毎日酒と煙草に溺れ、以前勤めていた会社の退職金も底をつきかけていた。携帯電話は解約し、以来旧友とは一切連絡を取っていない。その間、出会った異性にも再三逃げられている。
厳格な父には、
「普通にしていろ」
とずっと叱責されてきた。
しかし私には「普通」と云うものが皆目見当もつかない。手を伸ばしても、太陽のように眩しく、また太陽のようにほど遠い。じっと凝視できず、届かぬどころか、このままだと陽に焼かれてめくらになってしまう。いや、もう心はとうにめくらであったのかもしれない。破壊衝動。しかしどれだけ壊しても、壊しても、私の周囲に於けるものごとは、その瞬間からもまた腐っていく。やり場のない憤りと行きつく果てのない哀しみ。私は罪深い。もっとずたずたに引き裂かれる必要がある。赦しなど必要としないのだ。そう思い自らを痛めつづける日々を過ごしてきた。
またときおり、何かに取り憑かれたかのように事物にのめり込む。文章を書くこともそのひとつだ。仕事然り、趣味的活動然り、そして異性然り。しかし何かを最後まで成し遂げたことはこれまでに何ひとつとしてない。俗に云う半端者である。しまいにはぜんぶ途中で投げ出して酒場に居座る始末の悪さ。すべては濁った小便にして、タールの入り混じった煙にしてしまう。消し去るのに必死なのだ。頭の中の蛆虫と共に。
ふと立ち止まって振り返ってみる。少しも前に進んでいない。私は多くを見捨て、裏切り、踏みにじり、失ってきた。足もとには止め処もなく怨念のような手が絡みついてくる。憎むべきは他の誰でもない。己だ。私はきっとどこにも行けない。
なんのために生きているのか、私には塵芥ほども理解できなかった。そして自分には生きている価値などない――そんな結論が私の頭をもたげていた。
そんな人間に、語られるべき言葉などというものは存在しないであろう。
*
あるとき私は夜のプールサイドにあぐらをかいて座っていた。靄が薄くかかり、先が見えないほど、果てしなく広いプールだった。時刻はわからない。ただ月明かりの下、淡い水色のワンピースを着た肌の白い女が隣に腰を下ろし、水面に裸足を投げ打っていた。開いた両手を腰の横につき、虚ろに足もとを眺めている。その髪は長く、アッシュ・グレーで艶やかだった。
「人を探している」と彼女は唐突に、俯き加減に呟いた。
「誰を?」と私は訊いた。
「思い出せない」彼女は溜息混じりに首を振り、そして宙を見上げた。「ただ長い間ずっと探していたような気がする」
「うん」と私は首肯した。
「あなたは探している人はいないの?」と彼女は振り向いて言った。瞳が大きく、とても端正な顔立ちをしていた。
「さあ、わからないな」と私は答えた。「いるような気もするし、いないような気もする」
「忘れてしまえれば、ぜんぶ楽なのに」と彼女は消え入るような声で言って、視線を逸らした。
しばらくすると女はゆっくりと立ち上がり深く息をついた。頭上に向けて両手を伸ばし、重ね合わせると、
「わたしのこと、忘れないで」
と言って、プールに飛び込んだ。
私は息を呑んだ。水飛沫のあとの波紋が収まるまでずっと。そのあと彼女が探していたのは自分のことではないか、という疑念が一瞬脳裡をかすめた。しかしいくら待てども女が水面に顔を現わすことはなかった。私はまた独りになった。
目が覚めると深夜三時だった。私は異常なほどにたくさんの汗をかいていていた。部屋の中は暗く、カーテンの隙間からは月の光がわずかに射し込んでいる。ひどく喉が渇いていたのでタオルで汗を拭きながら冷蔵庫を開け、冷えたジンジャー・エールを取り出した。冷蔵庫を背にもたせかかりながら、ジンジャー・エールをひと口飲んだ。炭酸は泡となって弾け、私は溜息をひとつついた。そして部屋の天井をしばし眺めつづけた。胸の疼きを感じる。その手はきっと探し求めるだろう。
死ぬ前に、なんとしても彼女を見つけ出さなくてはならない。
私は深くそう決心した。
*
「あの子が探しているのは、おそらく俺のことなんだ」とバーで隣に座っていた男は得意げな表情でどなった。
ミッキーズ・バーはカウンターのみの八席で、普段はがらんどうなのにその日は珍しく空席がないほどに混み合っていた。皆、一様に肩を寄せ合って酒を吞んでいる。あまりに騒がしくて私は一寸聞き間違えたのかと思った。
「彼女のことを知っているのか?」と私は驚いて尋ねた。
なんでこんな話になったのかもよく覚えていないくらい、お互いがひどく酩酊していた。私はチェイサーを飲み、ミックスナッツのくるみを食べた。
「ああ、よく知っているよ」と彼は満足気に答え、グラスに半分残っていたコーク・ハイを一息に飲み干した。「あれはいい女だったね」
「どんな風に?」
「なによりルックスがいいね」と彼は即座に答えた。「さらに品があって、よく気が利く。愛想も悪くない」
それはなんだか私が知っているプールサイドの女とはかなりイメージが異なっていた。私は彼女に対してどこか儚げでぶっきらぼうな印象を抱いていたからだ。
「今彼女はどこにいる?」と私は訊いてみた。
「知らないね」彼は本当に何も知らないように首を振った。
「どこで出逢った?」
「それは――」
と彼は一瞬躊躇するように口籠り、
「夢の中さ」
と答えた。
プールサイドの女は他の人の夢の中にも現れるらしい。しかしそれは決して朧気な存在ではなかった。血が通い、自らの言葉を持っている。私はしばらく押し黙り、グラスの中のⅠ.Wハーパーを見詰めていた。
「ところであんた、名前は?」と男がラークに火を点けながら、ふいに訊いてきた。
「亀井」と私は答えた。
彼は煙を吐き出し、
「じゃあ、あんたの呼び名はカメだね」
と言って、にんまりと笑った。
「俺は二小山。ニコって呼んでくれよ。そっちのほうが気も楽だ」
このようにして私はニコと知り合いになった。
*
昼下がり、朝から酔い潰れた私は自宅でゲッツ/ジルベルトの「イパネマの娘」を聴きながら、布団に仰向けになって目を閉じていた。窓から陽が射し込んでいて、とても気持ちのいい午後だった。
「太宰治は家庭のエゴイズムを憎悪しつつ、新しい家庭の夢を追ったと云われている」
私は目を開けた。枕元にプールサイドの女が立っていた。両手をうしろに組んで、私の顔を見下ろしている。今度は青いドット柄のワンピースを着ていた。夢か――と私は思った。
「こんにちは」と私は挨拶した。
彼女はそれには応えなかった。「また、彼は著書で『曰く、家庭の幸福は諸悪の本』と述べている。それについてあなたはどう思う?」
私はやっとの思いで背中を起こし(少し頭痛がした)、それについて考えた。「難しいテーマだね。でも人間の営みというものは常に犠牲のうえに成り立っている。そういった意味あいに於いては幸福も同じことなんじゃないかな?」
「そうね」と彼女は無表情に言ったが、その答えが正解だったのかどうかは伺い知れなかった。
「ねえ、君の名前を教えてくれないかな? ひとつの印として」
「ひとつの印として」彼女は暫定的に唇の端を釣り上げた。
しばらくしてから、
「二見れな」と彼女は言った。「二見は数字の二に、見る。れなは平仮名」
「二見れな」と私は呟き、そして噛み締めた。「いい名前だね」
「ありがとう」
私も名乗ろうとすると、二見れなは手のひらを向けてそれを止めた。
「すでに承知している」
すでに承知している? 私はこの前の夢よりも以前にどこかで彼女と会ったことがあるのだろうか? でも彼女に見覚えはなかった。
「ところで、こんなに素晴らしい天気なのにどうしてあなたは昼間から寝ている?」と彼女は訊いた。
「病弱でね」と私は答えた。
そしてしばらく俯いたあと、
「そう言えば、君の探している人は見つかったのかな?」
と顔を上げて尋ねてみた。
しかし二見れなの姿はもうそこにはなかった。白昼夢のように忽然と姿を消したのだ。
気がつけばベランダに面したガラス戸は開いていて、カーテンは風に吹かれてそよいでいた。