肉の村の女
人の口に戸は立てられぬ、とはよく言ったものだ。先帝の崩御は呪いではなかろう、毒殺、それも鳥兜の毒に違いない。そう迂闊に口にしたせいで、北京の都を追われる羽目になってしまった。時期や死に様からそれが何の毒であるかは、ある程度絞ることができる。薬師の仲間と酒を飲んだ際、先帝の死に方の話になり、碧霄の見立てを言ったところ、翌日に錦衣衛の者たちが碧霄の薬屋になだれ込んでいた。幸い、碧霄は薬屋仲間と飲み明かしていた後で、自分が指名手配されていると聞き、その足で都から抜け出し、あちらこちらをさ迷い歩いては、命を狙われる恐れのない場所を探して旅を続けている。あの日、あの酒屋には宮廷勤めの者がいたのか、誰かその場にいた者が告げ口をしたのかは、分からない。ただ金のために人を売るのが当たり前の世で、最も権力というものを間近に感じる土地で、人のために医療を施し、薬を作るのは、もう嫌だった。だから、これが都を抜け出すきっかけになったのだと思うと、先帝の死にざまに触れたことについては、後悔はない。ただ、次は同じことはすまいと誓うだけだ。
食料を求めて医術を施し、余った金で薬を買った。その土地の人柄を見極めるために少しの間滞在し、自分が暮らしにくそうだと思えば、食料と薬を持って出て行く。そんな暮らしが、もう数年続いている。どうしようもない寂寥感や悲壮感に襲われることにも慣れ、山間部に近づいてきた頃、その男は現れた。
「碧霄って、どれが氏でどれが字だい」
「いんや、ただの通り名さ。青く晴れた空のことだ。孤児だったところを拾われてね、ただ通り名だけ貰ったんだ」
「そこで薬を教わったんかい」
「そうだとも」
ふぅん。男がじろじろと観察してくる。山のふもとに広がる市は、近くの山々に住む人たちが薬やら服やらを買うところだそうで、あちこちから客を呼ぶ声がする。男は薬屋で駄弁っていた者で、薬を買い求める碧霄に馴れ馴れしく話しかけてきたのであった。三十歳手前という若さで、優秀な薬師であったことを見抜いたらしい。うちの村に来ないかい、と彼はしきりに言い始めた。
「うちのお姫さんが結婚を控えてるっていうにずっと体調崩しててさ、困ってるんだよ。薬師のあんたなら治せるかもしれねえだろ」
「僕はもう何年も一所に留まって生活してないんだ。いつ出て行くか分からないが、それでもいいかね」
「いいさ、お姫さんが良くなれば、なんでも」
彼の言うお姫さん、というのは村長の娘のことらしかった。なんとも、大層美しいためにそう呼ばれているとか。美しい女というものは、大抵は後宮に取られるか妓楼に売られるかしてしまう。自分の身分で、金も払わずに会える美女なんてものは珍しく、薬師として不純な動機ではあるが、興味を惹かれた。
「やれることはやってみるよ。ただ、それなりに報酬をもらうつもりだからね」
「そうこなくちゃ」
男は頷き、碧霄が薬を買い集め終わるのを待つと、村への道を登り始めた。
男は李孟徳と名乗った。口の軽い男らしく、隣に住む家の者が実は浮気しているとか、どこに住む誰の初恋は誰だとか、そういった話を山を登っている間に永遠と話してきたが、知らぬ相手の内緒話が、碧霄にとって面白いはずがなく、ただ曖昧に頷いてやり過ごした。やがて木々の隙間から円形の土楼らしきものが現れ、近づくほどに高くそびえ立った。
「あれがうちの村だ。薬師がこの前みんな死んじまってね。困ってたんだ」
「病でも流行ったのかい」
「いや、処刑さね」
手招きされて、土楼の中に入る。ちょうど日陰になっているせいか、ひんやりとしたそこは、中央の広場を囲うようにして住居が作られていて、ずらりと並ぶ部屋の前に立った人たちが、広場を見下ろしている。彼らは見知らぬ者を歓迎するわけでもなく、警戒するわけでもなく、ただただじっと、広場の中央を見つめているのだ。稀に碧霄に気が付いて視線を寄越す者がいたが、その爛々と光る眼は、すぐに広場に戻された。冷や汗が、つうっと背筋を伝った。
「おやおや、これは今から処刑がはじまるね」
「どうしてまた」
「せっかくだから見ていくかい」
孟徳は質問に答えなかった。逃げ腰になりつつある碧霄の腕を掴み、心躍る見世物が今から始まるかのように、輝いた目で広場と碧霄を交互に見る。碧霄がそのどこか異様な様子に、逃げれば何か制裁が待っているような気がして、まるで自分も処刑を心待ちにする野次馬のように振る舞うと、孟徳は広場を指さした。
「この前薬師がみんな死んじまったって言ったろ? あれは村長とその娘さんに毒を盛った、って事件でね」
孟徳が語るには、つい数か月前、村長とその娘の食事に毒が盛られたという。彼らは日常的に、薬師たちが作る食事を食べていて、真っ先に薬師が疑われた。彼らは皆纏めて首を落とされ、その肉は処理されたという。
「処理、とは。どういうことなんだ」
まァ聞きなよ。孟徳はくすくすと笑った。
「薬師の連中が言うには、毒は食事を作った後に盛られたってことでな。じゃあ食事を運んだ小娘たちが怪しいってことになるだろう? そうでなければ、その小娘たちに誰かを渡したやつらがいる」
碧霄が頷くと、孟徳は自分が今立っている扉と反対側の扉を指さした。碧霄がつられてそこを見ると、ちょうど、重たい造りの扉が開いて、剣と鞭を携えた男たちを先頭に、桎梏を嵌められた罪人が五人、それぞれの身体を鎖で繋がれた状態で、広場の中央に引きずられてくる。罪人のうち二人は身体に麻痺が出ているようで、歩くことすらできず、両端の罪人がその二人を鎖でずるりずるりと引きずっているのだ。薄く血が広場に線を引き、碧霄は思わず顔をしかめた。ぴしりぴしりと鞭が打たれ、罪人たちが広場の中央で止まる。自らの力で立つことが出来ている罪人も、恐怖から来るものと違う、不自然なもので身体が震えていと気が付いてしまい、何か病を抱えているであろうと理解してしまう。額から汗が流れ落ちているが、罪人と病の関係に興味を持ってしまうのは、薬師であるが故だろうか。ここで行われる奇妙な処刑から、次第に、目が離せなくなっていることに気が付いて、内心で嫌悪した。
「今から行われるは、村長李幽玄様、そして李丹花様の暗殺の首謀者たちの処刑である。この者たちは薬師三名の尊い犠牲の元、彼らの肉を食し、その肉から病に罹った者たち。つまり肉の呪いを受けた者たちである。よって罪人とみなす」
処刑を宣告した男が剣を抜き放ち、迷いなく振りかざした。ほんの一瞬、その刃に陽光が煌めいて、すぐに振り下ろされた。ぽん、首が飛んでいく。
土楼の中は、静かだった。罪人は口枷を嵌められているせいで、悲鳴を上げることも命乞いをすることもままならないのだが、それぞれの部屋の前にじっと立って、見下ろす者たちの目はやはり爛々と輝いていて、広場で噴き出す血に、恐れる様子も見られなければ興奮する様子も見られない。百をゆうに超す目たちが、血と首を凝視している様は異様としか言いようがなく、先ほど碧霄に浮かんでいた奇妙な好奇心は小さく萎んで、潰れた。
ぽん、ぽん。首が飛ぶ。そのうちの一つと、目が合う。思わずその場で後ずさりした碧霄を、すべての処刑が終わった後に、孟徳はけらけらと笑った。
「男なのに情けねぇ。処刑なんか別に珍しいものでもないだろうに」
「まあ、そうさね。都では、公開処刑なんて、日常茶飯事だったな」
こんな風に、民が静かに見つめるようなことはなかったがね。そう胸の中で呟いて、込み上げる吐き気を抑えて、平静を装ってみせる。都でも公開処刑は行われたことはあったが、大抵は民の怒りを買うような何かをしたか、それらしい理由をでっちあげて行われる。悪女め、死ね! 妖鬼め、今までよくも! そんな声があちこちから上がり、民衆はこれまでの苦しみや怒りをぶつけるように、処刑を楽しむのだ。しかしここでは、まるで公開処刑は何か儀式の一部であるように、厳粛に、それでいて興味津々といった風に行われるから、気味が悪いのだ。何より気持ちが悪いのは、罪人の肉の使われ方と、罪人が有罪か無罪かの判定が、人肉を食べた後に病を起こすか起こさないかで判断されていることだ。
多くの種族において、同族を食するのが忌避されているのは、病気に罹りやすいからだというのが通説だ。そもそも、人間が同じ身体の造りである以上、個人による差はあっても、罹りやすい病気は揃う。犬猫がかかる病気でも人間が罹らないことはあるし、人間が罹る病でも犬猫が罹らぬこともある。食肉に畜肉が選ばれるのは、病を貰いにくいからだ。それをわざわざ人肉を食らわせて病に罹りやすい状況を作り、罹患の有無で罪の在りようを決めるなど、薬師の碧霄からすれば、殺すために儀式を行っているようにしか思えない。
奇妙な村に来てしまった。時を見て逃げ出そう。飛んだ首が袋に詰められていくのを見ながら、そう決心した。疑わしい人物を罪人に仕立てるために、罪のない可能性のある薬師たちを殺してみせた村だ。碧霄もどう扱われるかは分からない。薬を買いに行くと称して逃げ出そうか。そう思っていると、孟徳に「村長の元に案内しよう」と腕を引かれた。
李幽玄の部屋は、四階建ての土楼の最上階にあった。卓も座具は都に棲む貴族が使っているような、細かい装飾がされているものだったが、ここまでの部屋をちらと覗いた限り、このような高級な家具が使われているのは、この部屋だけだ。この村での幽玄の地位が伺えるようで、緊張する。孟徳が村長にいきさつを説明すると、彼はすぐに表情を綻ばせた。残虐な人物であることも覚悟していたのだが、予想に反して無邪気な人物であるようだった。
「おお、助かるとも。娘の治療をする者がいなくて困っていたのだ。なんだか外の薬師を呼んでもすぐに逃げられてしまうから、助かるよ、本当に。感謝する」
今夜は君を歓迎する宴を行おう、娘に今会わせるからついてきてくれ。そう微笑む彼は、なぜ外の薬師がすぐに逃げてしまうか分かっていないらしかった。
「丹花、入るよ。孟徳が薬師を探してきてくれたんだ。はやく病を治してもらおう」
娘もこの村の風習に染まっているのなら、逃げ出す前に気が狂ってしまうのではないだろうか。そう思ったが、娘を見た途端に、ふっと気持ちが溶けていった。
濡羽色の髪が、寝台から零れ落ちていた。雪を欺くような白い肌は、熱のせいか頬を中心に赤く染まり、雪の上に血を垂らしたようだった。まぶたがとろりとろりと開くと、彼女は幽玄と碧霄を交互に見つめた。
「薬師さん?」
「ええ。薬師の碧霄です」
「ふふ。わたくしね、身体が弱いのよ、元々。治せっこないわ」
「今は冬。寒邪に身体が弱くなる季節です。寒邪への対策を講じれば、良くなることもありましょう」
診察を行うと、舌苔薄白、脈浮緊と分かる。悪寒や発熱も訴えているようだし、案の定、寒邪が体内に侵入しているとみられる。厨房を借り、大葉と乾姜を使った粥を作り、丹花に出すと、諦めればいいのに、と言いながらも彼女は粥を匙にすくい、そっと食べ始めた。赤い唇が匙に触れる度、不思議と胸が騒ぐ。なるほど、これは大層な美女だ。きっと熱がなくても妖艶な女だろうに、熱のせいで、その身の持つ儚さと妖艶さが際立っている。この村はおかしいが、まだ碧霄の身に何か降りかかったわけではない。この美女に出会えたことで、とんとん、ということにしようか。
「身体を温める処方の薬膳です。食欲の許す限りでよろしい、食べて治しましょう」
「そんなに悪い味ではないのね。薬膳って不味いじゃない」
「はは、まあ、そうですな」
丹花がもう少し食べたのを見計らって、隣に用意された部屋にうつる。美女をもう少し眺めていたいという気持ちはあったが、話し続ければあの女の持つ甘美な魅力に、それこそ気がおかしくなっていたかもしれなかった。
使った薬、残った薬を数えている間に宴に呼ばれ、毒が入っていないかに気を配りながらも、勧められるままに酒を飲んだ。気持ちよく酔っぱらったところで自室に引き上げ、うとうとと眠ったり目を覚ましたりと繰り返していると、戸が控えめに叩かれた。
「さっきから喉が苦しくて。薬を貰えないかしら」
丹花の声だった。一気に酔いが醒めたような気分になって、慌てて火を灯して彼女を中に迎え入れると、彼女はこんこんと咳き込んだ。そう体調の悪さを訴えているわりに、纏っているのは薄い夜着一枚だけで、思わずたじろぐ。
「そんな薄着でいたら治るものも治りませんよ。薬を煎じている間、私が借りている掛布を肩にかけていて構いませんから、ほら」
掛布を取るためにかがめば、するりと彼女の気配が近づいた。はっとした時には、背中に彼女の胸が触れていた。
「この村、変でしょう?」
「はは、何のことやら」
「お母様が村の外の人だったから、わたくし、分かるのよ。おかしいでしょう、処刑の仕方」
ぎゅうと抱きしめられる腕に力が入って、やわらかな腿が触れる。身体の中心に熱が集まってくるのを感じて、碧霄は慌てて丹花を引きはがした。
「わたくしね、ここの人と、結婚するの。ずーっとずーっと、こんなおかしい村にいなくちゃいけないの。嫌よ、人を食べさせて、処刑するか決めるなんて」
彼女が言うには、殺したいと願った相手には、死にやすい生肉の、それも頭の中身ばかりをくれてやるのだと言う。無罪にしたい者には焼いた腿の肉を食べさせるのだそうで。村長をはじめとするごく一部の人しか知らぬことのようだが、処刑をするかどうかは、天が決めているのではなく、彼らが決めているらしい。神か何かの意向に見せかけたそれも、結局村長たちに気に入られているかどうかでしかない。そう知ってしまったら、今日処刑されたばかりの罪人たちが哀れで仕方なかった。
「おかしいですね、こんな村」
「そうでしょう。だからわたくしを連れ出してほしいの」
彼女の唇が近づく。乾いたそれを濡らしてやりたいという欲求が込み上げて、ごくりと唾を飲む。いいですよ、という声が零れたのは、その瞬間だった。喜ぶ彼女に口づけられて、寝台にひっくり返ってしまう。頭のどこかでは、彼女が自身の目的のために、ただ身体を使って籠絡しようとしているだけだと分かっているのに抗えず、ただされるがままに、彼女を抱きしめて、抱きしめられて、望まれるがままに情けなく精を吐き出した。二人でだるい身体を引きずって、朝日が昇る少し前に、土楼の外に向かっていると、彼女が突然叫んだ。
「いやーッ助けてェー」
「どうしたんだい、ねえ」
「薬師さんがおかしくなってしまったわ!」
このままでは攫われてしまうわ。そう彼女が叫んだ途端、起き出した住人たちが部屋部屋から飛び出してきて、こちらに迫ってくる。碧霄は何が何やら分からぬまま取り押さえられ、跪かされた。視界の端に、丹花のつややかな黒髪がうつる。
「この村の姫を攫おうと考えるとは、この悪人めッ。肉を食え、昨日の罪人の肉を食えッ」
「違うんだ、違う、話を聞いてくれ。違うんんだッ。丹花、君からも何か言ってくれ」
叫ぶと、彼女は何も知らないとばかりに狼狽えて、兵士の肩にしがみ付いた。その姿は、夜に碧霄を絡めとった蜘蛛そのもので、碧霄はその場に崩れ落ちた。
生肉を食わされたせいで、吐き気と下痢が止まらなかった。自らの汚物に塗れ、鼻も腐ってきた頃、牢の前に丹花はやってきた。見張りの男たちを遠くに下げると、艶やかな笑みを向けて、分かりやすく鼻を抑えた。
「騙したんだね」
「うふふ、可愛い姿を見せてもらったわ」
「この前殺された薬師も、僕が来た日に殺された人たちも、君の仕業なのかな」
「そうよ」
丹花はころころと笑う。腹痛と吐き気のせいでぐったりと動かない碧霄を心底嬉しそうに見つめているのだから、この土楼の中で一番狂っている者は彼女だったのかもしれないと気が付く。
「わたくし、寂しい人なの。誰かがわたくしのことを熱烈に考えてくれないと、死んでしまうの。だから人を陥れて、死ぬまでわたくしのこと考えさせるのよ。あなた、もう、わたくしのことで頭がいっぱいになってしまったでしょう?」
頷くしかなかった。処刑されるまで、碧霄は彼女のことを恨み続けるだろう。最後には呪ってやると叫んで、首を落とされるだろう。
「村の風習はわたくしが生まれる前からよ。ちょうど良かったの。来てくれて嬉しかったわ、碧霄さん」
「君が地獄に行くように、祈ってるよ」
「ええ、わたくしは地獄行きよ。でも、この前の夜のあなた、とっても可愛くて、わたくし、ちょっとだけ、好きになってしまったわ。だからあなたが首を落とされた後、あなたのこと食べてしまおうと思うの。生肉をね」
「僕の後を追いかけてくるつもりかな」
「地獄で会ったら、きっともっと好きになってしまうわね」
「僕は嫌いだよ。共にいたいのなら、あのまま一緒に逃げたら良かっただろう」
「だァめよ、人の口に戸は立てられないもの。この村の秘密を知った人は外に逃がしてあげられないわ。逃げた薬師も今頃死んでいるに決まっているじゃない」
「糞が」
呟いた途端、吐き気が込み上げてきて、碧霄はその場に胃液を吐き出した。丹花はその様子を恍惚とした表情で見つめて、ころころと笑った。
一か月後。身体の激しい麻痺に襲われた薬師は、罪人として首を落とされた。姫と呼ばれた娘は、その首を大事そうに部屋に持ち帰った。数日後、その部屋には頭の骨ばかりが飾られたという。