脳筋令嬢の婚約破棄 〜そうだ。殴れば解決するんじゃない?〜
公爵令嬢スカーレットは脳筋である。
なので、婚約者であるアーサーの浮気現場を目撃した際は、劣化のごとく怒った。
「アイツ、コロス」
オークみたいなことが口から出てしまうが、許してほしい。
繰り返そう。スカーレットは脳筋である。
グランディール家の公爵令嬢であるが、生を授かった瞬間から、彼女は数多くの伝説を打ち立てることとなった。
いわく、産声は『紅茶を飲みたい』だったこと。
いわく、次の瞬間には一人で歩いていた。
いわく、赤子の彼女の美しさに、数多くの男性が虜になったと。
無論、嘘だとスカーレットは思っている。
話に尾ひれが付いて、好き勝手に言われているのだと。
だが、その伝説を裏付けるかのように、スカーレットは幼い頃から賢く美しい女性であった。
六歳の時には、他国の王子に求婚された。
ちなみにその他国の王子は、自分より一回りも二回りも年上である。
なのに、求婚されたというのはスカーレットにとって、本来は光栄なことであるが……その話は断った。
当然である。六歳の自分に求婚するなど、とんだロリコンだからだ。
その王子は自国でも非難されたらしく、『ロリコン王子に、王位は継がせられない』と、王位継承権が剥奪されてしまった。
だが、それほどスカーレットの美貌は一線を画していたのだ。
彼女がその気になれば、稀代の悪女として国を傾かせることも可能だろう。
頭脳も明晰であった。
八歳の頃には、国の最高学府である学院の論文を読破してしまった。
彼女の伝説はそれだけでは終わらず、論文の問題点を指摘し、学者たちを驚かせた。
中には『八歳の女児になにが分かる』と鼻で笑う者もいたが、最終的にはスカーレットの正しさが認められ、そいつは学院から追放されてしまった。
このように、スカーレットは決してバカではないし、ゴリラのような女でもない。
だが、やっぱり彼女は脳筋である。
十歳の頃、スカーレットは気付いてしまったのだ。
まどろっこしい理屈を並べたところで、誰もが耳を傾けてくれるわけではない。
ざまぁするにも、手続きが煩雑で時間がかかる。
その間に怒りも冷めてしまう。正義の鉄槌は、熱いうちに打たなければならない。
ならば一発殴って分からせた方が、早くて確実ではないのか?
そして、どれだけ頭が良くとも──襲われた時に自分の身を守れなければ、終わりである。
命あっての知性であり、プライドだ。
ならばまず備えるべきは、暴力への対抗手段だと。
ゆえに、スカーレットは十歳の時から、勉強や社交界のパーティーはそこそこにして、自らの体を鍛え抜いた。
どんな強者が現れても、勝てるように。
どんな理不尽にも屈しないように。
それらは全て、『賢く美しく、誰よりも強くあれ』という彼女なりの理想を貫くためだった。
幸い、スカーレットは神に選ばれた子どもだった。
体術や魔法実技に関してもすぐに頭角を表し、今では彼女右に出る者はいない。
──なので、婚約者のアーサーが自分を裏切った時は、スカーレットは彼の正気を疑ったものだ。
「なにを考えているのかしら?」
おそらく、なにも考えていないんだろう。アーサーの頭は空っぽなのだ。
アーサーはロウズウェル伯爵家の長男である。
十六歳の時、スカーレットは彼と婚約することになったが、そのバカさ加減には辟易していた。
運動も勉強もてんでダメ。贔屓目に見ても、下の中……いや、下の下であろう。
そんなアーサーの唯一の取り柄は、それなりに顔がいいことだ。
無論、スカーレットは男を見た目だけで判断しない。
ゆえに、それだけで彼の見方を変えることはなかったが……見た目がいいことは美点だろう、と彼女なりに彼を認めていた。
それなのに、他の女によそ見をするような愚かな行為に、アーサーは出てしまった。
アーサーの浮気相手は、リナというカロリーヌ子爵家の末女だ。
このリナという人間、周囲の女性からすこぶる評判が悪い。
誰かれ構わず、色目を使う。露骨なボディータッチが多い。男と女で明らかに態度を変える。婚約者を彼女に奪われたなどなど。
例を挙げればキリがない。
スカーレットが、アーサーとリナの浮気現場を目撃したのは、ほんの偶然だった。
選ばれた貴族だけが通える学院。
スカーレットとアーサー……そして、リナの三人はそこに通っていたが、その放課後のことだ。
忘れ物を思い出し、スカーレットが教室に戻ると、アーサーがリナと逢瀬を楽しんでいた。
『ス、スカーレット!? これは違うんだ! 一時の気の迷い……っていうか、彼女とはなんでもないんだ!』
テンプレ浮気男のような台詞を吐くアーサーではあったが、ならば上半身裸の状態で、彼女の服に手をかけているこの状況は、どう説明してくれているというのか。
問い詰めるよりも早く、スカーレットは手が出そうになった瞬間──他の女生徒が教室に入り、悲鳴を上げてしまった。
以降、教室は阿鼻叫喚。
すぐに他の生徒や教師も駆けつけて騒ぎになってしまい、アーサーを殴る機会を逸したのはスカーレットの一生の悔いだ。
瞬く間に、アーサーとリナの噂は学院中に広がった。
スカーレットは『浮気された女』という烙印を押され、周囲は口には出さなかったものの、彼女を憐れむような目で見た。
スカーレット、人生で初めての屈辱であった。
ここまでコケにされて、アーサーを許せるはずがない。
だから手始めにアーサーと婚約破棄を、とスカーレットが考えるのは当然であった。
しかし。
「どうして、すぐに婚約破棄できないのよ!? 私はこれ以上、あいつの婚約者っていう立場は嫌なのに!」
婚約破棄は出来なかった。
いや……正しくは出来るが、時間がかかる。
スカーレットの『グランディール公爵家』と、アーサーの『ロウズウェル伯爵家』は政略的に結ばれた家である。
過去に領地争いや、貿易の利権トラブルによって、両家は冷め切った関係になってしまったらしい。
グランディール公爵家もロウズウェル伯爵家も、国に多大な影響を与える貴族だ。
なのに、この両家の仲が悪くなるのはまずい。
当時の王家は、そう危険視したのだろう。
王家直々に両家の関係に介入し、和平条約が結ばれることになった。
その際、お互いの息子と娘を政略結婚をすることによって、バランスが保たれることになった。
それは現在まで続き、両家はお互いに男女を差し出し、政略結婚させてきた。
とはいえ、両家の間で大きなトラブルが起こったのは百年前のこと。
今となっては形骸化した仕組みではあったが……一方で、両家の政略結婚という仕組み自体が残っているのも事実。
貴族や大臣の中には、スカーレットとアーサーの婚約は、国の未来を左右する──と考えている者も多い。
アーサーとすぐに婚約破棄が出来ないのは、そういう理由からだ。
「とはいえ、アーサーが婚約破棄の契約書に印を押せば、すぐにでも成立するらしいけど……あいつは頑んとして押さないみたいだし……どうすれば……」
スカーレットは考えた。
第三者の証人を揃えて、王家に申し立てる?
いや、証言を集めて文章にして、訴状を出して認可を待つ……どれだけの時間がかかるのか、考えるだけで億劫だ。
──他にも色々と策は思いついたが、やはり全てがまどろっこしい。
アーサーと婚約破棄するごときに、どうしてここまで時間と労力をかけなければならないのか。
ゆえに、スカーレットに残された方法は一つだった。
「そうだ。殴れば解決するんじゃない?」
──再度言おう。
公爵令嬢スカーレットは賢く美しい女性であるが、それ以上に脳筋であった。
思い立ったが吉日。
スカーレットは、ロウズウェル伯爵家の屋敷に乗り込むことにした。
右手には、婚約破棄の契約書が握られている。
脳筋のスカーレットは、婚約者であるアーサーに無理やり印を押させることに決めたのだ。
だが、ロウズウェル家の屋敷に辿り着いたものはいいものの、彼女はその前で思わぬ足止めをくらってしまう。
「スカーレット・グランディール令嬢ですね?」
「そうですが、なにか?」
立ち塞がってきた警備兵に、そう答える。
相手は服の上からでも分かる、筋肉隆々の男だ。
だが、スカーレットはそんな男たちを前にしても、一切怯まない。
「あなたは、この屋敷への立ち入りを禁止されております。今すぐにお帰りください」
「おかしなことを言いますわね」
スカーレットは自分の頬に手を当てて、首を傾げる。
そういう何気ない動作でも彼女がすれば、傾国を思う深窓の王女のようだ。
警備兵の顔が一瞬緩むが、すぐに引き締まる。
「私はアーサーの婚約者ですよ。どうして、婚約者に会いにきただけというのに、こんな仕打ちを受けなければならないのかしら」
「あなたの噂は聞き及んでいます。アーサー様はあなたに危害を加えられるのではないか、と酷く怯えているのですよ」
警備兵の言葉を、スカーレットは鼻で笑った。
アーサーの懸念は正解なのだが、だからといって、女の自分相手にどうしてそこまで怯えているのか。
男なら、せめて堂々とした態度を貫いてほしいものだ。
(相変わらず、ビビりね。どうしてこんなに臆病なのに、私を裏切るような真似をしたのかしら)
スカーレットは内心、彼の矛盾した行動にほとほと呆れ果てた。
「アーサーは誤解しているようですわ。私はただ、話し合いがしたかっただけなのに」
「お帰りください」
警備兵も一歩も退かない。
こうしている間に、物陰から他の警備兵もわらわらと集まり出した。たかが小娘一人に過剰戦力だ。
(アーサーは私を猛獣かなにかかと思っているのかしら?)
と、再びスカーレットは首をひねる。
だが、彼らだって仕事で嫌々しているだけだろう。命令である以上、彼らだって、ここをどくわけにはいかない。
(一度帰って、正式にロウズウェル家に抗議文を送って、態勢を整えるのもアリだけど……)
だが、スカーレットは脳筋である。
そんなまどろっこしいことはゴメンである。
「あなたたちがそう言うなら、私は普通に通らせていただくだけですわ。失礼しますね」
と、スカーレットは一歩を踏み出した。
その瞬間、警備兵たちが剣やら槍を取り出した。
そう、剣や槍なのである。
まるで猛獣を相手にするかのように、彼らは一切の躊躇いすらなく、スカーレットに襲いかかった。
だが、彼女は歩みを止めない。
あわや大怪我という状況を前にして、彼女がしたことは歩きながら、さっと軽く手を上げただけだった。
迫り来る武器を、彼女は時に手首のスナップだけで弾き、時に指先で逸らす。
華奢な指先が剣を掴み、力を抜いた瞬間に武器は無力と化した。
「くっ……! なんとしてでも止めてみせろ!」
「相手は小娘一人だけなんだ! どうして止まらない!?」
「こ、こいつ、なんで普通に歩けてるんだ!?」
警備兵たちが恐慌に陥る。
しかし、スカーレットは大それたことはしていない。
彼女はただ、歩いているだけなのだ。
その優雅な歩みは、まるで男性にエスコートされてパーティー会場に入場する令嬢そのもの。
違いはたかが小娘一人も止められない無能な警備兵を、歯牙にもかけないというだけで。
「みなさん、歓迎ありがとうございます。ですが、やはりたかが私のために、ここまで盛大な歓迎は必要ないですよ」
そう言うスカーレットは既に正門を潜り、既にロウズウェル家の屋敷の敷地内に侵入を果たしていた。
彼女を止めようとしてきた警備兵は全員、肩で息をして、地面に座り込んでしまっている。
「はあっ、はあっ……悪魔め」
とても失礼なことを言われた気がしたが、スカーレットは気にせず屋敷の中に足を踏み入れた。
今の自分はアーサーに首っ丈だ。警備兵の言葉にいちいち気にかけるほど狭量ではない。
「さて、アーサーの部屋は確か──」
『スカーレット・グランディールだな』
彼の部屋に直行しようとすると、屋敷に男性の声が響き渡った。
アーサーの声である。
おそらく、拡声魔法かなにかを使って、屋敷中に声を響かせているのだろう。
こうしている間にも、スカーレットの様子を、彼は別の場所で魔導スクリーンかなにかで見ているはずだ。
「あら、アーサーではないですか。先ほどの盛大なお出迎え、ありがとうございました」
『この悪魔め……っ! 警備兵を全員叩きのめしておいて、よくもそんな白々しいことが言えたな!』
叩きのめすとは人聞きが悪い。私はただ、歩いていただけだ。
スカーレットは内心そう思うが、アーサーが勘違いしやすい性格なのは重々承知している。
ゆえに彼女は寛大な心で、彼の暴言を聞き流してあげることにした。
「私はあなたに話があるんです。すぐに、私とお会いしてくれませんか?」
「お前と話すことなんてない! 帰れ!」
「帰りません。あなたが来ないというなら……私の方から、あなたの元へ行きますね」
『う、動くな!』
スカーレットが一歩を踏み出そうとした瞬間、アーサーの酷く焦った声。
『もし、この警告を無視して進めば、どんな不運が起こっても知らないぞ』
「不運……? アーサーは変なことを言いますこと。私、これでも『神に選ばれた子』と言われていまして。自分でも運がいい方だと思っているのですが……」
『神に? 悪魔に魅入られたの間違いじゃないか』
アーサーの言葉には、スカーレットをバカにするような空気が込められていた。
『とにかく! 僕は警告したからな。これ以上先に進めば、君には不運が降りかかるだろう!』
最後に預言者みたいなことを口にして、アーサーの言葉は途切れた。
「アーサーは照れ屋さんね。やはり、私から出向かないと」
とスカーレットがアーサーの部屋に向かって、再び歩き出した時──ここで彼女に不運が降りかかってしまう。
スカーレットの真上に吊るされていたシャンデリアが音を立てて、突如落下したのだ。
そう──これは不運なのである。
アーサーが事前にフックを緩め、合図ひとつで落ちるように細工していたのだが──これは、たまたま老朽化のせいでシャンデリアが勝手に外れ、運悪くその真下にスカーレットがいただけの不運な話なのだ。
この世界には、そんな信じがたい不運のせいで命を落とす者が多い。
そういう者は口を揃えて、「神に見放された」と口にする。
しかし、ここでスカーレットがそのような凡夫と違っていたのは、彼女が神に選ばれた子だということである。
シャンデリアがスカーレットに直撃する。
その様子を別の場所から眺めていたアーサーは、口元に笑みを浮かべた。
だが──。
「シャンデリアが落ちてくるなんて……やっぱり、アーサーはとことん私を盛大に歓迎したいようねえ」
──スカーレットは無傷で立っていた。
(結界魔法、使っちゃったじゃない)
スカーレットは服に付いたガラスの破片を、パンパンと払う。
彼女は体術や剣術だけではなく、魔法も一流だ。
その腕は十二歳の頃に、時の大賢者が裸足で逃げ出すほど。
ゆえにシャンデリアが落下するのを視認してから0・1秒で結界魔法を張るのなんて、彼女にとって朝飯前だった。
「だけど、助かりました。ちょうど、肩が凝っていましたから。盛大な出迎えではなく、こんなリラクゼーションも用意していたなんて。アーサーには、たーっぷりとお礼してあげなくては」
再びスカーレットは歩き出す。
最早、彼女の歩みを止められる者は誰一人いなかった。
◆ ◆
「まずいまずいまずいまずい!」
絶対絶命のピンチを前にして、僕ことアーサーは自室をぐるぐると歩き回っていた。
現在、屋敷内を記録する魔導スクリーンには、あの悪魔が映っている。
もちろん、彼女が来ると分かってから、屋敷内にはありったけの罠を仕込んだ。
だが、彼女には意味がなかった。
まるでスカーレットは罠なんてものが最初からなかったように、それを無効化しつつ優雅な足取りでこちらにゆっくり向かってきている。
「どうしよう。このままでは僕は、半殺しにされてしまう」
つーっと細い汗が、頬を伝って滴り落ちる。
自分や友人がコケにされた際、スカーレットが容赦をしない性格だということは十分理解している。
たとえば、学院で彼女の友人にイヴという人物がいる。
彼女が不良に傷つけられる事件が起こった。
貴族だけの学院とはいえ、不良はいるんだな。近付かないようにしよう。その話を聞いた時、僕はそういう感想を抱いた。
だが、翌朝。
その不良たちは半裸の状態で、正門前に吊るされていた。
その上半身には、『次やったら、ほんとに殺す』という赤い文字も。
すぐに調査が行われた結果、犯人はスカーレットだということが判明した。
もっとも、彼女は問い詰められても、「なんのこと?」と涼しい顔をして、しらばっくれていたが。
それだけではない。
同じようなことがあった時、必ずその人物にはスカーレットによる制裁が加えられた。
その燃えるような赤髪にちなんで、彼女は時に『紅の悪魔』『微笑みの処刑人』『制裁の赤薔薇』などと呼ばれた。
そんな性格を知っておきながら──彼女の婚約者である僕は、浮気をしてしまった。
「だって、仕方ないだろ!? スカーレットはろくに素肌に触らせてもくれないし! 僕だって男なんだ。この性欲をどうやって発散すればいい!」
机にドンッ! と拳を落とす。
完璧超人のスカーレットとは反対に、僕が浮気をしたリナは慎ましい女だった。
リナはカロリーヌ子爵家の令嬢。カロリーヌ家は決して裕福な家ではない。巨万の富を抱えるスカーレットのグランディール家とは正反対だ。
そういうところも、僕の優越感をくすぐるようで、一緒にいてとても心地よかった。
スカーレットは常に凛としていて隙を見せないが、リナはクリクリとした瞳が特徴的で、やけに保護欲をそそられる。
ちょっと宿題を見せてあげるだけで、瞳を輝かせて「ありがとうございます!」と彼女に言われれば、落ちない男はいない。
だから、僕は悪くないのだ。
放課後の教室。リナと二人きりになって、いつの間にか彼女の服を脱がそうとしていたことも。
「そもそも、スカーレットもリナを見習うべきなんだ! ヤツめ、僕がちょっと勉強をサボってきたら、『そういうのはいけないと思います』と言ってきやがって! 女が男に反抗するな! 女は常に男を立てるべきなんだよ!」
今まで溜まった鬱憤を叫ぶ。
だが、こんな悪態を吐いたところで事態は解決しない。
こうしている間にも、スカーレットはどんどん僕のいるところまで進軍している。
彼女がここに辿り着いた瞬間にジ・エンド。学院で彼女に逆らった者と同じ悲惨な末路を、僕は辿ることになるだろう。
それでも、僕がこの部屋を離れないのは……。
「……っ! 来た!」
ピロリンと魔導スクリーンから音が鳴った。
すぐに目を移すと、画面上部には『メッセージ一件受信:リナ』と表示されている。
リナ──。
もう僕には彼女しかいない──。
スカーレットに目を付けられた以上、この国に僕の居場所はないだろう。
だからいっそのことリナを連れて、国外に逃亡するつもりだったのだ。
この魔導スクリーンは、魔導ネットワーク? ってなんだか複雑な仕組みを使って、遠方にいる人ともメッセージのやり取りが出来る。
逃亡するための計画メッセージををリナに送っていたが、ようやく返信があった。
「リナ……! 僕と逃げよう! あんな悪魔と真正面から戦う必要はないんだ! そして……逃亡先で、僕たちは真実の愛を育むんだ!」
魔導スクリーンを操作し、メッセージを開くと──
『From:リナ
アーサー様〜、私は一足早く逃げま〜す。アーサー様はせいぜい、私が逃げるための時間を稼いでくださいね〜。さよなら〜』
僕を放って、彼女は一人で勝手に逃げていた。
「リ、リナアアアアアアアアア!」
真実の愛なんてなかった。
◆ ◆
アーサーが浮気相手のリナに捨てられたことも知らず、スカーレットは彼の元に向かっていた。
「アーサーも、なにを勘違いしているのかしら? 私はただ、あなたと話し合いがしたいだけなのに」
無論、話し合いだけで済ませるつもりは毛頭ないが、スカーレットは白々しいことを口にした。
途中、天井から槍が降ってきたり階段が急に崩れたり催涙ガスが噴出されるなどの不運が起きたが、スカーレットは全く気にしなかった。
そして彼女は、とうとうアーサーの私室の前に辿り着く。
「アーサー、いますか?」
そんなことを言いながらも、スカーレットはノックもせずに、アーサーの私室に突入した。
ただ婚約者に会いにきただけなのに、わざわざ他人行儀な振る舞いをする必要性を感じなかったからだ。
だが。
「あら、いないわね」
スカーレットは首を傾げる。
この中でアーサーが待っていると思っていたが──誰もいない。
しかし、部屋は散々に散らかっている。衣服や本が床に無造作に置かれ、証拠隠滅を図ったのか、破った紙の一部も目に入った。
「逃げた……のね」
スカーレットは即座に判断する。
あれほど偉そうなことを言っていたのに、たかが女一人に怖気付いて、会うことすら拒むのか。うちの婚約者はなんて愚かなのだ。
……と思うが、アーサーのこういうところは今更である。
既に評価は地に落ちているので、続けてノータイムで「でしょうね」という感想も浮かんだ。
「問題はどこに逃げたのか……ね」
スカーレットの脳内には、アーサーをこのまま逃がすという選択肢はない。
一度殴ると決めたら、どこまで逃げても必ず追い詰める。
たとえ、そこが地獄でも。
それが今まで、スカーレットが貫いてきた矜持だ。
当然だが、アーサーの逃亡先(おそらく国外だろうが)が明確に示されているものは、この部屋に残されていない。
だが、衣服の取り替えや書斎机に置かれている地図。僅かに付いた紙の皺、魔導スクリーンに表示されたままになっている浮気相手からのメッセージを読み取れば、なんとなく彼の行き先を推察することは出来る。
しかし、悲しいかな。
スカーレットは考えるより先に、手が出るタイプだった。
「面倒くさいわね。逃亡先を推察するくらいなら、ヤツの足を潰せばいいだけじゃないの」
パチンと指を鳴らす。
その災害は、スカーレットから離れた──とある厩舎で発生することになった。
◆ ◆
「おい、セバス! 早くしろ! じゃないと、あの悪魔が追ってくる!」
屋敷外の厩舎。
そこで僕は執事のセバスを急かし、馬車を動かそうとしていた。
「坊ちゃん、無茶を言わないでください! こちらにも準備があります! 動けと言ってすぐに動いてくれるほど、馬も聞き分けのいい生物ではありません!」
「えぇい! うるさいうるさい!」
セバスを罵倒する。
そろそろ、スカーレットが僕の私室に辿り着いている頃だろう。そうすれば、部屋に僕がいないことを見て、国外逃亡を図ったとすぐに気付かれる。
早くしなければ……!
あいつは僕がいないからといって、諦めてくれるほど聞き分けのいい人間じゃない。
そう考えたら、馬の方がよっぽど話が通じる。畜生以下の婚約者に、僕は恐怖を抱いた。
「だが、国外逃亡すればワンチャンある……! 婚約破棄の契約書に印を押さない限り、スカーレットとの婚約は維持されるのだから!」
一時は制裁が怖くて、婚約破棄をすることも考えた。
だが、それはダメだ。我がロウズウェル家とグランディール家の婚約契約には、政治的な理由が絡んでいる。
それに、王家との結びつきも強いグランディール家からの庇護がなくなれば、我がロウズウェル家はどうなる?
すぐに力が弱まり、虎視眈々と隙を窺っている他の貴族の食い物にされるだけだろう。
ゆえに、スカーレットとの婚約破棄は考えられなかった。
「さすがの彼女でも、国外に逃げれば簡単に追ってはこれないはずだ! だから……」
そう続けようとした時であった。
ドーーーーン────。
真っ白な閃光。爆発音と同時に、強い衝撃が体を襲った。
え……? なにが起こった?
一瞬、状況の理解が追いつかない。
視界を埋め尽くすのは、鮮烈な赤。厩舎が燃えている。セバスをすぐに探すが、その姿は見当たらなかった。
「まさか……っ!」
ぞっとし、すぐさま立ち上がろうとすると──
「あら、アーサー。こんなところにいましたか」
──悪魔がいた。
燃え盛る炎の中から、スカーレットが優雅に姿を現したのだ。
「あ、あ、あ……」
そんな悪魔を前に、僕は呆然とするしかない。
彼女はそのまま僕の前でしゃがんで、ニッコリと微笑みを浮かべた。
「火事だなんて、不運ですわね。あなたの予言通りになったみたいです」
嘘だ──。
この火事は、神任せの不運じゃない。
スカーレットが遠距離から、この厩舎に炎魔法を放ったのだろう。
彼女は体術もさることながら、魔法の腕も一級品である。
部屋の様子に気付き、すぐさま僕の逃亡手段を断つために、炎魔法を放ったのだ。
メチャクチャだが、スカーレットならやりかねない。
「安心してください。あなたの執事と馬は、爆発が起きる前に転移魔法で外に逃しましたので。彼らに罪はないですものね」
──何枚もスカーレットの方が上手だった。
彼女は僕の逃亡手段を潰すだけではなく、他のことにも目を向けられるほど余裕があった。
「……で、アーサー。こんな時になんですが、あなたに大事なことを告げなければならないのです」
「ぼ、僕は押さないぞ! 婚約破棄には断じて応じない!」
最後の抵抗と思い、スカーレットに言い放つ。
すると、彼女は少し困った表情で。
「困りましたわ。私、今日で絶対に婚約破棄をすると決めて、契約書まで持ってきましたのに」
だったら──とスカーレットは契約書を見せながら、こう言う。
「でしたら、無理やりにでも応じてもらうだけです。私、無駄足が嫌いですの。なんだか、時間を無駄にした気がして……」
「そ、そもそも印鑑も筆もここにはない! どうやって、契約書にサインをさせるつもりだ!」
「なにを言うんですか」
スカーレットは心底楽しそうに、
「印鑑ならあるじゃないですか。あなたの血に濡れた指で押す──血印が」
ああ──。
この時、僕は死を悟った。
最初から、逃げることなんて出来なかったのだ。
遠のく意識の中、最後にはっきりと見えたのは、拳を振り上げるスカーレットの姿だった。
◆ ◆
場所が変わって──。
「どうして、こんなことになったのよ!」
アーサーの浮気相手ことリナは馬車を走らせ、逃亡先である隣国に向かっていた。
現在、馬車の中にいる彼女は酷く焦った顔をしている。
当然だ。
あの『紅の悪魔』『微笑みの処刑人』『制裁の赤薔薇』などの異名を持つスカーレットを怒らせるというのはどういうことを意味するのか、彼女にだって分かる。
リナは爪を噛むという貴族にあるまじき行動をしながら、恐怖でブルブルと震えていた。
「遊びのつもりだったのに……アーサーのバカ! 本気にしやがって!」
リナは自他共に認める男好きである。
同性の女は自分を顰めっ面で見るのに、男どもは鼻を伸ばす。
彼らはリナがお願いをすれば、なんでも聞いてくれた。
(私は……男に囲まれている自分がなによりも好きだった!)
生涯唯一の男なんて決めたりしない。
ゆえにアーサーも、ほんの火遊びのつもりだったのだ。
しかし、放課後での情事を──正しくはまだ行為に至る前だったが──スカーレットに目撃されてしまった。
「あの悪魔はアーサーだけに制裁を加えただけで、満足するような女じゃない。きっと、私にも制裁を与える。紅の悪魔に目を付けられたら、逃れることは出来ない」
だが、唯一の手段がある。
それが国外逃亡。
国境を超えれば、スカーレットも簡単に追ってこられなくなる。
死にたくないリナには、最早それしか選択肢が残されていなかった。
「今頃、スカーレットがアーサーの屋敷に行ってるみたいだけど……彼はちゃんと足止めしてくれているかしら? わたしが国境を越えるまで、せいぜい時間を稼いでちょうだい!」
そうだ。自分はまだ大丈夫だ。国外に逃げられれば再起を図れる。
そもそも、私はあの学院に収まるほどの人物ではないのだ。私の長所はこの可愛さ。他国に行っても男の力を借りれば、すぐに元のような生活に戻れるだろう。
そう自分に言い聞かせていると、リナは幾分か冷静になってきた。
「アーサーはバカな男だったけど、やっと役に立ってくれたわね」
「ええ、私もそう思うわ」
「あなたもそう思う? アーサーの悪口ならいくらでも付き合──」
返事をするが、鳥肌が立つ。
おかしい。この馬車の中には、私一人だけ。御者にも声が届いていないはずだ、と。
恐る恐るリナが隣に視線を移すと──真っ赤な髪をした令嬢が、窓からこちらを覗き込んでいた。
「ごきげんよう、リナさん。スカーレットよ」
微笑む彼女。
「ス、スカーレット……!? なんで、あんたがここに? そもそも、どうして私に話しかけられるの……? 馬車は走っている……わよね?」
「単純な話よ。あんたの居場所なら、半殺しにしたアーサーに吐かせ……失礼。教えてもらったわ。それで走行中の馬車の中にいるあんたに、私がどうやって話しかけているかというと……」
スカーレットはまるで、のどかなティータイムでファッションについて語り合っているかのように軽い口調で、こう告げた。
「馬車と一緒に、私も走ってるだけだから」
そうなのだ──。
現在リナが乗っている馬車に、スカーレットは併走していた……っ!
強引に馬車を止めることも可能だが、こちらの方がリナに恐怖を与えることが出来ると彼女は考えたのだ。
時速五十キロを越えている馬車ではあるが、百メートル10秒台で走る彼女の脚力と強化魔法が合わされば、これくらいのことは容易い。
「よっと」
ゆえに、走行中の馬車の窓に手をかけ中に入り込むことも、スカーレットにとっては朝飯前だった。
「ひっ……! 近付かないで!」
「……? 不思議なことを言うわね。私はただ、あなたとアーサーの悪口で盛り上がろうとしただけだけど? ほら、ダメ男の悪口ほど盛り上がる話題はないというし」
白々しく首を傾げるスカーレット。
彼女の圧に負け、リナは座り込みながらじりじりと後退するが、狭い馬車の中だ。すぐに背中が壁に当たり、止まる。
「あっ、そうそう。私とアーサーの婚約破棄が成立したの。だから、これからは特に気にすることなく、彼といちゃいちゃしててくれて大丈夫だから」
「誰があんな男と……っ! わ、私を殺すつもり!? アーサーと同じように!」
「殺す? そんな物騒なことはしないわよ。まあ……男を取られた恨みはあるし、ビンタ一発で許してあげるわ」
スカーレットは、さらにリナに近付いていく。
なにが、ビンタだ……! だとするなら、どうして拳をポキポキと鳴らす必要がある……っ!
……とリナは思った。
「私を殴るつもり!? 私、女よ? 女を殴れるの!?」
「私もれっきとした女ってことを、あなたは忘れてるのかしら? でもね、性別を理由に見逃す方が、よっぽど不平等じゃない?」
スカーレットは右拳を強く握る。
「私、男女平等なの。せめて手加減はしてあげるから、歯を食いしばってね」
彼女の男女平等パンチが炸裂した──。
◆ ◆
「……ということで、アーサー君とリナご令嬢の二人を、君は殺したんだね」
後日。
スカーレットは父──グランディール家の当主でもある──彼に事の顛末を説明していた。
「お父様、聞き捨てが悪いわ。あんなゴキブリ二匹、殺す価値もない。半殺しにしただけよ」
父の小言を、スカーレットは紅茶を飲みつつ受け流した。
彼女の父は全く悪びれもしない娘の態度に、「はあ……」と溜め息を吐いた。
「まあ、僕も悪かったよ。婚約破棄はもっと強引に進めるべきだった。実家が絡んでいるからと、僕は甘く見ていたかもしれない」
スカーレットの父は元々、ロウズウェル家の人間である。
慣習に基づいて、グランディール家の令嬢──つまりスカーレットの母であるが、彼女と結婚した。
この国では基本的に、女が貴族家の当主を継ぐことは好ましくないと考えられている。
そうでなくても、スカーレットの母は自由奔放で、当主業などやりがたらないのだ。
数年前に『私より強いヤツに会いにいく』と家を出ていったきり、彼女が今どこにいるのか、スカーレットとその父も知らない。
ゆえに、現在はグランディール家の当主を彼が務めている。
「情けをかけたってわけ?」
「いや……実家に対しては、そういう人間らしい感情は捨てたよ。そもそも、君のことだ。情けなんてかけていたら、君はもちろん、妻からもお叱りを受けるからね」
そう言って、父はぶるぶると震える。
グランディール家の令嬢は代々、男より強い。
スカーレットの母も、彼女と同じく、賢く美しく強い女性であった。
父も、そんな母の恐ろしさを身に染みて分かっている一人だった。
(ほんと、昔になにがあったのかしら……まあそれでも、今でもお互いラブラブというのは、見習うべきところだけどね)
皮肉でもなんでもなく、スカーレットは素直にそう思った。
「だけど、いくらなんでもやりすぎだよ。暴力はいけなかった。相手が悪かったとはいえ、一方的に半殺しにしたら、さすがに君にも捜査の手が伸びる」
スカーレットの父が今、頭を抱えている理由。
それは、スカーレットがロウズウェル家を半壊させ、リナをビンタした後始末に追われる未来を想像しているからだろう。
いくら公爵家が伯爵家にやったこととはいえ、暴力は罪だ。
神に選ばれた子であるスカーレットだって、その普遍的な理からは逃れられない。
だが。
「あら、お父様。私がなんの考えもなしに、今回の事件を起こしたとでも?」
「というと?」
父の目が見開く。
スカーレットは賢く美しい女性だ。
暴力を振るえば、その後になにが起こるのかくらいはちゃんと理解している。
ゆえに、今回の事件を起こした後、彼女は自分……そして、グランディール家が罪に問われないように立ち回った。
「お父様は知ってると思うけど、私は王家の大臣や調停人、裁判官や賢者様とも仲がいいの。だから、今回のことを穏便に済ませてもらうため、懇切丁寧に説得した上で納得してもらえたから」
婚約破棄の契約書には、アーサーが自分の非を全面的に認め、彼女にどのような罪も問わないことも明記されている。
リナについても似たようなものだ。
それを片手に国のお偉いさんたちのところに乗り込んだら、皆は彼女の言い分を認めざるを得なかった。
戦う鳥、後を濁さず。
それがスカーレットの信条だ。
好き放題に暴れ回って、後始末を他者に押し付けるようでは三流である。
「そうだったのか」
父は感心したように頷き。
「だけど……説得って、本当に説得しただけだろうね? 手荒な真似はしてないよね?」
「お父様は私を、ゴリラかオークだとお思いに? 大丈夫よ。まあ……彼らが賄賂を受け取っていた記録や、愛人を部屋に連れ込んだ証拠を散らつかせたら、不思議と説得がスムーズに進んだけどね」
「一体、どこでそんなものを見つけてきたのか……というか最初から、そうすればよかったんじゃないかな?」
「お父様、私の性格を知ってるでしょ? 私は考えるよりも先に、手が出るタイプなのよ」
「そういえば、そうだった」
それにアーサーの指印を押した婚約破棄の契約書がなければ、今回の説得だってさすがに上手くいかなかっただろう。
そう考えれば、アーサーをボコボコにした甲斐があったというものだ。
「スカーレット。今回の一件ではっきりしたよ。やっぱり君は、あの人の娘だ」
呆れているのか感心しているのか、よく分からないが、スカーレットの父は再び深い溜め息を吐く。
「まあ、もうこんな裏で手を回すような真似はしたくないけどね。殴った方が早いから」
──今日も今日とて、スカーレットはやっぱり脳筋であった。
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