第8話:殿の苦悩
第8話:殿の苦悩
疫病が収束し、妻鹿の街に活気が戻り始めた頃、結城莉央の立場は変化していた。領民たちは彼女を「薬師様」あるいは「知恵者の莉央様」と呼び、感謝の言葉と共に頭を下げるのが常となった。城内の侍女や下級武士たちも、以前のような警戒心を見せることはなくなり、むしろその知識と献身ぶりに敬意を抱いているようだった。
しかし、一部の古参の武士や神官たちからは、依然として冷ややかな視線を向けられることも少なくなかった。彼らにとって、莉央の存在は伝統や秩序を乱しかねない異物でしかなかったのだろう。「あの女の知恵は、まこと人の役に立つのか、それとも妖術の類か…」そんな声も、風の噂で莉央の耳に入ることがあった。
(多くの命を救えたことは嬉しい。でも、私はここでどう受け入れられていくのだろう…帰るための手がかりはまだ何も見つからない…私の記憶の空白は、いつ埋まるのだろうか…そして、この金属片の反応は、一体何を示しているのだろう…)莉央は、達成感と、消えることのない不安を感じていた。胸の金属片は、疫病が収束に向かうにつれて、その不穏な振動を鎮め、今はただ静かに温もりを保っている。
官兵衛は、莉央を「異邦の工師殿」と、以前よりも丁重な言葉遣いで呼ぶようになった。彼女に与えられる食事の質は上がり、粗末だった着物も、清潔な木綿のものに変わった。部屋の窓の格子も外され、侍女の付き添いがあれば、書庫や中庭への立ち入りも許されるようになった。しかし、城外への自由な外出は依然として禁じられており、官兵衛が彼女の知識を今後どう活用すべきか、そして彼女の素性の謎について深く思案している様子が伝わってきた。
その頃、官兵衛の執務室には、播磨国内の諸勢力や、京の織田信長、西の毛利輝元からの書状が山と積まれていた。部屋の隅には、莉央が「地図は正確なほど、多くの情報が書き込めるほど役に立ちます。地形の起伏や水源、街道の状況などを詳細に記せば、軍事だけでなく、治水や商業にも活かせましょう。私の故郷では、三角測量という方法で、より正確な地図を作っていた記憶がございます」と助言し、井上九郎右衛門らが中心となって作成を進めている、従来の物より詳細な播磨国の地図が広げられ、そこには様々な書き込みがなされている。官兵衛は、連日、井上九郎右衛門ら腹心の家臣たちと夜遅くまで軍議を開いているが、議論は紛糾するばかりで、その表情は日に日に険しさを増していた。
(このままでは、播磨は東西の巨鯨に飲み込まれる…!殿は、一体いつまでこのような危うい綱渡りを…この状況で、私が何かできることは…私の断片的な知識でも、何かヒントになるかもしれない…)官兵衛の主君である小寺政職は、織田と毛利の間で日和見的な態度をとり続けていた。このままでは、播磨が戦場と化すのは明らかだ。官兵衛は、小寺家の行く末、播磨の民の安寧、そして自らの志をいかにして実現すべきか、深い苦悩の淵に沈んでいた。
莉央は、官兵衛の苦悩を、光や侍女たちとの会話、あるいは書状の整理を手伝う中で察していた。彼女は、官兵衛に直接的な戦略を進言することは立場上できなかったが、ある秋晴れの午後、光と共に庭の紅葉を眺めている際に、それとなく口を開いた。
「光様、私の故郷の古い物語に、二つの強大な龍に挟まれた、小さな鯉の国の話がございます。鯉の国の若き王は悩みましたが、やがて、どちらの龍がより天高く昇り、民に豊穣をもたらすかを見極め、その龍と同盟を結び、自らもまた龍となりて国を栄えさせたと…そのようなお話がおぼろげながら記憶にございます。どちらの龍が真に民を思うか、それを見極めるのが肝要だったとか…」光は、莉央の言葉の奥にある想いを悟り、静かに頷いた。その夜、光は官兵衛に、莉央の語った「鯉の国の物語」を伝えたという。官兵衛はその寓話に、自らの置かれた状況と、織田・毛利という二大勢力に対する戦略のヒントを見出し、莉央の持つ「異質な知恵」への関心をさらに深めた。莉央の言葉が、まるで霧の中に射す一筋の光のように感じられたのだ。
その数日後、官兵衛は再び莉央を執務室に呼び出した。その眼差しは、以前にも増して真剣みを帯びていた。「莉央殿、お主の言う『工学』とやらについて、今日はもう少し詳しく聞かせてもらえぬか。先の疫病の一件で、お主の知識が並々ぬものであることは理解した。その力を、この黒田家の、いや播磨の国のために役立てる術はないものか。例えば、この妻鹿城の守りを、より強固にするための知恵は…あるいは、兵糧の生産を増やすための工夫は…お主の記憶の断片に、何かヒントはないものか。先の『鯉の国の物語』も、示唆に富むものであった」
官兵衛の口調は、穏やかでありながら、有無を言わせぬ響きを持っていた。彼は、妻鹿城の防御力向上や、兵糧生産の効率化について、莉央の専門的な知識を求めた。
(試されている…でも、これはチャンスかもしれない…!ここで私の知識の有用性を示せれば、殿の信頼をさらに得て、行動の自由も広がるかもしれない。そうすれば、帰還の手がかりを探すことも…私の専門は防災科学。城の防御や農業は専門外だけれど、基礎的な原理は応用できるはず…特に、地盤や水利に関しては、私の知識が活かせるかもしれない。)莉央は、臆することなく、自身の持つ知識の扉を、官兵衛に向かって開いた。
彼女は、現代の土木工学の基礎概念(地形の利用、横矢掛かり、水源確保の重要性、地盤調査の概念など)、農業技術の効率化のヒント(連作障害を避けるための輪作の概念、堆肥の重要性、水利の改善と排水の重要性など)を、自身の専門である地盤工学や水理学の知識を応用し、戦国時代の技術レベルでも実現可能な形に翻訳し、時には地面に木の枝で図を描きながら、官兵衛に説明した。官兵衛は、莉央の口から次々と飛び出す斬新な発想と、それを裏付ける論理的な思考に、驚嘆の念を禁じ得なかった。
その数日後、官兵衛は莉央の提案を具体的に検証するため、妻鹿城内の一角に使われていなかった鍛冶場と大工小屋、そして数名の腕の良い職人を与え、彼女の考案する道具の試作を許可した。それは、莉央の能力を試す意味合いも込めた、実験的な工房の提供であり、もし成果が出れば本格的に支援するという、官兵衛なりの判断だった。「莉央殿、この工房で、お主の知恵を形にしてみよ。必要なものは可能な限り用意させよう」と、官兵衛は言った。
莉央の小さな工房では、それから連日、職人たちと共に試行錯誤が繰り返された。鍛冶場の炉の火は燃え盛り、槌音が響き渡った。そして数ヶ月後、いくつかの試作品――雨天でも比較的火がつきやすい松明(松脂の配合を工夫し、防水処理を施したもの)、負傷兵をより安定して運ぶための改良型担架(担ぎ棒の形状を人間工学的に工夫し、布の張り方を変えて体圧を分散させたもの)――が完成した。それらは、従来の物よりも明らかに性能が向上しており、実用性が高いものばかりだった。
(私の知識が、この時代でも形になる…!人々の暮らしを、そして兵士たちの命を、少しでも良くすることができるかもしれない…!)試作品の完成に、莉央は大きな達成感と、この時代で生きていくことへの希望を感じていた。
その成果を、官兵衛は冷静に、しかし瞳の奥に確かな評価の色を浮かべて見届けた。そして彼は、ついに、主君である小寺政職に対し、織田信長への完全な臣従を進言することを決意したのだ。
その決意を固めた夜、官兵衛は、珍しく莉央を城内の月見櫓に呼び出した。眼下に広がる妻鹿の城下町の灯りを見下ろしながら、彼は静かに語りかけた。「莉央殿、お主の知恵は、我が黒田家にとって、なくてはならぬものだ。これより先、私が進む道は、茨の道となるやもしれぬ。それでも、お主は、この私に、これからもその力を貸してくれるか?お主の記憶が戻り、帰るべき場所を思い出す日が来るまで…いや、それ以上にか…お主と共に、新しい世を見たいと思うておる」それは、一人の人間としての、莉央という存在への、打算を超えた信頼と期待を込めた問いかけだった。
莉央は、官兵衛の言葉に、彼の揺るぎない覚悟と、自分への信頼を感じ取った。「殿の進まれる道が、いかなる困難に満ちていようとも、この結城莉央、微力ではございますが、力の限りお供させていただきます。殿の目指す新しい世を、この目で見届けるその日まで。そして、その先に、私の帰るべき道が開けることを信じております。私の記憶が戻った時、殿のお力になれるかもしれません。それまでは、この時代で私にできることを、精一杯させていただきます」その瞳には、官兵衛と共に歴史の奔流に身を投じるという、強く清々しい意志の光が宿っていた。




