第7話:小さな光明
第7話:小さな光明
官兵衛が莉央の部屋を訪れたのは、対策を施した地区からの報告を受けてから数刻後のことだった。部屋には、莉央が試しに煎じていた薬草の、独特の清涼感のある匂いが微かに漂っていた。
(ついに来た…私の策が、正しかったのか、それとも…私の知識は、本当にこの時代で通用するのか…この結果が、今後の私の立場を大きく左右する…)官兵衛の表情からは、依然として何の感情も読み取れない。ただ、その黒曜石のような瞳が、静かに莉央を見据えている。
「…お主の策、見事であった」ややあって、官兵衛は淡々とした口調で切り出した。しかし、その声には、隠しきれない僅かな驚嘆の色が滲んでいる。「病の勢いは、確かにお主の言う通り、指定した地区では明らかに衰えを見せ始めておる。医師の報告によれば、新たな患者の数は激減し、既に病に伏せっていた者たちの回復も早まっているとのことじゃ。お主の言う『毒虫』とやらが、本当に悪さをしていたのかもしれぬな」その言葉に、莉央の全身から力が抜けていくのを感じた。安堵から、膝が震えそうになるのを必死にこらえる。
「此度の働きについては、いずれ恩賞を与えよう。そして…お主の持つ『知恵』について、改めて聞かせてもらいたいこともある。お主の記憶の断片が、他にも何か、我が黒田家の役に立つことがあるやもしれぬ」そう言って、彼は部屋を去っていった。その背中には、莉央という存在への評価が、確実に変わったことを示す何かが感じられた。
官兵衛の号令一下、莉央の提言した衛生対策は、城下全域へと拡大されることとなった。古参の家臣たちの中には、依然として眉をひそめる者もいたが、官兵衛の厳命と、目に見える成果を前に、表立って反対する者はいなかった。井上九郎右衛門は、積極的にこの衛生対策の実施を指揮し、莉央の知識の確かさと、その実行力に改めて感嘆した。彼の目には、莉央が単なる異人ではなく、黒田家にとって極めて有用な存在かもしれないという認識が芽生え始めていた。
そして、莉央は、官兵衛から正式に、奥方である光の「相談役」として、城内の衛生管理や、病人への対応について助言する役目を与えられた。それは、莉央の能力を認めつつも、まだその素性に疑念を抱く官兵衛が、光を通じて彼女を管理し、その知識を安全に活用しようとする意図も含まれていた。 彼女は、疲れをものともせず、各地区を精力的に回り、具体的な手洗いの方法や、病人食の調理法、そして何よりも、目に見えない「毒虫」の恐ろしさと、それを防ぐための知恵を、領民たちに根気強く説いて回った。
当初は莉央の策に懐疑的だった古参の家臣たちも、日を追うごとに目に見えて病の勢いが衰えていく様を目の当たりにし、そして官兵衛が莉央に一定の信頼を寄せていることを知り、徐々にその態度を軟化させていった。
莉央は、自らも感染の危険を顧みず、侍女たちと共に隔離施設で病人の看病に当たった。その献身的な姿は、絶望の淵にいた領民たちの心を打った。当初、莉央を「得体の知れない異人」と恐れていた領民たちも、徐々にその警戒を解き、感謝と尊敬の念を抱き始める。「あのお方は、まるで病を鎮めるために天から遣わされた観音様じゃ…」そんな声が、城下のあちこちから聞こえるようになっていた。
官兵衛の妻・光もまた、全面的に支援した。彼女は城内の女性たちをまとめ上げ、薬草の採集、清潔な布の準備、病人食の調理などを効率的に分担して行う体制を築き上げた。莉央の知識と光の献身が、多くの命を救ったのだ。
やがて、城下を覆っていた病の暗雲は完全に消え去り、安堵の空気が戻ってきた。官兵衛は、執務室に莉央を呼び出した。
「莉央殿」官兵衛は、初めて莉央の名を「殿」という敬称をつけて呼んだ。「お主の知恵と働き、実に見事であった。黒田家、いや、この播磨の民を救ったと言っても過言ではあるまい。…改めて問う。お主は、一体何者なのだ? その類稀なる知識は、どこで得たものなのだ? そして、その記憶は、どの程度まで戻っておるのだ? お主の故郷は、いかなる場所なのだ?」官兵衛の瞳は、以前にも増して鋭く、そして底知れぬ深い興味をたたえて莉央を見据えている。
莉央は、官兵衛の言葉と、その眼差しに、ようやく彼からの信頼を得られたのだという確かな手応えを感じた。しかし同時に、自身の素性を明かすことへの躊躇いを覚える。(未来から来たなどと、果たしてこの怜悧な男が信じてくれるだろうか。記憶もまだ完全ではない。下手に話せば、混乱を招くだけかもしれない…このLEDライトのように、私の記憶も、少しずつ明らかになっていくのかもしれないけれど…)
莉央はしばし逡巡した後、意を決してサバイバルキットの中から、一つの道具を取り出した。それは、手のひらサイズの、黒い樹脂で覆われた小型のLEDライトだった。官兵衛の目の前で、莉央がスイッチを入れると、小さなライトの先端から、まるで真昼の太陽光を凝縮したかのような、強烈で真っ直ぐな白い光が放たれた。行灯の頼りない炎しか知らないこの時代の人間にとって、それはまさに魔法のように見えただろう。官兵衛も、思わず息を呑み、その小さな光源から目が離せないでいる。
「私の故郷には、このような道具がございました。ですが、その詳しい成り立ちや、私がなぜ、この地にいるのかは…申し訳ございませぬが、まだ、殿にお話しできるほど、私の記憶は戻っておりません。私自身も、まだ多くのことを思い出せずにいるのです。ただ、時折、このような知識や道具の記憶が蘇るのです。そして、その度に、故郷へ帰りたいという思いも強くなります」莉央は、静かにそう告げた。謎は残しつつも、官兵衛の更なる興味と、ある種の期待を引きつけるための、彼女なりの精一杯の誠意の示し方だった。そして、帰還への願いを口にすることで、自分の立場を曖昧にしないという意志も込めた。
官兵衛は、莉央の言葉と、目の前にある未知の道具を前に、深く思案していた。彼女の存在は、黒田家にとって、そして彼自身の未来にとって、計り知れない価値を持つのかもしれない。しかし、それは同時に、予測不可能な危険を孕んでいる可能性も否定できない。彼は、莉央の言葉を鵜呑みにするほど単純ではなかったが、彼女の瞳の奥にある真摯さと、これまでの実績を鑑み、今は静観することを選んだ。「そうか…ならば、その記憶が戻る日を待とう。それまで、お主の知恵を、この黒田家のために役立ててほしい」と、彼は静かに告げた。