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第6話:城下の異変

第6話:城下の異変

翌朝、莉央が侍女に面会を申し入れると、意外にも早く許可が下りた。案内されたのは、陽光が差し込む、やや広い執務室だった。文机の上には整然と書状が積まれ、壁には簡素な槍と弓が掛けられている。黒田官兵衛は、その文机に向かい、何事か書状に筆を走らせていた。

(ここで臆していては何も始まらない。私にできることを、具体的に示さなければ…この男に、私の価値を認めさせなければ…そして、それが私の自由と、帰還への道に繋がるかもしれない。)緊張で掌に汗が滲むのを感じながらも、莉央は背筋を伸ばし、強い決意を瞳に宿していた。

官兵衛は、筆を置くと、ゆっくりと顔を上げた。その怜悧な瞳が、試すように莉央を見据える。「して、異邦の君が、この黒田官兵衛に何用なのかな?」その声には、昨日までの警戒心に加え、僅かながら好奇の色が混じっているように感じられた。

莉央は、「記憶の多くは未だ霧の中ではございますが、時折、故郷で学んだと思われる『暮らしを良くするための知恵』の断片が、夢の中や、ふとした瞬間に蘇ることがございます。それが、あるいはこの地の民の役に立つやもしれぬと、そう思いまして…」と慎重に言葉を選びながら説明した。具体的な記憶の回復については明言を避け、あくまで「役立つ可能性のある知識の断片」という形で提示することで、これまでの態度との整合性を保とうと試みた。例えば、「私の故郷では、病を防ぐために、水を一度沸かしてから飲んでいたような気がいたします。また、汚れた水と綺麗な水を分けて使うことが大切だと、教わった記憶がおぼろげながら…ございます。井戸の周りを清潔に保つことも重要だったかと…」といった、当時の人々にも比較的理解しやすい衛生観念の基礎を語った。 官兵衛は、その説明の端々に見える異質な知性の片鱗に、最後まで瞳に深い興味の光を湛えていた。彼は、莉央の言葉を遮ることなく聞き、時折鋭い質問を挟みながらも、彼女の持つ知識の可能性を探っているようだった。

それから数日後、城下に不穏な影が差し始めた。最初は些細な体調不良として片付けられていたものが、日を追うごとに深刻さを増し、下痢や嘔吐を繰り返して衰弱する者が続出したのだ。特に抵抗力の弱い子供や老人が次々と高熱に倒れ、人々の顔からは笑顔が消え、不安と恐怖が城下に漂い始めていた。

(この症状は…間違いない、水質汚染による集団感染症…!現代なら、抗生物質と適切な水分補給で…でも、ここでは…!私の知識が、何とか役に立たないか…防災研究所での環境衛生の基礎知識なら…)侍女たちの間のひそひそ話や、時折聞こえてくる役人たちの緊迫した会話から、莉央は病の状況を断片的に把握していた。彼女は、世話をしてくれるてる――官兵衛の妻であり、莉央の境遇に同情し、時折気遣ってくれるようになっていた――や、口数の少ない侍女たちとの日常会話の中で、それとなく病の発生状況や、城下の井戸水の管理体制、生活排水の処理方法などを、細心の注意を払いながら聞き出した。驚くべきことに、生活用水の井戸と、汚水を流す溝が近接している場所もあり、雨が降れば容易に汚染が広がる可能性があった。

集めた情報と自身の知識(防災研究所での環境衛生に関する基礎知識)を照らし合わせ、莉央は病の原因が特定の井戸水の汚染、あるいは全般的な不衛生な環境によるものであるとほぼ確信した。このままでは、被害は城下全体に、そして城内にまで及ぶだろう。強い危機感が、彼女の背中を押した。その時、莉央は懐に忍ばせていた金属片が、微かに熱を帯び、不穏な振動を発しているのを感じた。「これは…城下の不穏な気に反応しているのだろうか…?まるで、多くの人々の苦しみや不安に共鳴しているみたいだ…この金属片は、私に何かを伝えようとしているのかもしれない…」と、漠然とした不安と、何かをしなければという焦燥感を覚えた。

再び官兵衛に面会を求めた莉央の顔には、鬼気迫るものがあった。「殿、城下の病は、神仏の祟りなどではございませぬ!おそらくは、水によるものか、あるいは目に見えぬほど小さな『毒虫』の仕業かと…!私の記憶によれば、このような病は、水を煮沸し、手洗いを励行し、病人を隔離することで、その広がりを抑えることができるはずです!どうか、お命じください!」莉央は、息もつかずに訴えかけた。具体的な対策と、それを怠った場合に起こりうる被害の拡大予測を、論理的に、しかし抑えきれない熱意を込めて官兵衛に訴える。

同席していた古参の家臣たちは、「馬鹿なことを!素性の知れぬ女の戯言に惑わされるとは!病は神仏の怒りによるものじゃ!」と色めき立った。井上九郎右衛門は、莉央の言葉の論理性と、その瞳に宿る切実さに、何かを感じ取っていたが、古参の家臣たちの強い反発を前に、今は静観するしかなかった。

しかし、官兵衛は家臣たちの騒ぎを手で制し、静かに莉央を見つめていた。彼の怜悧な瞳は、莉央の言葉の真偽を慎重に見極めようとしている。官兵衛自身も、幼少の頃、城下で流行った原因不明の疫病で、親しい者を亡くした苦い記憶があった。そして、この数日の莉央の観察眼と、彼女が語る知識の断片の確かさに、何かを感じ始めていた。

しばしの沈黙の後、官兵衛は重々しく口を開いた。「…分かった。お主の言葉、突飛ではあるが、試してみる価値はあるやもしれぬ。民の命がかかっておる。ただし、成果が見えねば、お主にも相応の覚悟をしてもらうことになるぞ。この官兵衛、結果を重視する。」その言葉と共に、官兵衛は一部の信頼できる家臣に、莉央の策を特定の地区で実施するよう密かに命じた。その瞳の奥には、莉央の未知の知識への僅かな期待と、もしそれが失敗に終わった場合の、冷徹な判断が同居しているのを、莉央は確かに感じ取った。

官兵衛の命を受け、数名の若い足軽や、莉央の知識に比較的理解を示した下級武士たちが、戸惑いながらも莉央の指示に従い始めた。井戸の周囲に縄を張り、使用を制限する。薪を集め、大きな釜で水を煮沸し、冷ましてから領民に配る。手洗いの重要性を説き、簡易的な灰汁あくを使った手洗い場を設ける。そして、症状の重い病人を隔離するための小屋の準備。

当初は領民たちの抵抗も大きかった。「神仏の祟りを恐れぬのか」「異人の妖術だ」と罵声を浴びせられることもあった。しかし、莉央は決して声を荒らげることなく、粘り強く、そして丁寧に、なぜこれが必要なのかを説いて回った。時には、泥水を目の前で煮沸し、それが透明な水に変わる様を見せたり、「目に見えぬほど小さな毒の虫が、この水の中には潜んでおるのです。火で熱することで、その虫を殺すことができます。これは、私の故郷の古い知恵なのです」と、当時の人々にも理解しやすい比喩を用いて説明した。

その莉央の真摯な姿と、夫である官兵衛の決断を信じた光が、城内の女性たちに協力を呼びかけ、莉央の活動を陰ながら力強く支えた。当初は莉央の異様な風体や知識に戸惑いを見せていた女性たちも、光の真摯な説得と、莉央自身の献身的な姿を見て、徐々に協力的になっていった。 薬草を煎じて病人に配り、病人食を準備し、そして何よりも、莉央の進める衛生対策への理解と支持を、女性たちの間で広めていった。

数日後、莉央の対策が徹底された地区では、明らかに新たな病人の発生が減少し始めていた。その効果は、誰の目にも明らかだった。

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