表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/30

第5話:妻鹿城の異邦人

第5話:妻鹿城の異邦人

夕闇が播磨平野を急速に覆い尽くしていく。莉央を乗せた馬は、重々しい軋みを上げて開かれた妻鹿城の城門をくぐった。月明かりにぼんやりと照らし出された土塁と石垣、闇に黒々とシルエットを浮かべる櫓。城内を行き交う鎧兜の武士たち。城内は、戦を間近に控えているかのような、張り詰めた緊張感が支配していた。

(これが…戦国時代の城…本当に、私はこんな時代に来てしまったんだ…帰れるんだろうか…私の記憶は、いつになったら戻るんだろう…この時代の常識も分からないのに、どうやって生きていけば…)左肩の焼けるような痛みと、極度の疲労で意識は朦朧とし始めているが、恐怖と緊張が、逆に彼女の五感を鋭敏にさせていた。

男は莉央を馬上から降ろさせると、供の武士に短く命じた。

「この者を奥の一室へ。手当てと食事を与えよ。ただし、勝手な行動は一切許すな。見張りを怠るでないぞ。その者の持つ道具も、一時預かる」その声には、莉央という未知の存在に対する僅かな興味と、それ以上の深い警戒心が滲んでいた。

莉央が通されたのは、城壁に近い奥まった場所にある、質素だが清潔に掃き清められた一室だった。窓には頑丈そうな木の格子がはめられ、容易には出られないことが明らかだった。部屋の中には、簡素な寝具と小さな文机、そして頼りない炎が揺れる行灯が一つ置かれているだけ。サバイバルキットは、言われるがままに差し出した。

(保護…というよりは、軟禁ね…このままでは、帰るための情報も何も手に入らない。何とかして、この状況を変えないと…私の知識や技術が、何か役に立つことを示さなければ…でも、記憶が曖昧な中で、何ができるだろう…)改めて自分の置かれた立場の危うさを認識し、莉央は乾いた唇を噛んだ。胸ポケットの金属片が、微かに温かいような気がした。それは気のせいかもしれないが、この孤独な状況で、ほんの少しだけ心の支えになるような不思議な感覚だった。この金属片だけは、なぜか手放したくなかった。

やがて、年配の侍女が、ほとんど無言のまま莉央の部屋に入ってきた。彼女は手際よく、しかし事務的に莉央の左肩の傷の手当てをすると、粟の混じる雑炊と、僅かばかりの塩辛い焼き魚が乗った膳を差し出した。莉央は掠れた声で感謝の言葉を述べたが、侍女は会釈を返すだけで、すぐに部屋を出て行ってしまった。

その夜、莉央はほとんど眠ることができなかった。慣れない硬い寝具と、絶え間なく城内のどこかから聞こえてくる物音。その全てが、彼女の張り詰めた神経を逆撫でし続けた。

それから数日が経過した。侍女が毎日運んでくる食事と、薬草を煎じたらしい苦い飲み薬、そして肩の手当てのおかげで、莉央の体力は少しずつ回復していった。しかし、心の緊張は解けることはなかった。彼女を助けた男――黒田官兵衛と名乗った――は、数日に一度、あるいは家臣を遣わして、莉央の様子を窺わせ、時折自らも部屋を訪れた。 そして、穏やかな、しかし全てを見透かすような鋭い瞳で莉央を見つめながら、彼女の素性や、持っている知識、そしてあの森で見せた応急処置について、様々な角度から尋問に近い質問を投げかけてくる。

(この男は、私を利用しようとしている…今はそれに従うしかない…下手に逆らえば、どうなるか分からない…生き延びて、信頼を得て、そして必ず帰る。そのために、今は耐える時だ。)彼の怜悧な知性と計略に畏怖を感じつつも、莉央は彼の言葉の端々から、家臣への指示の的確さや、領内の問題に真摯に向き合おうとする姿勢に、 時折垣間見える、民を思う為政者としての片鱗を感じ取ろうと努めた。

莉央は、記憶の混乱を訴え続け、当たり障りのない、曖昧な返答に終始した。「故郷のことや、ここに来るまでのことは、まだ霞がかかったように思い出せませぬ…ただ、時折、何か役立つかもしれない知識の断片が、頭に浮かぶことがございます」などと。しかし、官兵衛の質問が、領内の治水や食料備蓄といった、防災や危機管理に関わる具体的な内容に及ぶと、思わず現代の知識に基づいた意見(例えば「水の流れをコントロールするには、堤防だけでなく遊水地のようなものも有効かもしれません。私の朧げな記憶では、水害を防ぐには複数の対策を組み合わせることが肝要かと…」「食料は乾燥させ、風通しの良い涼しい場所に保管するのが長持ちするようです。虫やカビの害を防ぐ工夫も必要でしょう」など、自身の専門分野に近い知識の断片)を口にしてしまいそうになり、慌てて言葉を濁すことが何度かあった。その度に、官兵衛の目が微かに細められるのを感じ、背筋に冷たいものが走った。

許された行動範囲は、自室と、侍女の厳しい監視の下での、陽当たりの悪い中庭の僅かな散策だけだった。それでも莉央は、その限られた機会を活かし、城の構造的な問題点(例えば、井戸の位置と数、城壁の防御の甘さ)や、兵糧管理の非効率さなどを、防災科学の視点から静かに観察し、頭の中で「もし自分がこの時代の技術で改善するならどうするか」と、ぼんやりと考える程度だった。

狭い部屋の中でも、莉央は現代の知識でできる限りの体力維持を密かに続けていた。音を立てないストレッチや、精神集中のための瞑想。それは、いつ訪れるかわからない危機への、そしていつかこの状況を打開するための、彼女なりの準備だった。

夜、一人部屋の行灯の頼りない灯りを見つめていると、窓の格子が檻のように見え、息が詰まりそうになる。現代へ帰る方法は全く見当たらず、先の見えない状況に、深い不安と孤独を感じずにはいられない。懐の金属片を握りしめると、時折、微かな温もりを感じるような気がしたが、それが何を意味するのかは分からなかった。(この温もりは、何なのだろう…私を励ましてくれているのだろうか…それとも、何か別の意味が…)

(私は…このままここで、忘れられていくのだろうか…? 父さん、母さん…研究所のみんなは…私の記憶は、本当に戻るのだろうか…)しかし、莉央の心の中には、現代で培ってきた知識と経験、そして「決して諦めない」という強い意志があった。「このまま何もせずに、運命に流されるわけにはいかない。私には、まだできることがあるはずだ。この時代でも、私の知識が、誰かの役に立つかもしれない。そして、それがいつか、私がここにいる意味を見つけ、帰る道へと繋がるかもしれない。…そうだ、顔を上げるんだ、結城莉央!」

莉央は、暗闇の中で固く拳を握りしめる。その瞳には、困難な状況にも決して屈しない、不屈の光が、暁の明星のように輝いていた。

翌朝、莉央は、いつものように食事を運んできた年配の侍女に、きっぱりとした、しかしぎこちないながらも必死に覚えたこの時代の言葉で、「官兵衛様に、お伝えしたいことが…ございます。私の持つ知識の断片が、このお城のお役に立てるやもしれませぬ。お取次ぎ、願えませぬでしょうか」と告げた。

その声には、昨日までのか弱さや戸惑いは微塵も感じられなかった。そこには、確かな意志と、未来への覚悟が込められていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ