第4話:黒き鴉
第4話:黒き鴉
野盗たちが、あるいは断末魔の声を上げ、あるいは声もなく崩れ落ちると、森には血と土の匂いが重く澱んだ。莉央を助けた男とその供回りの者たちは、手際よく後処理を行っている。その静かで統制の取れた動きは、彼らが歴戦の士であることを示していた。
莉央を助けた男は、馬上から静かにその全てを見届け、やがて馬から降り立つと、ゆっくりと莉央に近づいてくる。その黒い、飾り気のない着流しのような服装が、逆に彼の研ぎ澄まされた武人の風格と、底知れぬ知性を際立たせているように莉央には見えた。
助かった安堵感は一瞬で霧散し、目の前の武士に対する畏怖と、今後の身の上への不安が莉央の心の中で渦を巻いていた。斬られた左肩からは、じわじわと熱い血が流れ続け、カーキ色の作業着を深い赤黒へと染め上げている。激痛と失血で、意識が霞み始めていた。
「何者だ、お主は」低く、しかしよく通る声だった。感情の乗らないその声と、莉央の全てを見透かすような瞳は、鋭利な刃物で切り刻まれるような感覚を彼女に与えた。
莉央は、霞む意識の中で、最後の気力を振り絞って言葉を紡ぎ出す。(記憶が…曖昧だということ…それだけは伝えなければ。未来から来たなどと口走れば、狂人扱いされるか、斬り捨てられるのが関の山だろう…!今は、とにかく生き延びることを考えないと…)
「何も…はっきりとは…覚えておりませぬ…ただ、気が付けば、この森の中に…頭を強く打ったようで…自分の名も、故郷も…」か細く、今にも消え入りそうな声。それが演技なのか、本当に衰弱しきっているのか、今の莉央には自分でも判別がつかない。
彼は、莉央の言葉を吟味するかのように、しばし沈黙した。その間も、彼の鋭い視線は、莉央の異様な服装、腰のサバイバルキット、そして左肩の傷の状態を、容赦なく観察している。莉央の作業着の、この時代にはありえない化学繊維の質感や、キットの中の合成樹脂で作られた道具の形状は、彼の目に異様なものとして映っているはずだ。
(見透かされている…!でも、本当のことなんて、絶対に言えない…この男は、私の嘘を見抜いているかもしれない…それでも、今はこう言うしかない…)必死に平静を装うが、彼の射抜くような洞察力に、莉央は内心で冷たい汗が止まらなかった。
「覚えておらぬ、か。その身なり、その言葉遣い、そしてその手元の道具…いずれもこの日の本、少なくともこの播磨の国では、とんと見慣れぬものばかりだが」彼の声には、依然として抑揚がない。試されている、そう直感した。
「遠い…どこかから…嵐にでも…遭ったのやも…私の故郷の言葉も…思い出せぬのです…ただ、時折、何かを知っているような感覚が…」必死に辻褄を合わせようとするが、言葉はしどろもどろになる。左肩の痛みが、思考を鈍らせる。
その時、莉央は左肩の出血が勢いを増していることに気づき、咄嗟にサバイバルキットから清潔なガーゼパッドを取り出し、自ら傷口に強く押し当てた。そのまま、もう一方の手で作業着の袖を力任せに引き裂き、慣れた手つきで簡易的な圧迫止血を試みる。それは、防災訓練で身体に染み付いた、半ば無意識の行動だった。 その手際の良さに、後処理を終えて戻ってきた彼の供の一人が、思わず「おお…」と感嘆の声を漏らした。
男は、しばらく莉央のその応急処置の様子を黙って見つめていたが、やがて、ふっと短く息を吐いた。その表情からは、依然として真意を読み取ることはできない。
(殺されるのか…それとも、このまま見捨てられるのか…この男の判断一つで、私の命運が決まる…)莉央は、固唾を飲んで彼の次の言葉を待った。
「素性は知れぬが、このまま放置すれば、その傷と疲労で命に関わるであろう。それに、お主の持つその奇妙な道具、あるいはその手当ての仕方…何かしら我が黒田家の役に立つやもしれぬ。…ついて参れ。我が居城、妻鹿にて一時、身を預かろう。お主の記憶が戻るまで、あるいは、お主の知識が我が家の役に立つか見極めるまでな」男の決定に、側に控えていた供回りの武士たちは、僅かに驚きの表情を見せたが、異を唱える者はいなかった。(この女の異様な知識や道具、そしてこの場での冷静な判断力は、あるいは何かの使い道があるかもしれぬ、という打算が働いたのだろうか。それとも…何か別の可能性を、この男は見ているのだろうか)莉央はそう感じた。
莉央は、彼の部下の一人に肩を貸され、別の馬の鞍に乗せられた。武士が手綱を引き、馬はゆっくりと歩き出す。馬の背の予想以上の高さと不規則な揺れに戸惑いながら、莉央は必死に鞍にしがみつく。左肩の痛みが、馬の揺れに合わせて容赦なく響いた。
道中、目にする風景は、粗末な茅葺屋根の家々が点在し、痩せた土地を耕す農民たち、そして腰に刀を差した武士たちの姿――それは莉央にとって、歴史の教科書や映像資料でしか見たことのない、「戦国時代」そのものだった。自分が本当に、過去の日本に飛ばされてしまったのだという、あまりにも非現実的な実感が、鉛のような重さとなって莉央の心にのしかかってくる。
先導する男の、馬上での凛とした横顔を、莉央はぼんやりと見つめる。怜悧な表情の奥に隠された彼の真意は何か。利用価値がなくなれば、あっさりと切り捨てられるのだろうか。言いようのない不安と、それでも、生き延びられるかもしれないという、か細い希望が交錯していた。(今は、この男に従うしかない。そして、いつか必ず…必ず帰るんだ…そのためにも、ここで生き抜かなければ…私の知識が、ここで生きるための武器になるかもしれない。)
やがて、夕焼けに染まる妻鹿城の小ぶりながらも堅固なシルエットが遠くに見えてくる。その威容は、莉央に新たな畏怖と、これから始まるであろう未知の日々への覚悟を迫る。莉央の戦国時代での新たな、そして過酷な運命が、静かに始まろうとしていた。