第30話:傷だらけの帰還、そして未来への誓い
第30話:傷だらけの帰還、そして未来への誓い
燃え盛る有岡城の地獄絵図を背に、母里太兵衛と、莉央の策によって辛うじて生き残った数名の足軽たちは、彼女が指示した秘密の合流地点で待機していた伝令役の足軽たち(莉央の護衛も兼ねていた)と合流し、彼らに守られながら、ただひたすらに闇の中を駆け続けた。官兵衛の、あの壮絶な覚悟の表情が脳裏に焼き付いて離れない。彼は生きているのか、それとも…。そのあまりにも残酷な問いかけを、莉央は必死に頭から振り払った。今はただ、この虎口を脱し、一刻も早く妻鹿城へ戻り、再起の策を練րなければならない。それが、官兵衛から託された「黒田の未来」を守るための、今の自分にできる唯一のことだった。
しかし、有岡城を脱出したとはいえ、彼らの苦難の道のりはまだ終わったわけではなかった。荒木村重の追討軍の影は、まるで執拗な猟犬のように、常につきまとってくる。莉央たちは、昼は山中の獣道や、人の踏み入らぬ深い森に身を潜め、夜は星影だけを頼りに、関所や街道を避けながら、ひたすらに播磨への道を急いだ。食料は底をつき、着の身着のままの逃避行は、彼らの体力と気力を容赦なく削り取っていく。莉央の足は豆だらけになり、一歩進むごとに激痛が走ったが、彼女は決して弱音を吐かなかった。その瞳には、官兵衛を失うかもしれないという恐怖と、それでもなお彼を信じ、黒田家を再興させねばならないという、悲壮なまでの決意が燃え続けていた。
道中、追手に発見されそうになった際には、莉央が工房で開発した残りの煙幕弾を効果的に使用し、あるいは川に飛び込んで流れに身を任せるなど、サバイバル知識を総動員して危機を回避した。莉央の冷静な判断と、足軽たちの決死の働きが、幾度も彼らを死の淵から救った。
同行していた足軽たちもまた、満身創痍だった。しかし、彼らは莉央の不屈の精神に励まされ、互いに肩を貸し合い、励まし合いながら、絶望的な状況の中でも決して希望を捨てようとはしなかった。彼らの中には、有岡城潜入前に莉央から手渡された、あの暗闇で微かに光る布切れを、まるで命綱のように握りしめている者もいた。「莉央様のお守りが、我らを導いてくれている」と、彼らは信じていた。
そして、幾多の死線を乗り越え、身も心も擦り切れんばかりになりながら、莉央と生き残ったわずか数名の足軽たちが、ついに妻鹿城の城門へとたどり着いたのは、有岡城を脱出してから実に七日目の、冷たい雨が降りしきる夜明けのことだった。城門で彼らの変わり果てた姿を迎えた光や井上九郎右衛門たちは、その無事を涙ながらに喜びつつも、そこに官兵衛の姿がないことに、言葉にならないほどの絶望を覚えた。城内は、深い悲しみと、もはや打つ手なしという諦観に似た重苦しい空気に包まれた。
光は、莉央の泥と血に汚れた手を固く握りしめ、嗚咽を漏らした。
「莉央殿…殿は…太兵衛も…やはり、ご無事では…なかったのですね…私の祈りも、届かなかった…この光、どうすれば…」
莉央は、光のそのあまりにも痛ましい問いかけに、何と答えてよいのか言葉が見つからなかった。彼女は、ただ黙って首を横に振ることしかできなかった。あの炎上する有岡城で、荒木村重の本隊と対峙した二人が生きているとは、到底思えなかったのだ。(私の知識も、私の道具も、結局は殿をお救いできなかった…私は、この時代で何のために…帰りたい…もう、何もかも捨てて、帰りたい…でも、殿の最後の言葉が…黒田の未来を…私のせいで…殿を見殺しにしてしまったのかもしれない…)言いようのない無力感と自責の念が、莉央の心を苛んだ。
その日から、妻鹿城には、まるで弔いの鐘が鳴り響くかのような、暗く、そして重苦しい日々が続いた。家臣たちの間からは、もはやこれまでと、織田家に降伏すべきだという声が、日増しに大きくなっていった。莉央は、光を励ましながらも、内心では最悪の事態を覚悟し始めていた。
「帰還の金属片」もまた、有岡城の方角を指し示すのをやめ、まるで生命の灯が消えたかのように、冷たく沈黙していた。(やはり、殿の生命の危機に反応していたのだろうか…もう、あの温もりを感じることはないのかもしれない…帰る道も、もう…閉ざされてしまったのだろうか…私の希望も、ここで潰えてしまうのか…)莉央の胸を、深い喪失感が襲った。
しかし、運命の女神は、まだ黒田家を見捨ててはいなかった。
莉央たちが妻鹿城へ帰り着いてから、さらに三日が過ぎた、ある嵐の夜のことだった。城門を激しく叩く音が響き渡り、見張りの兵士が慌てふためいて駆け込んできた。
「申し上げます!城門の外に…城門の外に、殿が…黒田様と、母里様が…!お二人とも、ひどいお怪我ですが、確かに…!生きておられます!」
その報に、城内にいた全ての者が、耳を疑った。誰もが諦めかけていたその時、官兵衛と母里太兵衛が、まるで地獄の底から這い上がってきたかのように、奇跡的に妻鹿城へと生還を果たしたのだ。
二人の姿は、筆舌に尽くしがたいほどに無残なものだった。太兵衛は全身に深手を負い、意識も朦朧としていた。そして官兵衛は…有岡城の土牢での過酷な幽閉生活と、その後の壮絶な逃避行によって、その怜悧な面影は見る影もなくやつれ果て、特に左足には、もはや二度と以前のように自由に歩くことはできないであろう、重い、癒えることのない傷を負っていた。しかし、その深く窪んだ瞳の奥には、死線を幾度も越えてきた者だけが持つ、凄絶なまでの、そして何よりも強い生命の光が、狼のように鋭く、そして力強く宿っていた。
聞けば、有岡城でのあの夜、官兵衛と太兵衛は、荒木村重の本隊と壮絶な死闘を繰り広げた末、官兵衛が機転を利かせ、以前工房で莉央が熱心に説明し、出発前に持たせてくれた竹筒に入った「燃えやすい油」(実際には松根油を精製し、引火点を下げた試作品。莉央が「火攻めの際に、より広範囲に、かつ短時間で延焼させるためのもの」として試作していた)のことを思い出したのだ。それを土牢の近くに偶然残っていた藁や木材にまき、太兵衛が莉央から託された残りの煙幕弾で追手の目を眩ませている間に火を放って大混乱を引き起こし、その隙に九死に一生を得て城を脱出したのだという。そしてその後、追手の執拗な追撃を振り切りながら、太兵衛が土地勘のある山中をさまよい、莉央が以前『食べられる野草』として図解で示し、少量の干し肉と共に持たせてくれていた知識を頼りに飢えをしのぎ、ようやく妻鹿の地へとたどり着いたのだった。
官兵衛の奇跡的な生還は、深い絶望に沈んでいた黒田家中に、再び希望の光を灯した。しかし、その代償はあまりにも大きかった。黒田家は、この有岡城の一件で、多くの有能な家臣たちを失い、そして何よりも、主君である織田信長からの信頼を完全に失墜してしまった。黒田家の前には、これまで以上に険しく、そして先の見えない困難な道が横たわっていた。
だが、このあまりにも過酷な試練を通じて、黒田官兵衛と結城莉央、そして生き残った家臣たちの絆は、もはや血よりも濃い、何ものにも代えることのできない、揺るぎないものとなっていた。彼らは、互いの存在を支えとし、共にこの絶望的な状況を乗り越えていくことを、固く心に誓い合った。
官兵衛は、莉央の献身的な看護と、光の深い愛情によって、心身ともに少しずつではあるが、確実に回復していった。左足の傷は、莉央が現代の知識を元に考案した添え木と包帯による固定法、そして感染症を防ぐための薬草(先の戦傷治療で効果を実証した薬液の改良版)を用いた湿布によって、最悪の事態は免れたものの、やはり以前のような自由は奪われていた。
再び立ち上がった彼の瞳には、もはや以前のような迷いの色はなく、有岡城での筆舌に尽くしがたい屈辱と絶望を、その魂の奥底で燃える野望の薪とし、天下泰平という、より大きな、そしてより困難な目標を、ただひたすらに見据えた、鋼のような強く、そして深みを増した光が宿っていた。
「莉央殿…お主がいなければ、今の私はなかったであろう。お主の知恵、お主の勇気、そして何よりも、お主が我らを見捨てなかったその心が、この官兵衛を生かしたのだ。この命、そして黒田の未来は、お主と共に…お主の存在こそが、この黒田家にとって、いや、この官兵衛にとって、何よりも得難い光明なのだ。お主の記憶が戻り、帰るべき場所へ旅立つ日が来るまで、どうかこの官兵衛の傍にいて、その力を貸してほしい。そして、お主の帰る道も、必ずや共に見つけ出そうぞ」
官兵衛の言葉に、莉央は静かに頷いた。その目には、安堵の涙と共に、この過酷な運命を彼と共に歩むという、新たな決意が宿っていた。(帰りたい…その思いは少しも変わらない。でも、この人を、この時代を見捨てることは、今の私にはできない。いつか帰る日が来るまで、私はここで、私の全てを懸けて戦うのだ。そして、この人の見る未来を、私も一緒に見てみたい。私の知識は、まだこの人の役に立てるはずだ。そして、殿が私の帰還を手伝うと言ってくれた…その言葉を信じたい。)帰還への願いは消えずとも、今は、この人の傍らで、この時代を生き抜くこと。それが、今の自分にできる全てだと、彼女は悟っていた。
彼女もまた、このあまりにも過酷な試練を、官兵衛と共に、そして黒田家の人々と共に乗り越えたことで、彼と共に未来を切り開くという決意を、その胸の奥深くに、改めて、そして永遠に消えることのない炎のように、固く刻み込むのだった。
「帰還の金属片」は、官兵衛の生還と共に、再び微かな温もりを取り戻し、莉央の手の中で静かに、しかし確かに脈打っているように感じられた。(まだ、道は繋がっている…この金属片は、やはり何か特別な力を持っている。そしてそれは、私の帰還だけでなく、この時代の大きな運命にも関わっているのかもしれない。殿の危機にも反応し、そして今、また温もりを取り戻した…これは、私がこの時代で果たすべき役割と、帰還への道が、どこかで繋がっているということなのだろうか…この金属片が、次に何を示すのか…今はまだ分からないけれど、きっと、その時は来る。その時まで、私はここで、私にできることをする。)莉央は、そう確信した。
播磨の風は、まだ厳しい冬の、骨身に染みるような寒さを容赦なく運んでくる。しかし、その凍えるような風の中に、官兵衛と莉央の二人は確かに、新しい時代の、そして自らの運命の、力強い夜明けの気配を、肌で感じ取っていた。




