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第26話:決行前夜、それぞれの覚悟

第26話:決行前夜、それぞれの覚悟

竹中半兵衛の遺した策謀の骨子と、莉央の集めた情報を元にした黒田官兵衛救出作戦の準備は、妻鹿城の奥深く、人目を避けるようにして、しかし着実に進められていた。決行の日は、数日後に迫った、月も星もその姿を隠すであろう新月の夜と定められた。城内には、表向きの平穏とは裏腹に、まるで嵐の前の海のような、息苦しいほどの緊張感が満ち満ちていた。選ばれた兵士たちは、来るべき決戦に備え、黙々と武具の手入れをし、あるいは故郷に残した家族への、これが最後になるやもしれぬ手紙を、震える筆でしたためている。その背中には、死をも覚悟した武士の、悲壮なまでの決意が滲んでいた。

莉央は、ここ数日、工房に籠もりきりだった。彼女の顔には、極度の疲労と寝不足による深い隈が刻まれ、その瞳は赤く充血している。しかし、その奥には、まるで燃え盛る炎のような、尋常ならざる集中力と意志の光が宿っていた。彼女は、作戦の成否を左右するであろう特殊な道具――音もなく城壁を昇降するための吸盤付きの鉤縄、土牢の堅固な錠前を破壊するための特殊な工具、そして追手の視界を奪う煙幕弾――の、最後の点検と調整に、文字通り心血を注いでいた。一つ一つの部品を丹念に調べ、僅かな歪みや不具合も見逃さず、納得がいくまで改良を重ねる。それは、彼女自身の、そして何よりも官兵衛の、そして作戦に参加する全ての者たちの命が懸かっているという、あまりにも重い責任感から来る、執念にも似た作業だった。

(これで、本当に大丈夫だろうか…鉤縄の吸盤の粘着力は、雨で濡れた城壁でも効果を発揮するだろうか…錠前を破る工具は、もし予期せぬ形状の錠だったら…煙幕弾の燃焼時間は、計算通りに持続するだろうか…何か、見落としていることはないか…もし、この道具が作動しなかったら…私の知識は、本当にこの絶望的な状況を打開できるのだろうか。もし失敗したら、多くの人の命が失われ、そして殿は…私は、その責任を負えるのだろうか…。帰りたい、という気持ちを押し殺してまで、私は正しい選択をしているのだろうか…この作戦が成功し、殿をお救いできたとして、その先に私の帰る道はあるのだろうか。それとも、私はこの戦国の世に、さらに深く囚われていくのだろうか…この金属片の反応が、成功の吉兆であってほしいけれど…でも、この不吉な振動も気になる…)胸の金属片は、決行が近づくにつれ、微かな熱を帯び、時折、期待と不安が入り混じるような不思議な振動を発していた。

成功への強い意志と同時に、多くの尊い犠牲者が出るかもしれないという耐え難い恐怖、そして、もし作戦が失敗に終わった場合の、取り返しのつかない絶望的な未来への不安が、まるで悪夢のように彼女の心を苛み続けていた。

その夜、莉央が工房で一人、最後の煙幕弾の配合調整――例の未知の鉱石の粉末の量を、コンマ数グラム単位で調整していた――を行っていると、そっと扉が開かれ、てるが姿を現した。その手には、小さな土鍋と、湯気を立てる温かい薬湯の入った椀が盆に乗せられている。

「莉央殿…今宵は、もうお休みになられては…?お身体を壊されては、元も子もございませぬぞ。殿も、きっと莉央殿のご無理を案じておられましょう。莉央殿が倒れてしまっては、我々はどうすれば…」

光の声は、いつものように優しく、しかしその奥には、莉央の身を深く案じる響きが込められていた。彼女は、莉央の前に薬湯を置くと、その冷え切った手を、自らの温かい両手でそっと包み込んだ。

「光様…ありがとうございます。ですが、私には、まだやらねばならぬことが…この煙幕弾の、ほんのわずかな配合の違いが、皆の生死を分けるかもしれないのです。失敗は許されません。私にできることは、これくらいですから…」

「分かっておりまする。ですが、莉央殿一人が、全てを背負うことはございませぬ。私に、そして黒田家の皆に、もっと頼ってくだされ。我らは、皆、殿をお救いしたいという想いは同じなのですから。そして、莉央殿が無事でなければ、殿もきっとお悲しみになります。莉央殿は、もう我らにとってかけがえのないお方なのですから」

光の言葉は、張り詰めていた莉央の心の琴線を、優しく、しかし強く揺さぶった。莉央は、こらえきれずに込み上げてくる熱いものを感じながら、光の手にそっと顔をうずめた。

「光様…私は…怖いのです…もし、殿のお身に何かあればと…そう思うと、この胸が張り裂けそうで…私の知識が、私の作った道具が、本当に皆を救えるのか…自信が、ないのです…私がここにいなければ、こんな危険な作戦もなかったかもしれない。私が、皆を危険に晒しているのかもしれない…。そして、私は…いつか帰れるのでしょうか…この作戦が成功しても、失敗しても、私は…本当に、元の世界へ…」

それは、莉央がこの戦国時代に来て初めて、誰かに見せた弱音だったのかもしれない。光は、何も言わずに、ただ優しく莉央の背中を撫続けた。やがて、莉央は顔を上げ、涙に濡れた瞳で、しかしきっぱりとした声で言った。

「ですが、私は諦めませぬ。必ずや、殿をお救いし、そして光様の元へ、この妻鹿の城へ、お連れ戻しいたします。この命に代えても。それが、今の私にできる全てです。そして、いつか必ず…帰ってみせます」

光は、莉央のその言葉に、力強く頷いた。「莉央殿…あなた様のお心を、そして殿への忠義を、この光、生涯忘れませぬ。どうか、どうかご無事で…。殿がお戻りになられた暁には、この城で、三人で、祝いの杯を交わしましょうぞ。それが、今の私の、たった一つの願いでございます」

二人の女性の間に、言葉はなくとも、互いの魂が深く共鳴し合うような、静かで、しかし何よりも強い絆が結ばれた瞬間だった。

一方、城内の武者詰所では、今回の救出作戦の実行部隊を率いることになった母里太兵衛が、井上九郎右衛門と、作戦の細部に関する最後の打ち合わせを行っていた。太兵衛の顔には、いつもの豪放磊落な笑みはなく、ただ、戦場を幾度も潜り抜けてきた猛将だけが持つ、鋼のような覚悟と、全てを飲み込むような深い静けさが漂っていた。

「九郎右衛門、もし俺が戻らなんだ時は、後のことは全てお主に託す。殿の奥方様と、そして莉央殿のこと、くれぐれも頼んだぞ。あの娘は、黒田家にとって宝じゃ。殿の嫡男、松寿丸様のことも、決して見捨てるでないぞ」

「太兵衛殿…そのような、縁起でもないことを…必ずやご無事でお戻りください。殿と共に。松寿丸様のことは、竹中半兵衛殿がきっと…」

「いや、戦場では何が起こるか分からん。最悪の事態を常に覚悟しておくのが、武士の務めじゃ。…それにしても、あの莉央殿という女人、まこと得体の知れぬ、しかし底知れぬ知恵と勇気を持ったお方じゃ。彼女の考案したあの奇妙な道具の数々がなければ、この作戦、到底成り立たなんだであろう。殿のため、そして何よりも、あの莉央殿の、我らを信じる真っ直ぐな知恵と勇気を無駄にはせぬ!この母里太兵衛、必ずや殿をお救いし、そして生きてこの妻鹿の土を踏んでみせるわ!」

その太兵衛の瞳には、決死の覚悟と、そして莉央という異邦の工師への、深い信頼の光が、まるで鍛え上げられた刃のように鋭く宿っていた。彼は、かつて莉央の知識を軽んじた自分を恥じ、今ではその知恵こそが黒田家の最後の希望だと固く信じていた。井上九郎右衛門もまた、静かに頷き、その目には莉央への全幅の信頼と、作戦の成功を祈る強い念が込められていた。

出陣の時刻が、刻一刻と迫っていた。妻鹿城全体が、まるで巨大な生き物が息を殺すかのように、深い静寂に包まれている。莉央は、工房で最後の調整を終えた煙幕弾の一つを、母里太兵衛の元へと届けた。それは、掌に収まるほどの小さな竹筒だったが、中には彼女の知恵と願いが凝縮されていた。

「太兵衛様、これを。万が一の際に、お役に立てればと存じます。そして、これは…」

莉央は、工房で夜なべをして、サバイバルキットにあった夜光塗料の原理を思い出し、手近な材料――特殊な腐葉土に含まれる発光性の菌と、銅鉱石の微粉末を、粘性の高い植物の糊で布切れに固着させた――で試作した、暗闇でも微かに青白い光を放つ小さな布切れを、太兵衛の大きな手にそっと握らせた。「夜間の視界が悪い中での目印として、僅かでもお役に立てればと。どうか、お気をつけて。ご武運をお祈りしております。そして、この布切れが、あなた様をお守りしますように」

それは、作戦の成功を祈る、彼女なりのささやかなお守りでもあった。

太兵衛は、莉央のその心遣いに、無言で深く頷くと、その小さな布切れを、まるで大切な宝物のように、鎧の下の懐へとしっかりとしまい込んだ。そして、莉央の肩を、その熊のような大きな手で、一度だけ、力強く叩いた。

「莉央殿、必ずや、殿と共に戻る。…達者でな。お主の知恵、無駄にはせぬ。この布切れ、確かに受け取った。守り神としよう」

莉央は、その力強い言葉と、彼の瞳に宿る決意に、胸が熱くなるのを感じた。

「太兵衛様こそ、ご武運を。そして、必ず…必ず、殿をお連れ戻しください。お待ち申し上げております」

莉央の声は僅かに震えていたが、その眼差しは真っ直ぐに太兵衛を見据えていた。

決行を前にした二人の間で交わされた、それは力強い決意の言葉だった。

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