第24話:竹中半兵衛への最後の願い
第24話:竹中半兵衛への最後の願い
有岡城内で、官兵衛救出への微かな、しかし確かな内応の約束を取り付けた莉央だったが、それだけではまだ、あの鉄壁の要塞から官兵衛を救い出すにはあまりにも心許なかった。荒木村重の猜疑心は深く、城内の警備は日増しに厳重さを増している。わずかな手勢しか持たぬ黒田家が、力攻めで官兵衛を奪還するなど、夢物語にも程がある。必要なのは、敵の意表を突き、そして城内の混乱を最大限に利用する、奇抜かつ緻密な策謀だった。
(今の情報だけでは、まだピースが足りない…有岡城の内部構造、荒木村重の性格、そして何よりも、官兵衛様を確実に救い出すための具体的な手順…それを練り上げるには、並の知恵では…私の知識だけでは限界がある。この時代の、卓越した知恵を借りなければ…そして、何よりも「説得力」が必要だ。私がどんなに完璧な策を立てても、黒田家の家臣たちを動かすには、この時代の権威ある人物の言葉が…そして、その人物の知恵を借りれば、作戦の成功率も格段に上がるはずだ。)
莉央の脳裏に、一人の男の名が浮かんだ。かつて豊臣秀吉をして「我が子房」と言わしめた稀代の軍師、竹中半兵衛重治。黒田官兵衛にとって数少ない真の理解者であり、互いの才を認め合う無二の盟友。その知略は、神がかっているとさえ噂され、彼が一度筆を走らせれば、いかなる難攻不落の城も、たちまちのうちに落城するとまで言われていた。
(半兵衛様…!あの方のお知恵を拝借できれば、必ずや殿をお救いできる道筋が見えるはず…!そして、半兵衛様のお言葉ならば、きっと黒田家の皆も…この作戦に全てを懸けてくれるはずだ!)
しかし、その頃、播磨に近い美濃の国、菩提山城の奥深くで、竹中半兵衛が、長年の病によって、その命の灯火がまさに消えかかろうとしているという報せが、莉央のもとにもたらされた。
(そんな…!半兵衛様が、今、まさに…!間に合わなければ、殿をお救いする道が閉ざされてしまうかもしれない…。今ならまだ、間に合うかもしれない…でも、もし…もし、半兵衛様が既にお亡くなりになっていたら…)
莉央の胸に、一縷の望みと、それ以上の深い絶望が交錯する。美濃まではあまりにも遠く、そして今の半兵衛の身体では、助言を乞うことすら叶わないかもしれない。
それでも、莉央は諦めなかった。今の黒田家にとって、竹中半兵衛の知恵こそが、官兵衛を救い出すための、最後の、そして唯一の希望の糸であると、莉央は固く信じていた。
彼女は、光や井上九郎右衛門をはじめとする家臣たちの、身を案じての必死の制止を振り切り、自らが美濃へ赴き、半兵衛に直接助けを乞うという、あまりにも無謀で、そして危険極まりない決断を下した。
「光様、井上様、皆々様のお心遣い、身に染みております。ですが、このまま手をこまねいていては、殿のお命が…!私には、どうしても、半兵衛様のお力をお借りしなければならぬのです。たとえこの身がどうなろうとも、必ずや殿をお救いするための道を見つけ出し、そして無事妻鹿へと戻ってまいります! 護衛の足軽の方々には、私の身の安全を第一に考えていただき、決して無理な行程は強いるつもりはございません。ただ、一刻も早く半兵衛様のもとへ辿り着きたいのです。私の記憶にある薬草の知識で、もしかしたら半兵衛様のお加減を少しでも…という淡い期待もございます。そして、この金属片が、何か導いてくれるような気もするのです」莉央は、熱を帯びた金属片を握りしめた。
莉央の瞳には、鬼気迫るほどの、そして一切の迷いのない強い意志の光が宿っていた。その決意の固さを悟った光たちは、もはや莉央を止めることはできなかった。彼女たちは、ただ涙ながらに莉央の身の安全を祈り、そして、母里太兵衛が選び抜いた、黒田家中でも最も腕の立つ数名の忍び働きを得意とする足軽(先の有岡潜入にも同行し、莉央の機転と勇気を目の当たりにしていた者たち)を、彼女の護衛として付き従わせることだけを、かろうじて認めさせた。
美濃への道は、想像を絶するほどに険しく、そして危険に満ちていた。莉央たちは、再び薬売りの行商人一座に身をやつし、夜陰に紛れて妻鹿城を出立した。荒木村重の謀反の余波は播磨一円に及び、街道には関所が乱立し、落ち武者狩りの雑兵や、徒党を組んだ野盗たちが、まるで飢えた狼のように獲物を求めて徘徊していた。
莉央たちは、護衛の足軽たちの案内と機転により、昼は人目を避けて険しい山道や獣道を選び、夜は星影だけを頼りに、息を殺して関所を迂回した。時には、鋭い嗅覚を持つ番犬に追われ、崖から谷底へと転げ落ちそうになりながらも、足軽たちの身を挺した活躍で必死に逃げ延びた。またある時には、山中で不意に遭遇した落ち武者狩りの一団に対し、莉央がサバイバルキットの知識を応用し、有岡潜入前に工房で密かに試作していた、唐辛子や山椒など刺激の強い植物を乾燥させ、細かく砕いて特殊な植物の汁と混ぜ合わせた、強力な催涙効果のある粉末を懐から取り出し、風上から投げつけさせた。敵が激しく咳き込み、視界を奪われて怯んだ隙に、足軽たちの奮戦によって辛うじて切り抜けたこともあった。
飢えと渇き、そして絶え間ない緊張と恐怖。莉央の体力は限界まで消耗し、その精神もまた、いつ張り詰めた糸が切れてもおかしくないほどに追い詰められていた。しかし、彼女の心の中には、官兵衛を救いたいという一心と、そして、あの「帰還の金属片」が、美濃の方角を指して、時折、微かな、しかし確かな温もりを発することだけが、消え残る希望の灯となっていた。(この金属片は、半兵衛様の生命力に反応しているのだろうか…? それとも、美濃の地に、何か特別なエネルギー源でも…?あるいは、帰還への手がかりとなる何かが、この先にあるというのか…?この温もりが、私に諦めるなと告げている気がする。そして、この温もりは、殿が有岡で囚われている時に感じた、あの不吉な熱とは違う…何か、もっと清浄な…希望を感じさせる温もりだ。)
幾多の困難を乗り越え、身も心も擦り切れんばかりになりながら、莉央たちがついに竹中半兵衛の居城である菩提山城にたどり着いたのは、妻鹿を出てから実に十日目のことだった。城は、まるで主の命運を暗示するかのように、静まり返り、重苦しい空気に包まれていた。
莉央は、門番の兵士に、黒田官兵衛からの急使であると告げ、半兵衛への面会を懇願した。しかし、半兵衛の病状は極めて重く、もはや誰との面会も許されてはいないという、無情な返答が返ってきた。
(ここまで来て…駄目なの…?諦めるわけにはいかない。殿のためにも、そして、この金属片が示すかもしれない未来のためにも…!半兵衛様の知恵なくして、殿を救う道はない!)
莉央の膝が、がくりと折れそうになる。しかし、彼女は諦めなかった。
「どうか、半兵衛様にお伝えください!播磨の黒田官兵衛が、今、有岡の土牢にて、命の危機に瀕しております!半兵衛様のお知恵なくしては、殿をお救いすることは叶いませぬ!この結城莉央、半兵衛様にお目通りが叶うまで、この場を一歩たりとも動きませぬ!もし、半兵衛様のご気分が優れぬのであれば、せめて書状だけでもお渡しいただけませぬか!これには、官兵衛様を救うための、重要な情報が記されております!」
莉央は、城門の前に土下座し、雨が降りしきる中、ただひたすらに半兵衛への面会を願い続けた。その鬼気迫る姿と、彼女の言葉の端々から感じられる官兵衛への深い忠誠心は、当初は冷ややかに彼女を見下ろしていた城兵たちの心をも、徐々にではあるが動かし始めていた。
その日の夕刻、ついに莉央の願いは天に通じたのか、あるいは半兵衛自身の強い意志だったのか、彼女は病床の半兵衛との面会を、特別に許されることになった。
通されたのは、城の奥深くにある、薄暗く、そして薬草の匂いが立ち込める一室だった。布団の上に横たわる竹中半兵衛は、かつての「今孔明」と謳われた面影はなく、骨と皮ばかりに痩せ衰え、その呼吸は浅く、今にも消え入りそうだった。しかし、その窪んだ瞳の奥には、まだ確かに、鋭い知性の光と、天下国家を憂う深い憂慮の色が宿っていた。
莉央は、半兵衛の枕元に膝をつき、これまでの経緯――官兵衛の有岡城幽閉、黒田家の絶体絶命の危機、そして自らが有岡城で得た僅かな情報と、内応の約束を取り付けた足軽頭のこと――を、涙ながらに、しかし一言一句、詳細に語った。そして、持参した薬草(鎮痛作用や滋養強壮の効果が期待できるもの)を差し出し、「半兵衛様のお加減が少しでも和らぎますように。これは、私の朧げな記憶にある、故郷の薬草の知識を元に調合したものです」と述べた。
半兵衛は、時折苦しげに咳き込みながらも、莉央の言葉に静かに耳を傾けていた。そして、莉央が全てを語り終えると、薄く目を開き、かすれる声で、しかしその言葉には紛れもない力を込めて、いくつかの問いを莉央に投げかけた。それは、有岡城の具体的な構造、荒木村重の性格、そして官兵衛の現在の心理状態など、極めて的確で、そして本質を突くものばかりだった。
莉央は、半兵衛のその衰弱しきった体の中に、未だ燃え盛る恐るべき知略の炎を感じ取り、改めて戦慄に近い感動を覚えた。
半兵衛は、莉央の答えを聞き終えると、しばらくの間、目を閉じて深く何かを考えていたが、やがて、最後の力を振り絞るかのように、ゆっくりと口を開いた。そして、官兵衛を救い出すための、いくつかの重要な「要点」と、「注意すべき罠」、そして「活かすべき好機」の可能性を莉央に授けた。それは、「荒木村重の猜疑心を利用し、城内に偽情報を流すこと。その情報は、村重が最も信頼する者の裏切りを示唆するものが良い」「内応者には、特定の『合図』で行動させること。その合図は、村重に悟られぬよう、日常の中に紛れ込ませること。例えば、特定の時刻の鐘の音や、城下の市場の喧騒など」「城の北西、古い井戸の存在が鍵となるやもしれぬ。その井戸は、かつて城の水源であったが、今は使われておらず、あるいは秘密の通路に繋がっておるやも…その井戸の近くに、古い祠があれば、なおのこと…」といった、具体的な行動のヒントであり、神業とも言うべき知略の萌芽だった。
「…良いか、莉央殿…この策、成否は五分と五分…いや、それ以下やもしれぬ…じゃが、今の黒田家には、これしか道は残されておるまい…これらの言葉を元に、お主の集めた情報と、その異邦の知恵で、具体的な救出の手順を練り上げるのじゃ…官兵衛殿を…そして、天下を…頼み、申したぞ…お主の持ってきた薬草…かたじけない…少し、楽になった気がする…お主のその金属片…それは、ただの石ではないようじゃな…大切にせよ…何か、大きな意味があるやもしれぬ…」
それが、竹中半兵衛がこの世で発した、最後の言葉だった。彼は、莉央に全てを託すと、まるで安堵したかのように、静かに、そして穏やかに息を引き取った。その顔には、苦悶の色はなく、ただ、遠い未来を見つめるかのような、不思議なほどに晴れやかな微笑みが浮かんでいた。
莉央は、半兵衛の冷たくなった手を固く握りしめ、声にならない嗚咽を漏らしながら、その偉大な軍師の死を、ただ一人、静かに見送った。彼女の心の中には、深い悲しみと共に、半兵衛から託されたあまりにも重い使命と、そして官兵衛を必ずや救い出すという、燃えるような決意が、新たな炎となって宿っていた。半兵衛の遺した「策の骨子」を、自らの手で完成させなければならない。その責任の重さに、莉央は身が引き締まる思いだった。




