第22話:絶望の中の結束
第22話:絶望の中の結束
荒木村重謀反と、黒田官兵衛消息不明という二重の凶報は、妻鹿城を深い、そして底なしの絶望の淵へと突き落とした。まるで嵐の前の、息を潜めたような不気味な静けさが城内を支配し、日中の市場の喧騒さえも、遠い昔の出来事のように感じられた。代わりに、人々の押し殺したような溜息と、壁に染み込むような湿った絶望だけが、冷たい石畳や土壁に虚しく響き渡っていた。評定所に昼夜を問わず詰める家臣たちの顔には、寝不足による深い隈と、先の見えない焦燥の色が濃く浮かび、誰もが暗闇の中で出口を見失い、ただ狼狽えるばかりだった。
追い打ちをかけるように、それから数日後、織田信長から、まるで冬の北風のように冷徹な詰問の使者が、物々しい供回りを引き連れて妻鹿城へと到着した。使者は、能面のような表情で、官兵衛の裏切りを一方的に、そして厳しく糾弾し、黒田家に対し、直ちにその潔白を、疑いの余地なく証明するか、あるいは相応の、つまりは城主一族の首を差し出す覚悟を示すよう、恫喝に近い、有無を言わせぬ言葉で迫った。そして、その言葉の端々には、もし黒田家が信長の逆鱗に触れ続ければ、人質として安土に送られていた官兵衛の幼い嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の命すら危ういという、無言の、しかしあまりにも残酷で、そして現実的な脅迫が、氷の刃のように込められていた。城内には、もはや一縷の希望の光さえ見出せないかのような、息をするのも苦しいほどの、濃密な絶望感が充満していた。
官兵衛の妻・光は、愛する夫の安否も定かでなく、そして今また、かけがえのない我が子の命までが、まるで風前の灯火のように危険に晒されているという、筆舌に尽くしがたい苦悩の中で、心身ともに極限まで追い詰められていた。彼女は、昼夜を問わず、城内の小さな祠に籠もり、震える手で数珠を握りしめ、神仏に夫と子の無事を、血を吐くような思いで祈り続けたが、その美しい顔色は日に日に青白く失われ、かつては星のように輝いていたその瞳からは、生気という生気が失われつつあった。まるで、か弱い、しかし気高い白百合が、容赦なく吹き荒れる嵐の前に、今にも力なくその細い茎から折れ伏してしまいそうな、痛々しいほどの姿だった。
「殿…松寿丸…どうか、どうかこの光に、お二人のご無事なお姿を、もう一度だけでもお見せくださいませ…この身はどうなっても構いませぬ故…このままでは、私も…」
莉央は、そんな光の、魂が抜け殻になったかのような憔悴しきった姿を目の当たりにし、まるで自分の胸が鋭い刃物で抉られるような、激しい痛みを覚えていた。しかし、彼女は決してその前で涙を見せることなく、むしろ普段以上に気丈に、そして何よりも冷静に振る舞い、光の傍らに、まるで影のように、そっと寄り添い続けた。
「光様、お顔の色が優れませぬ。お心は痛いほどお察しいたしますが、どうか、今宵は少しでもお目をお閉じになり、お身体をお休めくださいませ。殿は、黒田官兵衛様は、必ずやご無事に戻られます。そして、松寿丸様も、きっと…きっと大丈夫でございます。この莉央には、何の根拠もございませぬが、そう、そう思えてなりませぬのです。あの『帰還の金属片』が、まだ微かに有岡の方角へ温もりを伝えているのです。それは、殿がまだ生きておられる証だと、私は信じております。そして、松寿丸様は、きっと竹中半兵衛様が…」莉央は、半兵衛が松寿丸を匿うという史実を思い出し、言葉を濁した。
莉央の声は、秋の夜長に響く鈴の音のように穏やかでありながら、その奥には、不思議なほどの力強さと、揺るぎない確信に満ちていた。それは、莉央が密かに、有岡城の周辺に放った数名の、山歩きに慣れた領民からの断片的な情報(「城の奥深くから、時折、男の呻き声のようなものが聞こえる」「最近、城の北側の警備が妙に厳重になった」など)と、あの「帰還の金属片」が、今もなお微かながら有岡城の方角を指し続け、時に微かな温もりを帯びるという、科学的根拠など何もない、しかし彼女にとっては官兵衛生存の証とも思える現象から来る、彼女なりの信念だったのかもしれない。
「諦めてはなりませぬ、光様。私たちが、そして何よりも奥方様が、ここで希望の灯を消してしまっては、それこそ殿の、そして黒田家代々の御霊のお心を裏切ることになりましょう。殿は、必ずや、このいかなる苦境をも乗り越え、再び私たちの前に、そのお元気なお姿を、そして以前にも増して輝かしいお姿を見せてくださいます。そのためにも、私たちが、この黒田家を、そして殿の帰るべき大切な場所を、この手で、断固として守り抜かなければなりませぬ!私の知識と技術、全てを懸けてお支えいたします!そして、必ずや殿をお救いする道を見つけ出します!」
莉央の、まるで魂の奥底からの叫びのような力強い言葉と、その澄んだ瞳に宿る、どんな困難にも決して屈することのない不屈の光は、深い絶望の淵に沈んでいた光の心に、小さな、しかし確かな、そして何よりも温かい希望の灯を、再び、そして力強く灯した。光は、莉央の差し伸べられた手を、まるで溺れる者が掴む最後の藁のように固く握りしめ、涙に濡れた顔を上げると、かすかに、しかし確かに、そして何度も頷いた。そして、その日から、彼女は再び、黒田家の奥方としての、そして一人の母としての気概と威厳を取り戻し、動揺し続ける城内の女たちをまとめ上げ、莉央と共にこの未曾有の国難に、敢然と立ち向かうことを決意するのだった。
しかし、黒田家中の柱石たるべき家臣団の動揺は、依然として深刻だった。城内の評定所では、連日連夜、まるで終わりの見えない戦のように、激しい議論が繰り返されていた。一部の、織田家の強大な力を過剰に恐れる家臣たちは、もはや官兵衛の帰還を諦め、織田信長に潔く臣従の意を示し、黒田家の家名だけでも存続させてもらえるよう、土下座してでも懇願すべきだと主張した。また別の一派、特に血気にはやる若い武士たちの中には、これを黒田家自立の好機と捉え、長年の宿敵であった西国の雄、毛利輝元に与し、織田家に対して敢然と反旗を翻すべきだと、無謀とも思える過激な意見を、臆面もなく声高に叫ぶ者も現れ始めた。黒田家は、外敵の脅威だけでなく、まさに内部分裂という、より深刻な危機に瀕していた。
莉央は、井上九郎右衛門ら、官兵衛の無事の帰還を固く信じ、冷静に、そして現実的に事態の収拾を図ろうとする穏健派の家臣たちと共に、各派閥の頑なな重臣たちの説得に、昼夜を問わず奔走した。彼女は、持ち前の、未来の知識に裏打ちされた論理的な思考と、疫病対策の際に領民たちを納得させた、具体的なデータ分析に基づく説得の能力を駆使し、それぞれの選択肢がもたらすであろう短期的な利益と長期的な欠点、そして最悪の場合に黒田家が辿るであろう破滅的な結末を、冷静に、しかし一切の妥協なく、分かりやすく家臣たちに提示していった。
その際、莉央は工房で密かに開発を進めていた「情報集約・分析盤」(羊皮紙に記された情報を、項目ごとに分類し、関連性の強さで線で結びつけることで、複雑な状況を視覚的に把握しやすくする、原始的なマインドマップのようなもの)を評定の場に持ち込み、家臣たちの目の前で、織田方、毛利方、そして黒田家の現状の兵力、兵糧、同盟関係、地理的条件などを書き込み、それぞれの選択肢を選んだ場合のリスクとリターンを、可能な限り客観的に示してみせた。「私の朧げな記憶によれば、このような危機的状況では、感情論ではなく、冷静な情報分析こそが活路を開くとされています。まずは、それぞれの選択肢を客観的に評価し、最善の道を探りましょう」と彼女は前置きした。
「織田様にただひたすらに詫びを入れたとて、一度失った信頼を、そうやすやすと取り戻せるものではございませぬ。この分析盤が示す通り、黒田家が差し出せるものは限られており、信長公の怒りを鎮めるには不十分です。下手をすれば、黒田家は問答無用で取り潰され、この播磨の領地は召し上げられ、皆々様は一族郎党、路頭に迷うことになりましょう。また、毛利様に与すると申しましても、それは織田様という、今や日の本で最も強大な敵を、正面から敵に回すということでございます。この播磨一国、いや、黒田家のわずかな兵力で、果たして勝ち目はございますでしょうか…?それは、あまりにも無謀な賭けではございませぬか?私たちが今目指すべきは、殿のご救出であり、そのための時間を稼ぐこと、そして黒田家の力を温存することです。そして、そのためには、まず我々が一つにまとまらねばなりませぬ」
莉央の言葉は、感情論や、その場の勢いに流されがちだった家臣たちの、興奮した頭を冷やさせ、厳しい現実を、そしてその先に待つであろう未来を、冷静に直視させる力を持っていた。特に、母里太兵衛は、先の戦で莉央の知識の確かさを身をもって知っていたため、彼女の分析に真剣に耳を傾け、無謀な毛利への与論を抑える側に回った。「皆の者、莉央殿の言葉を聞け!この女の知恵は、我らが思う以上に確かじゃ!感情に任せて事を誤ってはならぬ!今は耐え忍び、殿をお救いする策を練るのが先決じゃ!そして、そのためには、我らが割れてどうする!」太兵衛の力強い声が、評定所に響いた。
そして何よりも、彼女が、その澄んだ瞳で、確信に満ちた声で語る「官兵衛様ご救出への、具体的な道筋と、その成功の可能性」――それは、今は亡き竹中半兵衛という稀代の軍師が、生前官兵衛に遺したとされる、有岡城に関するいくつかの重要な示唆(莉央が官兵衛との会話の中で偶然耳にしていたもの)と、莉央自身の持つ未知の、しかし確かな知識に基づいた、大胆かつ緻密な、そして何よりも希望に満ちた作戦の断片だった――が、徐々にではあるが、深い絶望の闇に沈んでいた家臣たちの心に、再び立ち上がり、そして戦うための、小さくも力強い勇気と、未来への確かな希望を、静かに、しかし確実に呼び覚ましていった。
評定所に、黒田家の全ての家臣たちが、覚悟を決めた表情で居並んでいた。その中央に、莉央は、奥方である光と共に、凛として並び立った。そして、静かに、しかしその声は広間の隅々まで響き渡るほどに明瞭に、語りかけた。
「皆々様、今こそ、この黒田家の、播磨武士の、真の力が試される時でございます。我が殿、黒田官兵衛様は、決して我ら黒田家の者を見捨てるような、そのようなお方ではございませぬ。我らが今ここで心を一つにし、殿をお救いするための最善の策を講じ、そしてそれを、この身命を賭してでも実行に移すならば、必ずや、必ずや道は開けましょう。殿は、この黒田家を、そしてこの播磨の民を、誰よりも、何よりも深く愛しておられます。その殿の、海よりも深きお心を信じ、我らもまた、殿への揺るぎなき忠誠を、そしてこの黒田家への誇りを、今こそ、この胸に熱く示すべき時ではございませぬか!私の知識と技術、そして皆々様のお力があれば、必ずや!そして、私が殿から託されたこの金属片も、きっと我らを導いてくれるはずです!」莉央は、懐の金属片を固く握りしめた。
莉央の言葉は、まるで清冽な湧水のように、乾ききっていた家臣たちの心に染み渡り、彼らの胸の奥底に、忘れかけていた、あるいは諦めかけていた、主君・黒田官兵衛への熱き忠義の炎を、再び、そして激しく燃え上がらせた。それは、異邦の、そしてまだ年若い女の言葉でありながら、不思議なほどの説得力と、人々を惹きつけ、そして奮い立たせる、カリスマ性とでも言うべき、不可思議な力を秘めていた。
莉央の魂からの、血を吐くような訴えと、そして何よりも、これまで気丈に振る舞い続けてきた奥方である光が、その美しい顔を涙で濡らしながらも、毅然とした態度で「どうか、夫を、そしてこの黒田家を、お救いくださいまし…!この光も、力の限りを尽くします!莉央殿と共に!」と、床に額を擦り付けるようにして深々と頭を下げる姿を目の当たりにし、家臣たちの心はついに、そして完全に一つになった。
「我ら、黒田家は、殿と共に生き、殿と共に死す!もはや、異論はござるまいな!莉央殿の知恵に、我らの武勇を合わせ、必ずや殿をお救いいたすぞ!黒田武士の底力、見せてくれるわ!」
母里太兵衛の、戦場に轟く、熊の咆哮にも似た力強い声が、評定所に、そして妻鹿城全体に響き渡った。それに呼応するように、家臣たちは次々と力強く立ち上がり、「おおーっ!」という、地鳴りのような雄叫びと共に、錆びつかせていたはずの拳を、固く、そして天高く突き上げた。
「官兵衛様を救い出し、黒田家を必ずや再興する」
その共通の、そしてあまりにも困難で、そしてあまりにも危険な目標の下、妻鹿城の家臣たちは、深い絶望の淵から力強く這い上がり、再び鉄の如き固い結束を取り戻した。その揺れる炎のような結束の中心には、常に冷静に、そして力強く彼らを導き続ける、結城莉央という、異邦から来た若き工師の、凛とした姿があった。彼女の持つ「不屈の精神」と、具体的な「未来への道筋」が、今、黒田家全体の、そして播磨の国の、未来を照らす希望の灯となりつつあった。莉央は、この状況下で自分が果たせる役割の大きさを痛感し、帰還への思いを一時的に封印し、官兵衛救出に全霊を傾けることを改めて誓った。




