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第21話:凶報

第21話:凶報

黒田官兵衛が、荒木村重説得という、まるで虎の穴に足を踏み入れるような重責を担い、妻鹿の城を発ってから五日が過ぎようとしていた。城内には、日増しに濃くなる言いようのない不安と、息をするのも憚られるような重苦しい緊張感が、まるで鉛色の分厚い雲のように垂れ込めていた。評定所に昼夜を問わず詰める家臣たちは、一様に憔悴した表情を浮かべ、京や摂津方面からのいかなる報せにも神経を尖らせ、固唾を飲んで吉報を、いや、せめて官兵衛の無事を伝える報せだけでもと待ちわびていた。

莉央もまた、技術工房での作業に没頭することで、胸の内に渦巻く不吉な予感を紛らせようと努めていた。彼女の脳裏には、官兵衛が出立する朝、工房の隅で偶然目にした、彼が大切そうに懐にしまう古い守り袋の光景が、なぜか鮮明に焼き付いていた。そして、あの「帰還の金属片」が、官兵衛の出発直後に、一瞬だけ、微かな熱を帯びて胸騒ぎのような振動を発したことも、莉央の不安を増幅させていた。(あの振動は…何かの警告だったのだろうか…?それとも、単なる偶然…?殿の身に何か良くないことが起こるという知らせでなければいいのだけれど…この金属片の反応は、いつも何か大きな出来事の前触れのようだ。良いことであれ、悪いことであれ…そして、この数日、妙に静かなのが逆に不気味だ…まるで、嵐の前の静けさのように…)

その日も、莉央は工房で、職人たちと共に新しい水車の羽根の角度について、源爺と議論を交わしていた。水流を効率的に受け止め、より大きな動力を得るためには、羽根の形状だけでなく、その取り付け角度が極めて重要になる。莉央は、現代の流体力学の断片的な記憶を元に図面を引いたが、源爺は長年の経験から「それでは水の抵抗が大きすぎるのではないか。もっと水の流れを巧みに捉え、逃がす工夫が必要じゃ」と異を唱えていた。

「莉央殿、図面では確かに力強く水を受けるやもしれぬが、これでは水車全体の回転が重くなり、かえって効率が落ちるのではないかと、わしは思う。水の流れを『受ける』のではなく、『受け流す』ような、しなやかさも必要じゃ。まるで、柳が風を受け流すようにな。そうすれば、少ない水量でも効率よく回るはずじゃ」

「受け流す…ですか。確かに、水の力を全て受け止めようとすれば、それだけ抵抗も大きくなりますね。もう少し羽根のカーブを緩やかにし、水がスムーズに抜けるような形状を試してみましょうか。源爺様のおっしゃる『柳のようなしなやかさ』、何かヒントになりそうです。私の記憶にある流体力学の基礎とも合致します」

莉央は、源爺の指摘に素直に耳を傾け、粘土で羽根の模型を作りながら、二人で最適な角度を探っていた。その時だった。

城門の方が、にわかに騒がしくなった。馬の、苦しげな高い嘶き。複数の男たちの、怒声とも悲鳴ともつかぬ、切羽詰まった叫び声。そして、何かただならぬ事態の発生を告げるかのように、城中に響き渡る、けたたましい早鐘の音が、まるで莉央の心臓を直接叩くかのように、不吉なリズムを刻み始めた。

工房にいた職人たちが、一斉に作業の手を止め、顔を見合わせる。その誰もが、不安と恐怖に引きつった表情を浮かべていた。

莉央の胸が、嫌な予感で、まるで鷲掴みにされたかのように激しく波打った。全身の血が、急速に冷えていくのを感じる。

「…行ってまいります!」

彼女は、手にしていた粘土の羽根を、まるで投げ捨てるかのように作業台に置くと、工房を飛び出し、本丸へと続く、苔むした石畳を、裾の汚れも構わずに駆け出した。

本丸の、普段は静謐な空気に包まれているはずの広間には、既に井上九郎右衛門をはじめとする主だった家臣たちが、血相を変えて集まり、これまで経験したことのないような、恐ろしいほどの騒然とした空気に包まれていた。その中心には、泥と汗にまみれ、まるで長距離を飲まず食わずで走り続けてきたかのように息も絶え絶えといった様子の、京から戻ったばかりと思しき一人の、まだ若い使者が、床に両膝をつき、肩で大きく息をしながら喘いでいる。その顔は土気色で、瞳は恐怖に見開かれていた。

「も、申し上げます!…ぜえ、ぜえ…も、申し上げます!摂津守護、荒木村重、ついに、ついに織田様に対し、叛旗を翻し、居城たる有岡城に籠もり、徹底抗戦の構えとの…由にございまする!」

使者の、途切れ途切れの、しかし内容はあまりにも衝撃的な報告は、広間の空気を一瞬にして、まるで冬の氷のように凍りつかせた。家臣たちの顔から血の気が引き、誰もが言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くす。主君である小寺政職は、その凶報を聞くなり、顔面蒼白となってその場にへたり込みそうになるのを、側に控えていた小姓に辛うじて支えられている。その手は、小刻みに震えていた。

黒田家中に、そして播磨の国全体に、破滅の足音を伴う激震が走った。

「して、官兵衛様は…!我が殿、黒田官兵衛様のご様子は、一体いかがであったか!お答え致せ!」

井上九郎右衛門が、普段の冷静沈着な彼からは想像もつかないほどに震える声を必死に抑えながら、床に這いつくばる使者に鋭く問いかける。使者は、力なく、そして絶望の色を濃く浮かべた瞳で、かぶりを振った。

「それが…黒田様は、荒木村重を説得すべく、単身有岡城に入られたとのことでございましたが…その後、そのご消息が…完全に、途絶えておりまする…!城内では、黒田様もまた荒木村重にくみし、共に織田様へ弓を引いたのではないかとの、よからぬ噂も…また、村重に捕らえられ、土牢に幽閉されたとの話も…いずれにせよ、ご無事では…ないとの見方が大勢でございます…」

その言葉は、とどめの一撃だった。官兵衛が裏切った、あるいは囚われた…?情報が錯綜し、家臣たちの間には、深い絶望と、そして互いを疑う疑心暗鬼の暗い影が、まるで黒い疫病のように、急速に、そして確実に広がり始める。

「馬鹿な!殿が、織田様を裏切るなど、天地がひっくり返ってもありえぬわ!ましてや、村重に捕らわれるなどと…殿の知略をもってすれば…!何か、何か間違いであろう!」

母里太兵衛の、熊の咆哮にも似た怒声が広間に響き渡るが、その声にも、どこか確信の持てない、不安な揺らぎが感じられた。他の家臣たちも、ただ青ざめた顔で俯くばかりで、誰一人として声を発しようとはしない。

莉央は、その場で崩れ落ちそうになるのを、奥歯を強く噛みしめることで、必死に堪えた。全身の血が、まるで氷水に変わってしまったかのように逆流し、指先が感覚を失うほどに冷たくなるのを感じる。

(やはり…あの金属片の反応は…!殿は…官兵衛様は、囚われてしまわれた…あの暗く、冷たい土牢の中に…! あの金属片が、有岡城の方角を指して微かに振動したのは、殿の危機を、その絶望的な状況を私に伝えようとしていたのかもしれない…!私の知識は、この事態を予測していたというのに…なぜ、もっと強く殿を引き止められなかったのか…!あの時、私の言葉にもっと重みがあれば…もっと具体的な危険性を示せていれば…)

官兵衛が出立する朝、工房の隅で莉央が密かに検証していた「帰還の金属片」が、まるで何かに引き寄せられるように、有岡城の方角を指して微かに振動し、不吉な熱を帯びたことを、彼女は鮮明に思い出していた。あの時、莉央はその反応の真意を掴みきれず、殿への進言も十分に聞き入れられなかった。今となっては、それが官兵衛の危機を告げる、紛れもない予兆だったのだと確信し、なぜもっと強く引き止められなかったのかと、激しい後悔と自責の念が莉央の胸を容赦なく抉る。

周囲の混乱と絶望をよそに、莉央の心の中では、熱い、そしてどこか恐ろしいほどに冷静な、決意の炎が、まるで鍛冶場の炉の火のように、激しく燃え上がっていた。彼女は、震える唇を強く噛みしめ、誰もがうろたえ、あるいは諦めかけているこの絶望的な状況の中で、ただ一人、黒田官兵衛を救出するための、具体的な行動を開始することを、固く、そして烈火のように心に誓うのだった。その大きな瞳には、もはや涙はなく、ただ、暗闇を切り裂き、夜明けを呼び込む一条の光のような、強く、そして揺るぎない意志だけが、燃えるように宿っていた。

「待っているだけでは、何も変わらない…!私が、私が何とかしなければ…!このままでは、殿も、黒田家も、全てが終わってしまう…!帰るためにも、まずはこの危機を乗り越えなければ…!私の知識と技術、そしてこの金属片が、何か道を示してくれるかもしれない…!今こそ、私の全てを懸ける時だ!」

その声は、誰にも聞こえないほど小さかったが、その決意は、何よりも固く、そして熱かった。最初の火花は、確かに散ったのだ。

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