第20話:迫る暗雲、有岡の予兆
第20話:迫る暗雲、有岡の予兆
妻鹿城に実りの秋が訪れ、領民たちの顔にもようやく笑顔が戻り始めた頃、京の都や安土城から黒田官兵衛がもたらす報せは、日増しにその緊迫の度を深めていた。織田信長の天下統一事業は破竹の勢いで進展する一方で、その強引な手法は各地の諸大名や旧守護勢力との間に深い溝を生み、いつ噴出するとも知れぬ不満を蓄積させていた。
特に、信長の信任厚い重臣の一人でありながら、摂津国に広大な領地と強大な兵力を有する荒木村重の周辺には、にわかに黒く不吉な暗雲が立ち込め始めていた。村重が、信長に対し密かに謀反を企てているのではないか――そんな、囁く声すら憚られるような危険な噂が、まことしやかに、そして日増しにその輪郭を明確にして、遠く離れた妻鹿の城にまで、風に乗って届くようになっていたのだ。
その不穏な空気は、莉央の心にも重くのしかかった。彼女は、官兵衛から聞かされる中央の緊迫した情勢や、荒木村重という人物に関する断片的な情報――信長からの過酷な要求、毛利輝元との密通の憶測など――を、自身の持つ未来の歴史の知識(それは、断片的ながらも、この時代の大きな出来事についてはなぜか鮮明に記憶していた)と照らし合わせていた。そして、そのピースが一つ、また一つと不気味なほどに正確に埋まっていくにつれ、莉央の胸には、漠然とした、しかし日に日に輪郭を明確にする、拭いきれない不吉な予感が広がっていった。
(まさか…でも、この流れは、あまりにも…私が知っている、あの悲劇的な歴史の通りに進んでいる…だとしたら、殿は…官兵衛様は、一体どうなってしまうの…!私の知識が、またしても不吉な未来を示している…。もし、私が何もしなければ、殿は…!でも、私に何ができる?歴史を変えるなんて、そんな大それたこと…この時代に来てから、私の行動は本当に正しいのだろうか…)
やがて、官兵衛の元には、織田方から、荒木村重の真意を探り、もし謀反の兆候があればそれを未然に防ぐよう、内々の打診があったという話も伝わってきた。村重は、官兵衛にとって若い頃からの旧知の間柄であり、互いにその人となりも能力もよく知る仲。それだけに、官兵衛の胸中は、織田信長への忠誠と、荒木村重との旧交、そして武士としての信義の間で、複雑に揺れ動いていた。彼は連日、妻鹿城の奥深くにある執務室に籠もり、誰とも会おうとせず、ただ一人、播磨の、そして日本の未来を左右するかもしれない重大な決断を下すための、出口の見えない苦しい思索を続けていた。
その官兵衛の苦悩を間近で見ていた光は、夫の身を深く案じ、いてもたってもいられず莉央の部屋を訪れた。その顔は心労で青白く、いつもは穏やかな瞳には深い不安の色が浮かんでいる。
「莉央殿…殿は、近頃、食も細く、夜もろくにお休みになられておらぬご様子。このままでは、お身体を壊されてしまうのではないかと…何か、私にできることはないものか…莉央殿のお知恵で、殿のお心を少しでも軽くすることはできませぬでしょうか。殿は、莉央殿の言葉には、よく耳を傾けてくださいますから」
光は、莉央の手を固く握りしめ、震える声で訴えた。莉央は、その小さな手を優しく、そして力強く握り返した。光の不安は、莉央自身の不安でもあった。
「光様、ご心痛お察しいたします。ですが、殿は必ずや正しい道をお選びになり、そしてこの難局を乗り越えられると、私は信じております。私にできることは、殿のお心が少しでも安らぐよう、そして最善の判断を下せるよう、陰ながらお支えすることだけでございます。ただ…私の朧げな記憶では、このような状況では、最も信頼する者の言葉が、時に大きな力となると…光様のお言葉こそが、今の殿には必要なのではございませぬか」
そう言って光を励ましながらも、莉央の胸には、官兵衛が下すであろう決断と、それがもたらすであろう未来への、言いようのない重圧がのしかかっていた。
莉央は、工房で開発を進めていた「情報集約・分析盤」(羊皮紙に記された情報を関連付け、潜在的なリスクを可視化する試み。莉央が現代のデータ分析手法を参考に、この時代で可能な形で考案したもの)を用いて、荒木村重の謀反の可能性と、それが黒田家にもたらすであろう最悪の事態を、具体的なシナリオとして改めて整理し、官兵衛にそれとなく伝える機会を窺っていた。彼女の分析では、もし村重が蜂起した場合、官兵衛が説得に向かえば、逆に囚われの身となる危険性が極めて高いと結論づけられていた。
官兵衛が、ついに荒木村重説得のため有岡城へ旅立つと決めた。莉央は、出発の直前、官兵衛に面会を求め、必死の形相で訴えた。「殿、私の集めた情報と、これまでの知見から判断するに、今、村重の元へ赴かれるのはあまりにも危険かと存じます。村重は追い詰められており、殿を人質に取る可能性も否定できません。どうか、今一度ご再考を…!もし、どうしても行かれるのであれば、せめてこの、私が工房で試作した発煙筒と、万一のための傷薬をお持ちください!これは、私の故郷の護身の知恵です!そして、この金属片も、もしよろしければ…何かの道しるべになるやもしれませぬ」莉央は、懐の金属片を差し出そうとしたが、官兵衛はそれを静かに押しとどめた。
官兵衛は莉央の真剣な眼差しと、その言葉の裏にある確かな分析力に一瞬顔を強張らせたが、やがて静かに頷き、「そなたの忠告、心に刻む。じゃが、行かねばならぬ。信長公への忠義、そして村重との旧交、武士としての道がある。村重が、そこまで愚かな男ではないと信じたい。その金属片は、お主が持っているが良い。それが、お主の帰る道を示すものかもしれぬからのう」とだけ答え、莉央の差し出した小さな竹筒と薬包みを懐にしまい、静かに出立していった。その朝は、奇妙なほどに穏やかな晴天だった。しかし、莉央の胸には、鉛のような暗雲が垂れ込めていた。城壁の上から、遠ざかっていく官兵衛の一行を見送る莉央。
その時、懐に忍ばせていた、あの「帰還の金属片」が、まるで何かに強く呼応するかのように、再び微かな、しかし確かな熱と、胸騒ぎを覚えるような不気味な振動を発し始めたのだ。その振動は、以前、古い社で光を放った時のものとは異なり、もっと切迫した、負の感情に共鳴するような感覚だった。(この金属片の反応は…以前、城下に疫病が蔓延した時の不穏な振動に似ている…あの時は、近くに何か強い負のエネルギーがあったのだろうか? 今回は、殿の身に迫る危機に反応している…? まるで、強い負の感情や、生命の危機のようなものに共振しているかのようだ。 これは、単なる偶然ではない。無視できない危険信号だ…!殿がお持ちにならなかったのは、あるいは…)
莉央は、防災科学研究所での経験から、異常な振動や発熱といった現象が、より大きなカタストロフの前兆となり得ることを知っていた。この金属片の反応は、彼女の科学的知識では説明がつかないものの、無視できない危険信号であると感じられた。
そして、彼女の脳裏には、これまでの情報と歴史の知識から導き出される、最悪のシナリオが、まるで現実の映像のように鮮明に浮かび上がった。荒木村重が謀反を起こし、説得に赴いた官兵衛が捕らえられ、暗く狭い土牢に幽閉される――それは、彼女の論理的な思考が、冷徹に、しかし確実に描き出した、最も可能性の高い未来図だった。
(駄目だ…このままでは、殿は…!私の分析では、この状況で有岡へ向かうのはあまりにも危険すぎる…!帰ることばかり考えていたけれど、今はそんな場合じゃない。殿をお救いしなければ、何も始まらない!私の知識が、この悲劇を止められるかもしれないのに!なぜ、もっと強く引き止められなかったのか…!そして、あの金属片…殿が持っていれば、何か変わったのだろうか…)
莉央は、全身に冷たい鳥肌が立つのを感じながら、そのあまりにもリアルな、そして絶望的な未来予測を、頭を強く振って必死に振り払おうとした。しかし、金属片の放つ微かな共鳴は、まるでこれから起こるであろう悲劇を、そして官兵衛の過酷な運命を裏付けるかのように、しばらくの間、莉央の冷たい手の中で、不気味なほどに止むことはなかった。それは、莉央に、官兵衛の身に刻一刻と迫りつつある具体的な危機と、そしてその時、自らが果たさねばならないであろう、あまりにも重い役割を、改めて、そして容赦なく痛感させるには十分すぎる出来事だった。
黒田官兵衛は、莉央からの、そして光からの、言葉には出されずともひしひしと伝わってくる切なる警告と、深い不安を胸の奥深くに刻み込みつつも、主君である織田信長への揺るぎない忠誠と、荒木村重との間にわずかに残る旧交、そして何よりも武士としての己の信義と矜持の間で、苦悩の板挟みとなりながら、運命の地、有岡城へと、その重い、そしてどこか悲壮感さえ漂う歩みを進めていく。その先には、彼の人生を根底から揺るがし、黒田家の運命をも左右することになる、長く、そしてあまりにも過酷な、光の届かぬ試練が、まるで暗い口を開けた巨大な獣のように、静かに、しかし確実に待ち受けていた。
莉央もまた、官兵衛の無事をただひたすらに祈りながら、妻鹿城で固唾を飲んでその報を待つことになる。彼女は、もし官兵衛の身に、自らの分析と予測が現実のものとなるような何かが起これば、自らの持つ全ての知識と技術を、そしてこの異邦の地で手に入れたささやかな絆さえも、全てを賭してでも、必ずや彼を救い出すと、改めて固く、そして烈火のように心に誓うのだった。城壁の上から見下ろす播磨の空は、官兵衛が出立した日と同じように穏やかに晴れ渡っていたが、莉央の胸には、鉛色の暗雲が、刻一刻と重く垂れ込めてくるのを感じずにはいられなかった。




