第2話:山中のサバイバル
第2話:山中のサバイバル
陽が完全に落ちると、森は音と光を喰らう漆黒の獣へと姿を変えた。獣の遠吠えが闇の奥から響き渡り、梟の不気味な羽音が頭上をかすめる。風が木々の葉を揺らし、乾いた枝の折れる音が、静寂を鋭く切り裂いては莉央の不安を煽った。
(怖い…本当に、何も見えない…これほどの暗闇は、アマゾンの奥地でのフィールドワーク以来だわ…あの時は、こうして一人で夜を明かしたことがあった…でも、あの時は無線機があったし、数日後には救助隊が来る予定だった。今は、本当に一人きり…記憶も、まだ完全じゃないのに…)現代の都市生活では決して感じることのない、本物の暗闇と、生命の気配だけが満ちる静寂。それが巨大な圧となって、莉央の細い肩にのしかかる。
震える手でサバイバルキットから小型LEDライトを取り出し、スイッチを入れる。心細い円形の光が、足元の落ち葉と、せいぜい数メートル先の木の幹をぼんやりと照らし出すだけだ。それでも、この僅かな光が、闇への恐怖をわずかに和らげてくれる。
ライトを頼りに、風を少しでも避けられそうな、切り立った岩壁の窪みを見つけた。ここなら、背後を気にせずに済むだろう。
(火を…火を起こさないと…獣も避けられるし、何より…温かい…大学時代のサバイバル訓練で教官が口癖のように言っていた。『火は生命線だ』と…)濡れた落ち葉や湿った小枝を避け、比較的乾いていそうな枯れ葉と細い枝を懸命に集める。マグネシウムの着火具を取り出し、ナイフの背で強く擦ると、頼りない火花が数度散った。湿気が多いのか、なかなか火口となる枯れ葉に火が移らない。焦りと寒さで指先がかじかみ、何度も失敗する。(落ち着け、莉央。焦りは禁物だ。火花を一点に集中させる…基本を思い出せ)それでも莉央は諦めなかった。「お願い、ついて…!」祈るような気持ちで火花を散らし続けると、やがて小さな赤い点が生まれ、か細い煙と共にゆっくりと燃え広がった。
揺らめく炎が、岩壁と莉央の顔をオレンジ色に照らし出す。パチパチと爆ぜる音、そしてじんわりと伝わる温かさが、凍えそうな心と体を少しずつ溶かしていく。炎は、この見知らぬ世界で、莉央にとって初めての慰めとなった。
焚火の傍らで、多機能ナイフを強く握りしめ、莉央はほとんど眠ることなく夜を明かした。時折、遠くでガサリと草むらが揺れる音や、正体不明の獣の低い唸り声が聞こえるたびに、心臓が凍り付くような緊張が走った。
夜が明け、朝靄が乳白色のベールのように森を包み込む頃、鳥たちのけたたましいさえずりが、莉央を浅い眠りから覚ました。体は鉛のように重く、睡眠不足と空腹で思考が鈍っている。しかし、「生き延びる」という原始的な本能にも似た強い意志が、彼女を突き動かした。
昨日、僅かに見つけた沢らしき細い水の流れを辿っていくと、岩間から清冽な清水がこんこんと湧き出ている場所を発見した。両手ですくって口に含んだ水は、氷のように冷たく、しかし驚くほど清らかで、乾ききった喉を潤していく。サバイバルキットに入っていた空のペットボトルに、その貴重な水を満たす。
次なる課題は食料だ。周囲の植物を注意深く観察する。現代の知識で食用と判断できるヨモギの若葉を見つけ、僅かに口にする。 地面に落ちていたクルミも数個見つけることができたが、殻が固く、今の道具では割るのは難しそうだ。ドングリはアク抜きが必要なことを思い出し、手間と時間を考えて一旦集めるだけにする。見慣れない鮮やかな色のキノコや、艶のある赤い実には、毒がある可能性を考えて決して手を出さなかった。
多機能ナイフと、丈夫そうな木の蔓を使い、小動物が通りそうな獣道に、簡単な輪罠を数カ所に仕掛けた。サバイバル訓練で何度も実践した、基本的な罠だ。しかし、知識だけでは上手くいかず、仕掛けた罠は獲物を捉えることはなかった。
それから丸一日が経過した。カロリーバーは、もう最後のひとかけらだ。 莉央の体力は明らかに限界に近づき、頬はこけ、その顔には疲労と微かな絶望の色が濃く浮かんでいた。
(もう…ダメかもしれない…こんな場所で、一人で…誰にも知られずに…父さん、母さん…ごめんなさい…彼らの顔も、今は霞んでよく思い出せない…)ふと、弱音が心を侵食しようとする。現代に残してきたであろう家族や友人、そして、あと一歩で完成するはずだった研究プロジェクトのことが脳裏をよぎり、熱いものが込み上げてきて、視界が滲んだ。
その時、不意に、これまでの研究者人生で幾度となく直面した困難な状況や、それを乗り越えてきた経験、そして「どんな状況でも諦めない」という、叩き込まれた研究者魂が、彼女を奮い立たせた。(そうだ…あの雪山でも、熱帯雨林でも、私は最後まで希望を捨てなかった…ここで立ち止まるわけにはいかない!帰るんだ、必ず!)
「私には、まだやれることがあるはずだ!」弱音を振り払うように、莉央は泥で汚れた顔を上げた。一度は消えかけたその瞳に、再び強い意志の光が灯る。
最後のカロリーバーをゆっくりと口にし、再びコンパスを頼りに、これまでとは違う方角へ、より広範囲の探索を開始した。一歩踏み出すごとに、足が悲鳴を上げる。それでも、彼女は歯を食いしばり、微かな希望を求めて歩き続けた。
どれほど歩いただろうか。川の流れが少しずつ太くなり、鬱蒼としていた木々が途切れ、視界がわずかに開けた場所に出た。その時、風向きが変わり、微かに、しかし確実に、煙の匂いが莉央の鼻孔をくすぐった。顔を上げると、遠くの木々の間から、細く白い煙が立ち上っているのが見えた。
(煙…!人がいる…!)絶望の淵で見た、あまりにも鮮やかな希望の光。莉央の心臓が大きく高鳴った。しかし、それと同時に、相手が何者かわからないという新たな警戒心が頭をもたげる。(油断するな…文明から隔絶された場所では、人が必ずしも友好的とは限らない…慎重に、状況を見極めなければ…自分の状況をどう説明すればいいのだろう。記憶が曖昧なことを、どう伝えれば…未来から来たなんて、到底信じてもらえないだろう。今は、言葉を慎重に選ぶしかない…)
莉央は、煙の立ち上る方向へ向かって、慎重に、しかし先ほどよりも確かな足取りで歩き出す。その顔には、極度の疲労と泥汚れの中にも、決して消えることのない生命力と、未来への揺るぎない意志が浮かんでいた。