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第17話:二人の軍師

第17話:二人の軍師

母里太兵衛が、命懸けで莉央の密書を懐に京の都へと向かってから十日余りが過ぎた。妻鹿城に残った莉央は、工房での道具開発や領内改善の指揮を執りつつも、心のどこかで常に官兵衛の身と、自らが託した地図と報告書の行方を案じていた。あれほどの詳細な情報と、未来を示唆するような献策は、果たして官兵衛に、そして歴史の奔流の中にいる彼らに、どのように受け止められるのだろうか。期待と不安が、莉央の胸の中で絶えず交錯していた。

その日、莉央が工房で新型の水車の最終調整に没頭していると、城門の方がにわかに騒がしくなった。やがて、井上九郎右衛門が、普段の冷静沈着な彼からは想像もつかないほど血相を変えて工房に駆け込んできた。

「莉央殿!申し上げます!殿が…官兵衛様が、ご帰還なされました!そして…羽柴様からの急なご下命により、直ちに京へ再度お発ちになるとのこと!詳細はまだ分かりませぬが、何やら中央で大きな動きがあったやも…!太兵衛殿もご無事に戻られ、莉央殿の書状は確かにお渡しできたと!」

その言葉に、莉央だけでなく、工房にいた職人たちも作業の手を止め、息を呑んだ。官兵衛の突然の帰還と、そして間髪を入れない再出発。それは、中央の政情が、莉央の予想をはるかに超える速度で、そして緊迫の度を増して動き出していることを如実に物語っていた。

慌ただしく旅支度を整える官兵衛の元へ、莉央は井上に伴われて向かった。官兵衛の執務室は、出立の準備でごった返しており、家臣たちが慌ただしく武具や書状を運び込んでいる。その喧騒の中で、官兵衛は莉央の姿を認めると、人払いをして二人きりになる時間を作った。

その表情は、数ヶ月前よりもさらに精悍さを増し、その瞳には、修羅場を潜り抜けてきた者特有の、鋭い光が宿っていた。しかし同時に、深い疲労の色も隠せない。

「莉央殿、急なことであったが、よくぞ参られた」

官兵衛の声は低く、どこか嗄れていた。

「太兵衛が届けしくれた地図と報告書、しかと拝見いたした。…お主の知恵、まさに神懸かりと言うべきものじゃ。あの地図一枚あれば、百の兵に勝る。そして、お主が示唆した、織田家の行く末に関するいくつかの可能性…それが、今、現実の議論の俎上に上がりつつある。羽柴様も、お主の分析には舌を巻いておられた。特に、毛利との戦における兵站の重要性については、まさに我が意を得たり、と」

官兵衛の言葉は、莉央の想像を絶するものだった。彼女の報告書は、単なる参考意見ではなく、官兵衛の、そして羽柴秀吉の戦略に、直接的な影響を与え始めていたのだ。

官兵衛は語った。莉央の作成した詳細な播磨国の地図は、羽柴秀吉に献上され、そのあまりの精密さと戦略的価値の高さに、秀吉は驚嘆の声を上げ、「これほどの地図を描ける者が、官兵衛の内にいたとは!この地図は、まさに宝じゃ!褒美を取らさねばなるまい!」と唸ったという。そして、莉央が報告書の中で示した、毛利勢の弱点や、中国地方における織田方の取るべき具体的な戦術は、秀吉自身の構想と奇妙なまでに合致しており、彼の官兵衛への信頼を、そしてその背後にいるであろう「謎の知恵袋」への興味を、決定的に高めることになったのだと。

「そして莉央殿、これは羽柴様から、お主への『心遣い』じゃと」

官兵衛はそう言うと、傍らに置かれていた、上質な桐で作られた美しい小箱を、どこか複雑な表情で莉央に差し出した。莉央が恐る恐るその蓋を開けると、中には、目も綾な南蛮渡りの深紅のビロードの布地と、象牙に繊細な花の透かし彫りが施された美しい櫛、そして、白檀とはまた違う、甘くエキゾチックな香りを放つ異国の練り香が、丁寧に納められていた。いずれも、この時代の女性にとっては、めったに目にすることすら叶わぬ、まさに垂涎の品々であろう。

「羽柴様は、『官兵衛の知恵袋は、さぞかし才気煥発な女人おみなであろう。その日頃の労をねぎらってやってくれ。その才が、日の本を動かすやもしれぬからのう。いつか会ってみたいものよ』と、そう仰せであったそうだ」

官兵衛は、莉央の功績と類稀なる知恵について秀吉に報告した際、その性別についても触れざるを得なかった。「…その者は、まだ年若い女性でございますが、その知識と行動力は目を見張るものが…」と言いかけたところで、秀吉はにやりと笑い、手を打った。「ほう、女子おなごであるか!それは面白い!才ある女子というものは、得てして花のように美しいものよ。官兵衛、その者の日頃の労をねぎらい、この品々を届けてやってくれ」と。官兵衛は、秀吉のその言葉に一瞬戸惑ったが、主君の機嫌を損ねるわけにもいかず、黙ってその豪華な小箱を受け取るしかなかったのだ。

莉央は、そのあまりにも華やかで高価な贈り物の裏に、人懐こい笑顔の裏に鋭い計算を隠すと言われる羽柴秀吉の、巧妙な何かを感じずにはいられなかった。これは純粋な好意なのか、それとも、自分の能力や素性を探るための布石なのか…あるいは、自分という存在を官兵衛から引き離そうという意図があるのか…。(この贈り物…素直に喜んでいいものなのだろうか…羽柴様は、私に何を期待しておられるのだろう…)

「…もったいのうございます。羽柴様には、よしなに、よしなにお伝えくださいませ。この莉央、ただ殿のお役に立てればと願うばかりにございます。このような品々よりも、工房に必要な鉄や炭を少しでも多く融通していただける方が…」

莉央は、胸に渦巻く複雑な感情を押し隠し、ただ深々と頭を下げた。

官兵衛は続けて、病床にあり、もはや先の長くないと噂される竹中半兵衛を、この帰郷の途中で見舞った際の様子を語った。半兵衛は、莉央の報告書の要点を官兵衛から聞き、その内容の質の高さと、そこに込められた恐るべき先見性、そして官兵衛が莉央という異邦の女性に寄せる絶対的な信頼を瞬時に見抜き、か細く、しかし力を込めた声でこう語ったという。

「官兵衛殿…そなたは、誠に得難き宝を…天からの授かりものとも言うべき才を得たようじゃな…その女人おみなの知恵、決して手放してはなりませぬぞ。そして何よりも…その力を、天下万民のために正しく使う道を、見誤ってはなりませぬぞ…その者の知識は、使い方を誤れば、天下を焦土と化すほどの力にもなりかねぬ…よくよく心せよ…その者の真の願いを、見誤るでないぞ」

それは、稀代の軍師と謳われた男が、病に侵されながらも、官兵衛と、そしてまだ見ぬ莉央へ託した、重い、重い言葉だった。

「半兵衛殿は…もう、お身体が…」

莉央の声は、思わず震えた。歴史上の人物とはいえ、その知略と生き様には、深い敬意を抱いていた。

「うむ…医師の話では、もはや幾ばくも保たぬであろうとのことじゃ。じゃが、半兵衛殿は、最後までお主の存在を気に掛けておられた。『その異邦の工師は、いずれ日の本を揺るがす程の力を持つやもしれぬ。心して用いよ。そして、決して見誤るな。その者の真の願いを見極め、共に歩む道を探れ。さすれば、お主の大きな力となるであろう』と…そう、私に言い含められた」

官兵衛の瞳が、真摯な光をたたえて莉央を見据える。

「莉央殿、お主は、一体何者なのだ?なぜ、これほどの知識と先見の明を持つ?…いや、今はまだ、答えずともよい。だが、いつか、必ず聞かせてもらいたい。お主が、この私と共に歩むと決めた、その真の理由を。そして、半兵衛殿の言葉…『その力を、天下万民のために正しく使う道を、見誤ってはなりませぬぞ』…この言葉の重みを、私も、そしてお主も、心に刻まねばなるまい。」

莉央は、官兵衛の言葉の重みに、息を詰まらせた。彼女の存在は、もはや妻鹿という小さな城の一隅に留まるものではなく、歴史の大きな奔流の中心へと、否応なく引きずり込まれようとしていた。

その時、官兵衛がふと思い出したように口を開いた。

「そういえば莉央殿、お主が以前、てるのために調合したという薬湯…あれと同じものを、京で熱病に苦しむ秀吉様の近習の一人に試させたところ、数日で快方に向かったそうじゃ。羽柴様もいたく感心され、『播磨の黒田家には、神の如き医術を持つ女人がおる』と、上機嫌で触れ回っておられる。もっとも、お主が直接診たわけではないから、あくまで噂の域を出ぬがな。近々、お主の薬を求める使者が、京から参るやもしれぬぞ。その時は、よしなに頼む。これも、お主の知恵を天下に示す良い機会となろう」

莉央は驚いた。光が体調を崩した際に、現代の薬草の知識を元に数種類の薬草を調合して作った、ただの解熱と滋養強壮のための薬湯が、思わぬ形で中央に伝わっていたのだ。その薬の評判は、莉央の名をさらに高める一方で、新たな波紋を呼ぶかもしれないという予感を抱かせた。(私の行動が、思わぬところで影響を及ぼしている…良い方向ならいいけれど…でも、これは私の専門ではない。誤解が広まらなければいいが…)

別れ際、官兵衛は、京での情報収集の過程で手に入れたという、数巻の古びた巻物を莉央に手渡した。それは、播磨や摂津の国に古くから伝わる、奇妙な伝承や神事を記録したものだという。「お主が興味を持つやもしれぬと思ってな。古い社のことなどを調べていると聞いた。暇な折にでも目を通すがよい。何か、お主の記憶の助けになるかもしれん。あるいは、お主が気にしている『龍の穴』の手がかりが…」

その巻物が、莉央の運命をさらに大きく揺り動かすことになるとは、この時の彼女はまだ知る由もなかった。官兵衛は、再び戦塵舞う中央の舞台へと、その新たな歩みを進めていく。莉央の名は、まだ世に広く知られてはいないものの、「黒田官兵衛の傍らにいる、類稀なる才を持つ謎の知恵者」として、中央の有力者たちの間で、徐々に、しかし確実に、その存在感を増していくことになるのだった。

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