第16話:播磨の地図
第16話:播磨の地図
安土城築城に関する技術的課題への見事な回答は、黒田官兵衛の莉央への信頼をさらに揺るぎないものとした。以前にも増して、京の都や安土城に滞在する官兵衛から、莉央のもとへ頻繁に書状が届けられるようになった。そこには、中央の複雑怪奇な政情――織田信長の急速な勢力拡大と、それに伴う旧勢力との軋轢、諸大名たちの間の疑心暗鬼、そして西の毛利輝元との一触即発の緊張関係――が、官兵衛自身の冷静な分析と共に詳細に綴られていた。
「莉央殿の慧眼、今やこの官兵衛にとって欠くことのできぬ導き手となりつつある。播磨がこの激動の中でいかにして生き残るべきか、そして黒田家が果たすべき役割について、忌憚なき意見を聞かせてほしい。お主の言葉には、時折、未来を見通すかのような響きがある。それは、この乱世を生き抜く上で、何よりも得難い光となるやもしれぬ。お主の記憶の断片が、我らの道しるべとなるやもしれぬのだ。先日の安土城の件も、信長公はいたく感心され、お主の知恵をさらに求めておられる」
書状の最後は、決まってそのような言葉で締めくくられていた。官兵衛が、莉央の持つ異質な視点と、未来を見通すかのような洞察力に、大きな期待を寄せているのが文面からも明らかだった。
(殿は、私に、この国の未来を左右するかもしれない判断を委ねようとしておられる…その重圧に応えなければ…私の知識が、本当に正しい道を示すことができるのだろうか…そして、私がもし帰還の道を見つけたら、その時、殿は…黒田家はどうなるのだろう。私の存在は、一時の助けにしかならないのではないか…この信頼を裏切る形になってしまうのではないか…殿は、私に多くを期待してくださっている。でも、私はいつまでここにいられるか分からないのに…記憶が戻れば、帰る手がかりも見つかるかもしれない。その時、私はどうすれば…この金属片が、何かを示してくれれば良いのだけれど…)
莉央は、官兵衛からの信頼の重さをひしひしと感じながら、工房での道具開発や領内改善の指揮を執る傍ら、夜ごと灯火の下で、官兵衛からの書状と、自身が集めた情報を照らし合わせ、来るべき未来への備えに思考を巡らせていた。
そして、彼女がまず取り組んだのは、播磨国とその周辺地域の、これまでにないほど詳細で正確な地図の作成だった。それは、単に地形や街道を描き出すだけでなく、軍事的、経済的、そして地理的な情報を網羅した、まさに「生きた地図」とでも言うべきものだった。莉央は、防災研究所でGIS(地理情報システム)を扱っていた経験から、地図の重要性を誰よりも理解していた。「私の記憶では、正確な地図は、あらゆる戦略の基礎となります。地形の起伏、水源、資源の分布、人口密度…それらを一枚の図に落とし込むことで、見えなかったものが見えてくるはずです」と、彼女は井上九郎右衛門に語っていた。
莉央は、井上九郎右衛門の協力を得て進めていた領内の測量データ(莉央が提案した三角測量の初歩的な手法も取り入れられていた)を基盤に、光や侍女たちを通じて得られる各村々の詳細な情報――村ごとの石高、人口、特産品、水源、街道の状態、そして時には地元の人々しか知らないような隠れた山道や古い砦の遺構など――を、羊皮紙の上に一つ一つ丹念に書き込んでいった。その作業は数週間に及び、莉央は文字通り不眠不休で取り組んだ。彼女の目は充血し、指先は墨で汚れたが、この地図こそが、官兵衛が天下という荒波を乗り越えるための、最も確かな羅針盤となるのだと固く信じていた。
地図作成という膨大な作業の合間を縫って、莉央はもう一つの、誰にも知られてはならない密やかな調査も進めていた。
彼女は、光や、特に口が堅く信頼できる侍女を選び、その寺の周辺地域に古くから住む古老たちや、奇妙な噂話に詳しい行商人などに、それとなく「龍の穴」の場所や、過去にそこで起きたとされる不思議な出来事について尋ねて回らせた。しかし、得られる情報は「あの洞窟には近づかぬ方がよい」「神隠しにあった者がいる」「時折、奇妙な光を見たという者がいる」「古の時代、天から何かが落ちてきた場所だという言い伝えもある」といった、とりとめのない噂話ばかりで、帰還への具体的な手がかりは見つからなかった。
(やはり、そう簡単にはいかないわね…でも、諦めるわけにはいかない…この時代で役割を果たすことと、故郷へ帰ること。どちらも私にとっては譲れない願いなのだから。金属片の反応が、いつかその道を示してくれると信じたい。この金属片は、時折、特定の場所や状況で微かに温かくなる。それが何を意味するのか、まだ分からないけれど…あの社で光った時のように、何か強いエネルギーに反応するのかもしれない。そして、あの龍の穴という場所も、何か関係があるのかもしれない…)
莉央は、革袋の中の金属片をそっと握りしめる。それは、冷たく硬質なはずなのに、時折、彼女の体温に呼応するかのように、微かに温かくなるような気がした。
数週間後、ついに莉央の描く播磨国の詳細地図が完成した。それは、従来のいかなる地図よりも精密で、情報量に富み、そして何よりも、官兵衛の戦略立案に即座に役立つように、軍事的・経済的な視点から最適化されたものだった。
莉央は、その完成した地図と、官兵衛から送られてくる中央の最新情報を丹念に照らし合わせ、現在の播磨が置かれている危機的な状況と、その中で黒田家が生き残り、さらには飛躍するための具体的な戦略を、詳細な報告書としてまとめ上げた。
その内容は、織田信長への早期かつ全面的な臣従の必要性を改めて強調しつつも、西の毛利輝元との関係を決定的に悪化させないための慎重な外交努力の重要性を説き、そして何よりも、黒田家自身の国力を、早急に、そして飛躍的に増強するための具体的な施策(鉄砲の国産化と鉄砲隊の育成、兵糧備蓄の更なる効率化、そして領民の忠誠心を高めるための民政の刷新など)を提言するものだった。「鉄砲については、私の記憶にある構造を元に、より扱いやすく、命中精度の高いものを工房で試作できるかもしれません」と、莉央は報告書に書き添えた。
報告書には、莉央が「複数の可能性を考慮し、最悪の事態にも備えるべき」との考えから、織田家の将来に関するいくつかの可能性の分岐と、それぞれの状況下で黒田家が取るべき対応策の素案も、慎重な言葉遣いながら盛り込まれていた。それは、例えば、「もし、万が一にも、織田家中枢に不測の事態が生じ、天下が再び混乱に陥った場合、黒田家はどの勢力と連携し、いかにして播磨の独立を保つか。そのためには、播磨国内の諸勢力との連携強化が不可欠です」といった、具体的な状況設定に基づいたシミュレーションのようなものだった。 彼女の深い洞察力と、まるで多くの歴史の興亡を目の当たりにしてきたかのような、どこか未来を知る者特有の確信を感じさせるものであった。彼女は、直接的な予言を避けつつも、官兵衛に「備えあれば憂いなし。あらゆる可能性を想定し、先手を打つことこそが、乱世を生き抜く要諦と、私の朧げな記憶にある故郷の賢者は教えてくれました」と書き添えていた。
完成した地図と報告書は、莉央の強い希望により、黒田家中で最も武勇に優れ、そして何よりも官兵衛への忠誠心が篤い母里太兵衛に託されることとなった。先の戦場での一件以来、太兵衛は莉央の知識と献身を深く認め、彼女の言葉に真摯に耳を傾けるようになっていた。
「太兵衛様、この地図と書状、必ずや殿のお手元へ。播磨の、そして黒田家の未来が懸かっております。どうか、ご無事で。道中、くれぐれもお気をつけて」
莉央からその重い使命を託された太兵衛は、彼女の真剣な眼差しに応えるように、一言「承知つかまつった。この太兵衛、命に代えても、殿の元へ届け、そして莉央殿の期待に応えてみせるわ。お主の知恵は、もはや黒田家になくてはならぬものじゃ」とだけ答え、その熊のような巨躯に似合わぬ俊敏さで、数名の供だけを連れて、夜陰に紛れて京の都へと旅立っていった。彼の目には、もはや莉央への疑いはなく、ただ官兵衛救出への一点に向けられた、燃えるような決意だけがあった。
遠ざかっていく太兵衛の背中を見送りながら、莉央は自らの分析と献策が、官兵衛の、そして黒田家の、いや、この国の運命を左右するかもしれないという、言いようのない重圧を感じていた。しかし、それと同時に、自分が今できる最善を尽くしたという、確かな達成感と、未来への微かな希望もまた、彼女の胸には灯っていた。
「私は、この時代で、私の知識と技術で、人々の未来を少しでも明るく照らしたい…。そのためなら、どんな困難にも、私は決して顔を背けたりしない…!そして、いつか…いつか必ず故郷へ…そのために、今、私はここで力を尽くすのだ」
夜空に輝く無数の星々を見上げながら、莉央は改めて固く誓うのだった。その瞳には、未来を切り開こうとする者の、強く、そして美しい光が宿っていた。




