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第15話:広がる信頼と工房の躍進

第15話:広がる信頼と工房の躍進

母里太兵衛が、莉央に深々と頭を下げた一件は、まるで静かな水面に投じられた一石のように、妻鹿城下に確かな、そして大きな波紋を広げていった。黒田家随一の猛将が、異邦の若い娘に詫びを入れたという事実は、家臣たちの間で瞬く間に知れ渡り、その多くが莉央という存在を新たに見直すきっかけとなった。戦場で負傷し、誰もが諦めかけていた兵士たちが、莉央の施した「異国の手当て」と、彼女が調合したという不思議な「命の水」(塩と少量の砂糖を湯に溶かした経口補水液のこと。莉央が兵士たちの脱水症状を懸念し、現代の知識を元にその場で指示して作らせたもの)によって、驚くべき速さで回復していく様は、その評価を決定的なものにした。

「莉央様の薬湯は、まるで魔法のようだ。瀕死だったわしのせがれが、数日で起き上がれるようになったんじゃ」

「あの手当てのおかげで、傷が膿むこともなく、こうして達者にしておる。莉央様は、まさに我らの命の恩人じゃ。あの『命の水』とやらも、体が楽になったと申しておった」

城下では、そんな感謝の声が日増しに大きくなっていった。特に、先の戦で莉央の応急処置を受けた兵士の家族からは、直接礼を言いに来る者もいた。その噂は、莉央が工房で開発を進めていた新型農具の普及にも、力強い追い風となった。

当初は「異人の奇妙な、得体の知れない道具」と敬遠し、遠巻きに眺めるだけだった村々の庄屋たちも、莉央の「人の命を救う知恵」の評判を聞きつけ、半信半疑ながらも、彼女の考案した踏み鋤や改良型の鍬を、恐る恐る試用し始めたのだ。

その効果は、彼らの長年の経験と常識を覆すほどに歴然としていた。

「こ、この鋤は…!なんちゅう軽さじゃ!それに、土がまるで豆腐のように…!これなら、年寄りのわしでも、まだ畑仕事ができそうだわい!莉央様は、まこと神の使いじゃ!」

ある村の老いた庄屋は、初めて踏み鋤を使った瞬間、驚きのあまり腰を抜かしそうになった。従来の、重く扱いにくい鋤では、屈強な男が数人がかりで一日汗を流しても、僅かしか耕すことのできなかった固く痩せた土地が、莉央の設計した農具を使えば、非力な女性や老人でさえ、比較的容易に、しかも驚くほど深く、効率的に耕すことができる。作業効率は数倍に跳ね上がり、これまで諦めかけていた荒れ地にも、再び作付けができるかもしれないという希望が、領民たちの顔に明るい光を灯した。

莉央の技術工房には、いつしか彼女の類稀なる知恵を一目見ようと、あるいは自らの村が抱える切実な問題を相談しようと、多くの領民たちが途切れることなく訪れるようになっていた。莉央は、一人一人の切実な声に真摯に耳を傾け、現代の農業知識や土木技術の断片を、この時代の言葉と彼らの理解度に合わせて丁寧に説明し、具体的な解決策を共に考えた。時には、工房の職人たちを引き連れて村へ赴き、泥にまみれながら灌漑水路の設計を指導することもあった。その際、彼女は必ず現地の地形や水量を詳細に調査し、持続可能な水利用計画を提案した。「私の記憶では、水は限りある資源です。効率的に、そして公平に分配することが大切です」と。

その献身的な姿は、領民たちの心を深く打ち、彼らは莉央を「知恵者の莉央様」として心から尊敬し、親愛の情を寄せるようになった。工房の入り口には、感謝の印として、朝採れの野菜や、村の女たちが編んだ草鞋などが、毎日のようにそっと置かれるようになった。それらは、莉央にとって何よりの励みであり、この時代で生きる意味を改めて感じさせるものだった。(私の知識が、こんなにも直接的に人々の役に立ち、喜んでもらえるなんて…現代では感じることのなかった種類の喜びだ。でも、だからといって、帰りたい気持ちが消えるわけじゃない…この金属片が、いつか道を示してくれると信じたいけれど…この温もりは、人々との繋がりを感じているからなのだろうか…)莉央の心は、達成感と、依然として消えない望郷の念の間で揺れ動いた。

そんな中、官兵衛の妻である光は、莉央の活動に深く感銘を受け、彼女の持つ「未来の国の知恵」を、より多くの女性たちに広めるため、「婦女子の会」とでも言うべき集まりを、城内の一室で定期的に開くようになった。

「莉央殿、この度の薬草の煎じ方、まことに理に適っております。これならば、多くの者が病の苦しみから救われましょう。莉央殿の記憶にあるという、栄養のある食事の作り方も、ぜひ皆に教えていただきたいのです。子供たちの健やかな成長のためにも」

莉央が先生役となり、光がその補佐役となって、城勤めの侍女たちや家臣の妻女たちに、基本的な衛生知識(食事の前や厠の後の手洗いの重要性、食材の安全な扱い方)、栄養バランスを考えた季節ごとの食事の献立(莉央が現代の栄養学の基礎知識を元に、この時代で手に入る食材で工夫したもの。例えば、鉄分補給のためのレバーの調理法や、ビタミン摂取のための野菜の組み合わせなど)、衣類や住まいを清潔に保つ工夫などを、実演を交えながら教えた。

最初は、莉央の語る「目に見えぬ毒虫(細菌のこと)」の話に戸惑う女性たちもいたが、莉央の分かりやすい説明と、光の優しい励ましによって、彼女たちは徐々に新しい知識を受け入れ、自らの家庭で実践し始めるようになった。それは、妻鹿城下に静かな、しかし確実な生活改善の波を広げていくことになった。この活動を通じて、莉央と光の友情はさらに深まり、莉央は多くの女性たちの揺るぎない信頼と支持を得ることになる。

莉央は、自分の知識と技術が、この時代の人々の役に立ち、彼らの日常に笑顔と希望をもたらすことに、これまでにない大きな喜びと生きがいを感じていた。妻鹿の城に、そしてこの戦国の世に、ようやく自分の確かな「居場所」と「役割」を見出し始めていたのだ。


そんなある日、京から戻ったばかりの官兵衛の使者が、一通の書状と共に、莉央にとっては予想外の「課題」をもたらした。それは、織田信長が琵琶湖のほとりに新たに築城中の、壮麗を極めると噂される安土城に関する、いくつかの高度な技術的な難問――湖水に面した軟弱な地盤に巨大な天守閣を支える基礎構造の強化策や、広大な城内への効率的な給水システムなど――について、官兵衛から、莉央の見解と具体的な解決策を求めるものだった。官兵衛は、莉央の才能を信長に示したいという思惑と共に、彼女の知識がどこまで通用するのか試したいという意図も持っていたのだろう。「莉央殿の知恵ならば、この難問にも光明を見いだせるやもしれぬ」と書状には記されていた。莉央は、その難問に対し、防災科学研究所で培った地盤工学や流体工学の基礎知識を応用し、詳細な図面と模型を用いて、実現可能な複数の対策案を提示した。その際、彼女は「私の記憶では、このような大規模構造物では、地盤改良が最も重要となります。複数の異なる素材を組み合わせることで、荷重を分散させ、安定性を高めることができるかもしれません。また、給水については、自然の高低差を利用した導水路や、複数の水源を確保することが肝要かと存じます」と説明を加えた。

「殿は、莉央様のこの類稀なる才を、信長公にお示しになりたいおつもりやもしれませぬな。しかし、これほどの難問に、莉央様は…まさに神の知恵じゃ」

井上九郎右衛門が、感嘆の息を漏らしながら呟いた。彼は、莉央の知識が黒田家だけでなく、天下の趨勢にも影響を与えうる可能性を感じ始めていた。莉央は、与えられた僅かな情報と、自身の持つ建築工学や土木工学の知識を総動員し、数日間にわたり工房に籠もりきりになって、その難解な課題に取り組んだ。

彼女が最終的に導き出した解決策は、従来の日本の築城術の常識を覆すような、斬新かつ合理的な考え方だった。天守閣の基礎には、「異なる素材を積層することで荷重を分散させる」という原理や、「松杭を多数打ち込むことで地盤を強化する」という手法を提案し、給水システムには、高低差を利用したサイフォンの原理と複数の水源からの供給ルートの多重化を図解でその概念を示した。その回答は、再び官兵衛を驚嘆させ、彼の莉央への信頼を不動のものにするに十分だった。領民からの信頼、そして中央からの新たな挑戦。莉央の未来は、大きく動き出そうとしていた。

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