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第14話:戦場の現実と新たな決意

第14話:戦場の現実と新たな決意

母里太兵衛が工房に乗り込んできたあの日から数日、妻鹿城の空気はどこか張り詰めていた。莉央は工房での作業に没頭しつつも、武断派の家臣たちの冷ややかな視線を感じずにはいられなかった。彼女の知識が、戦働きを本分とする彼らにどう受け止められるのか、まだ見えなかった。(太兵衛様の言うことも一理ある…私の知識は、本当に平時だけのものなのか?戦場で役立つことはないのだろうか…サバイバルキットの応急処置セット…あれは、もしかしたら…)

その「時」は、実りの秋を目前にした頃、予期せぬ形で訪れた。

妻鹿城の南に広がる豊かな水田地帯。長年、境界を巡って小競り合いの絶えなかった隣国の小領主が、ついに実力行使に出た。夜陰に紛れて境界の杭を打ち変え、黒田領へわずかながら侵入したのだ。その小領主は、最近中央で力をつけてきた織田家と密かに誼を通じており、黒田家が日和見的な態度をとる小寺家に属していることへの牽制の意味合いもあったのかもしれない。

報告を受けた城内は騒然となった。井上九郎右衛門ら文治派の家臣たちは、外交交渉による穏便な解決を主張したが、血気にはやる母里太兵衛はこれを一蹴した。

「交渉などと生ぬるい!これは黒田の武威を内外に示す絶好の機会ぞ!舐められたままでは、武士の沽券に関わるわ!それに、奴らの背後には織田の影も見え隠れする。ここで弱腰を見せれば、ますます足元を見られるぞ!」

太兵衛の眼は爛々と輝き、その巨躯からは久々の戦への高揚感があふれ出ていた。評定の末、家老衆の判断は太兵衛の意見に傾き、黒田家は兵を出すことを決定した。

「者ども、出陣じゃ!黒田武士の意地を見せてくれるわ!」

太兵衛の野太い号令と共に、百名ほどの黒田勢が鬨の声を上げて妻鹿城から出陣していく。その顔には、手柄を立てんとする野心と、戦場への渇望が浮かんでいた。莉央は、城壁の上から遠ざかっていく武者行列を、複雑な想いで見送っていた。小さな衝突であっても、戦は戦だ。血が流れ、命が失われる。どうか、誰も死なないで、大きな怪我をしませんように――そう祈りながらも、彼女の胸の奥では、ある決意が静かに形を成し始めていた。(もし、私の知識が、戦場で傷つく人を少しでも救えるのなら…それは、私がここにいる意味の一つになるかもしれない。そして、太兵衛様のような方々にも、私の価値を認めてもらえるかもしれない。私のサバイバルキットにある応急処置セット、そして現代の衛生知識…それが、役に立つかもしれない。今回は、ただ見ているだけではいけない…)

戦闘は、半日ほどで黒田勢の圧勝に終わった。相手方の小領主は早々に戦意を喪失し、和睦を申し入れてきたという。

勝利の報と共に城に戻ってきた兵士たちの顔には、しかし、疲労の色と共に、生々しい傷跡が刻まれていた。矢傷、刀傷、打撲、骨折――城の広間には、うめき声を上げる負傷兵たちが次々と運び込まれ、城付きの老医師や薬師たちが、額に汗して手当てにあたっていた。だが、その治療法は、莉央の目から見ればあまりにも心許なかった。傷口に直接薬草を塗り込むか、気休め程度の呪文を唱えるだけ。消毒という概念は存在せず、これでは軽傷であっても化膿し、命取りになりかねない。

広間に満ちる血の匂いと、兵士たちの苦悶の声。莉央は、もう見て見ぬふりなどできなかった。

「太兵衛様!」

負傷兵たちの間で指示を飛ばしていた母里太兵衛の元へ、莉央はためらうことなく駆け寄った。その足取りは、工房での彼女とはまるで別人のように、確固たるものだった。事前に光に頼み、サバイバルキットの応急処置セットと、煮沸した清潔な布、そして薬草から抽出した簡易的な消毒液(と莉央が考えているもの)を準備してもらっていた。

太兵衛は、汗と土埃にまみれた莉央の姿を一瞥し、そのただならぬ真剣な眼差しに、一瞬言葉を失った。数日前の工房での、あの毅然とした莉央の姿が脳裏をよぎる。(この女、また何か奇妙なことを言い出すつもりか…だが、あの時の目は…ただの小娘の目ではなかった。何かを、本気で変えようとしていた…)

「このままでは、助かるはずの命も助かりませぬ!どうか、私に、負傷兵の手当てをさせてはいただけないでしょうか!」

「…異人の小娘に、戦場の何が分かると言うのだ。それとも、お主の作る奇妙な道具で、傷が治せるとでも言うのか?医師や薬師の邪魔をするでないぞ」

太兵衛の声には、まだ侮蔑の色が残っていた。だが、目の前の惨状と、莉央の瞳に宿る尋常ならざる光が、彼の頑なな心をわずかに揺さぶっていた。

「私には、故郷で学んだ、傷の手当ての初期対応の知識がございます!このままでは、多くの方が化膿や破傷風で無駄に苦しみ、命を落とすことになりかねませぬ!どうか、一度だけ、私に応急処置の指揮をお任せください!薬師の方々のご負担も軽減できるはずです。私の記憶にある限り、傷を清潔に保つことが最も重要です!そして、この道具と薬が、きっとお役に立てるはずです!」莉央は、手にしていた応急処置セットを太兵衛の前に示した。

莉央は、その場に膝をつき、深々と頭を下げた。その声は、必死の懇願に震えていた。

太兵衛は、しばらくの間、黙って莉央を見下ろしていた。彼の心の中では、伝統的な治療法への固執と、目の前の異邦の女が持つかもしれない未知の知識への、ほんの僅かな期待が激しくせめぎ合っていた。ふと、うめき声を上げる若い兵士の、苦痛に歪んだ顔が目に入る。それは、太兵衛が若い頃から目をかけ、将来を嘱望していた若武者だった。その姿が、彼の心を最終的に動かした。

「…分かった。だが、もし手落ちがあれば、その時は…お主の命、覚悟いたせ。そして、薬師たちの邪魔はするでないぞ。あくまで、お主のやり方で、だ。結果が出なければ、この太兵衛、容赦はせぬぞ。この若者の手当てから始めよ。結果を見せてもらおう」

「覚悟は、できております!」

太兵衛の言葉を遮るように、莉央は力強く答えた。その瞳には、一瞬たりとも迷いはなかった。

莉央は、すぐさま光や、動ける侍女たちを集め、的確に指示を飛ばし始めた。

「まず、全ての傷口を、煮沸したお湯で丁寧に洗い流してください!血や泥を落とすのです!その後、私が調合したこの薬液――故郷の書物にあった記述を頼りに、強い殺菌作用を持つとされる薬草を複数組み合わせ、灰汁で煮出すことで成分を抽出した、即席ながらも効果を期待できる清浄液です――で、傷口を清めてください!これは、目に見えぬ悪い虫を殺すためのものです!」

「傷を水で洗うなど、聞いたこともございませぬ…!かえって悪化するのでは…それでは傷口が化膿してしまうと…それに、この薬液は…」

戸惑う侍女たちに、莉央は厳しく、しかし分かりやすく指示を続ける。

「大丈夫です、信じてください!私の記憶では、これが最も確実な方法です!出血のひどい方には、この清潔な布を固く巻き付け、傷口を強く圧迫!骨が折れていると思われる方には、添え木を当てて、動かないように固定します!そして、この『命の水』を飲ませてください。体から失われた水分を補給するのです!」

莉央は、自らも率先して負傷兵の手当てにあたった。その動きは、まるで熟練の医師のように手際よく、一切の無駄がない。彼女の指導の下、侍女たちも徐々に落ち着きを取り戻し、連携して負傷兵の救護にあたり始める。

広間には、薬草の独特の匂いと、血の生臭さ、そして莉央の凛とした指示の声だけが響き渡っていた。その光景は、これまでの戦後の処理とは明らかに異なっていた。

母里太兵衛は、その一部始終を、腕を組み、壁に寄りかかりながら、ただ黙って見つめていた。彼の目に映る莉央の姿は、もはや工房で奇妙な道具を作る「異人の小娘」ではなかった。それは、確かな知識と技術、そして何よりも強い意志をもって、人の命を救おうと奮闘する、一人の「戦場の工師」とでも呼ぶべき姿だった。(あの女の言うことは、ただの戯言ではなかったのか…?この手際は…まるで熟練の医者のようだ。一体、どこでこのような知識を…そして、あの道具…確かに、見たこともないものばかりだが、理に適っているように思える…)彼の胸に、初めて莉央に対する小さな、しかし確かな変化の兆しが見えた。

数刻後、広間の喧騒は次第に収まり、負傷兵たちのうめき声も、明らかに小さくなっていた。莉央の指示した応急処置は、驚くべき効果を発揮していたのだ。これまでなら、何日も高熱にうなされ、あるいは傷が化膿して命を落とすことも少なくなかったはずの重傷者たちが、穏やかな寝息を立て始めている。軽傷者たちの顔にも、安堵の色が浮かんでいた。太兵衛が気に掛けていた若武者も、顔色はまだ悪いものの、呼吸は安定していた。

「莉央殿…」

太兵衛は、いつの間にか、莉央の隣に歩み寄っていた。その声には、もはや以前のような棘はなく、ただ、深い驚きと、そして隠しようのない敬意の色が滲んでいた。

「お主の申した通りじゃった…いや、それ以上じゃ。この太兵衛、お主の知恵を、そしてお主という人間を、侮っておった。この通り、詫びる」

太兵衛は、その熊のような巨躯を折り曲げ、莉央に向かって深々と頭を下げた。それは、黒田家随一の猛将と謳われた男が、生涯で数えるほどしか見せたことのない、心からの謝罪の姿だった。(この女の知識は、ただの机上の空論ではなかった。戦場で、これほどまでに人の命を救う力があるとは…わしは、とんでもないものを見誤っておったのかもしれん。殿があの娘を信じる理由が、少し分かった気がする。この知識があれば、黒田家の兵は、もっと強くなれるかもしれん…)太兵衛の胸に、熱いものが込み上げてきた。

莉央は、その太兵衛の姿に、戦いが終わったことへの安堵と、自分の知識が受け入れられたことへの喜びで、思わず涙が込み上げてくるのを必死にこらえた。

(良かった…本当に、良かった…!これで、少しは私の知識も、この方々に認めてもらえるかもしれない…私の力が、誰かの命を救い、そして誰かの心を変えることができるのなら…それは、私がここにいる意味の一つなのだ。帰りたい気持ちは変わらないけれど、今は、ここで私にできることを…そして、いつかこの経験も、元の世界で役に立つかもしれない。)

この日を境に、母里太兵衛の莉央に対する態度は、そして黒田家中の武断派の家臣たちの莉央への見方は、大きく変わることになる。妻鹿城に吹く新しい風は、今、確かな力となって、黒田家の未来を、そして官兵衛と莉央の運命を、新たな方向へと導き始めていた。戦場の現実は過酷だったが、そこには確かな絆の芽生えと、莉央の新たな決意が生まれていた。

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