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第13話:武士の壁

第13話:武士の壁

莉央が設計した踏み鋤が、その驚くべき効果を職人たちの目の前で証明してより数日。妻鹿城の一角に佇む技術工房は、まるで長い眠りから覚醒したかのように、かつてない熱気に満ちていた。踏み鋤の成功は、工房の職人たち、とりわけ若い吉兵衛のような者たちの心に、新しいものへの挑戦意欲という確かな火を灯したのだ。

「莉央様、この図面にある『深耕鍬しんこうぐわ』なるものは、踏み鋤よりもさらに深く土を掘り起こせるとのことですが、刃の角度はこれでよろしいので? より鋭角にした方が、土への食い込みは良くなるのではありませぬか?ただ、源爺様は、あまり鋭すぎると石に当たった時に欠けやすいとも仰っていましたが…私の記憶では、土壌を深く耕すことで、作物の根が張りやすくなり、収穫が増えるはずです」

吉兵衛は、莉央が次に開発を目指す改良型の鍬の図面を食い入るように見つめ、目を輝かせて問いを重ねる。他の若い職人たちも、以前の遠巻きにするような態度は消え、積極的に莉央の周りに集い、彼女の言葉に熱心に耳を傾けるようになっていた。彼らにとって、莉央の工房は、ただ言われたものを作る場所ではなく、莉央のアイデアと自分たちの技術を融合させ、新しいものを生み出す喜びを感じられる、刺激的な場所へと変わりつつあった。

鍛冶頭の源爺は、表向きはなお腕を組み、難しい顔で工房の隅からその様子を眺めていることが多かった。しかし、莉央が職人たちに新しい鍛造法や金属の配合について(あくまで現代の基礎知識の断片として、例えば鉄の炭素含有量と硬度の関係などを、当時の言葉に置き換えて)説明していると、いつの間にかその輪から少し離れた場所に立ち、聞き耳を立てていることもあった。そして時折、誰に言うともなく「ふん、そんなやり方で、まことに鉄の粘りが増すというのか…この源爺の長年の経験と勘からすれば、少々危うい気もするがな。試してみる価値くらいはあるやもしれんがな。だが、あの小娘の言うことにも、一理あるのかもしれん…先日作った鋤も、確かに軽くて使いやすかったからのう」と、ぶっきらぼうながらも、どこか技術者としての好奇心を隠せない言葉を漏らす。莉央はその微細な変化を見逃さず、源爺の長年の経験と勘を尊重しつつ、新しい知識を巧みに織り交ぜていく。

「源爺殿の『折り返し鍛錬』の技と、この新しい焼き入れの方法を組み合わせれば、きっとこれまでにないほど強靭で、かつ鋭い刃が生まれるはずです。私の記憶にある知識だけでは不十分です。どうか、源爺殿のその素晴らしい技で、このアイデアを形にしていただけませんか?材質についても、先日運び込まれた新しい鉱石を少し混ぜてみてはどうでしょう?何か変化があるかもしれません」

莉央の真摯な言葉に、源爺はしばし黙考していたが、やがて「…仕方あるまい。そこまで言うなら、一度だけだぞ。ただし、わしのやり方でやらせてもらうぞ。おかしなことになったら、お主のせいじゃからの。その新しい石とやらも、少量だけなら試してみてもよいが…」と、ぶっきらぼうに答えながらも、その目には挑戦的な光が宿っていた。長年培ってきた自身の技と、異邦の娘がもたらす未知の知識が、どのような化学反応を起こすのか。その興味が、彼の頑なな心を少しずつ溶かし始めていた。

工房では、踏み鋤の量産が急ピッチで進められると同時に、莉央の指導のもと、深耕を可能にする改良型の鍬や、水流を効率的に利用するための水車の羽根の試作が、職人たちの熱意と共に進められていた。莉央は、単に図面を渡すだけでなく、粘土で模型を作って構造を説明したり、時には自らも簡単な木工を手伝ったりしたが、高度な鍛冶や木工技術が要求される部分は、源爺や辰五郎ら熟練の職人たちに全面的に頼っていた。そのひたむきな姿は、職人たちの心を着実に掴んでいった。

工房の熱気は城下にも伝わり、領民や商人たちからは莉央への称賛の声が日増しに高まっていた。疫病対策で多くの命を救った「知恵者の莉央様」が、今度は農作業を楽にし、収穫を増やす道具を作っているというのだ。彼らにとって、莉央はまさに希望の光であった。

内政を預かる井上九郎右衛門ら文治派の家臣たちも、領内が目に見えて豊かになっていく様子を喜び、莉央の才覚を高く評価していた。彼らは、莉央の進める領内改善策が、黒田家の国力増強に不可欠であると理解し、陰ながらその活動を支援していた。

しかし、その一方で、城内には別の種類の空気が流れ始めていた。武勇を重んじる武断派の家臣たちの中には、この状況を複雑な感情で見つめる者も少なくなかった。彼らは、城が静かで、民が農具作りに熱中している状況を、どこか武士としての誇りを損なうものと感じていたのかもしれない。官兵衛が京に赴き、中央との繋りを深めている一方で、足元の播磨での武備が疎かになっているのではないかという懸念もあった。

「確かに、民の暮らし向きはようなったやもしれん。じゃが、我ら武士の本分は戦働きじゃ。あのような異人の女に殿が心を寄せられ、農具作りや何やらばかりに力を注がれては、黒田家の武威が鈍るとは思われぬか?近頃、戦支度も疎かになっていると聞くが…殿は、何を考えておられるのか」

「工房に人も金も集めすぎじゃ。その分を、我らの槍働きに回すべきではないのか。いざという時、その鋤や鍬が我らを守ってくれるわけではあるまい。敵はいつ攻めてくるか分からぬのだぞ」

彼らにとって、莉央の進める民政重視の政策は、武士の存在意義を軽んじているように映り、また、官兵衛が彼女を重用することで、従来の家中の力関係が変化することへの警戒心も、その声の奥には潜んでいた。そして、その武断派の筆頭とも言える存在が、母里太兵衛であった。彼は、莉央の疫病対策の際の働きは遠巻きに聞き及んではいたが、所詮は女子供の戯言と、工房での活動に対しては、依然として懐疑的な目を向けていた。戦場での槍働きこそが黒田家を支える礎であり、それ以外のことは二の次、という確固たる信念が彼にはあった。

ある日の午後、莉央が工房で水車の羽根の角度について職人たちと議論を重ねていると、工房の入り口がにわかに騒がしくなり、戸板が乱暴に開け放たれた。そこに立っていたのは、噂に違わぬ、熊のごとき巨躯を誇る母里太兵衛その人であった。その顔には、戦場で鍛え上げられた者特有の凄みと、工房の喧騒、そして莉央の存在そのものに対する、あからさまな不快感が浮かんでいた。

「莉央殿はおられるか!」

太兵衛の、腹の底から響くような野太い声が、工房の熱気を一瞬にして凍てつかせた。職人たちは、一斉に手を止め、緊張した面持ちで太兵衛を見上げている。

太兵衛は、工房に並べられた試作品の農具や、壁に貼られた莉央の設計図を、値踏みするような鋭い目つきで一瞥すると、ふんと鼻を鳴らした。

「莉央殿、戦支度が急がれるこの折に、このような『土いじりの道具』作りに精を出しておられるとは、感心なことよ。じゃが、その奇妙な形の鋤や鍬が、我ら黒田武士の槍働きに、どれほどの助けとなるというのか。殿は、お主の異国の知恵とやらを買い被っておられるのではないかと、この太兵衛、案じておるのだ。民の暮らしがようなるのは結構なことだが、武士の魂まで鋤鍬で耕されては、いざという時に槍の穂先が鈍るのではないか?それとも、何か戦に役立つものも作っておるのか?」

その言葉は、莉央のこれまでの成果を直接的に否定するものではないものの、彼女の活動の「優先順位」と「武士としての価値観」に対する、明確な疑問を含んでいた。それは、戦場での武功こそが武士の誉れであり、黒田家の存続を支えるものと信じる太兵衛の、主家を思うが故の焦りでもあった。

莉央は、全身の血が逆流するような怒りを覚えながらも、ここで感情的になってはならないと、必死に自らを律した。

「母里様、お言葉ではございますが、私がここで開発しております道具は、決して遊び道具ではございません。領民の暮らしを豊かにすることは、黒田家の国力を高め、兵糧の心配なく戦に臨める環境を整えること。ひいては、皆々様の武勇を、より確かなものとして支える礎になると、私は信じております。飢えた兵に、いかに力強い槍働きができましょうか?また、戦は武力だけでは勝てませぬ。情報の収集、兵站の確保、そして民の心が一つになること。それら全てが揃ってこそ、真の強さが生まれると、私の朧げな記憶は告げております。これらの農具は、そのための第一歩に過ぎませぬ」

莉央は、太兵衛の射るような視線にも臆することなく、毅然とした態度で答えた。その声は、わずかに震えてはいたものの、確かな信念に裏打ちされた力強さを持っていた。

「ほう、戦を知らぬ女子おなごが、兵站を語るか。面白い。 ならば問うが、その鋤や鍬が、明日の戦で敵兵の一人でも討ち取れるとでも申すか! その水車とやらが、敵の城壁を打ち破れるのか! 武士の誉れは、戦場での働きによってのみ示されるもの。民を食わせるのも武士の務めではあるが、それは戦に勝ってこそ。本末転倒であってはならぬと、この太兵衛は心得ておる!お主の知恵が戦の役に立たぬなら、それはただの遊びじゃ!」

太兵衛は、一歩莉央に詰め寄り、さらに威圧的な態度で迫る。その巨躯から放たれる圧は、莉央の華奢な体を押し潰さんばかりであった。工房の職人たちは、息を殺してそのやり取りを見守るしかなかった。

(駄目だ…この方には、言葉だけでは通じない…!この方の価値観は、あまりにも…私の知識が、戦という彼らの現実の中で、どう役立つのかを具体的に示さなければ、理解は得られないだろう。今は、殿の信頼を盾に、この場を収めるしかない…でも、いつか必ず、この方に私の真価を認めさせてみせる。私の知識は、ただ農具を作るだけのものではない。この国のあり方そのものを変える力を持っているはずなのだから。そのために、戦の道具も…考えなければならないかもしれない…)

莉央は、太兵衛の頑なな態度と、その瞳の奥に宿る深い不信感を前に、無力感に似た感情を覚えた。黒田官兵衛という絶対的な後ろ盾が不在の今、この武断派の重鎮を納得させることは、容易ではない。

井上九郎右衛門は、この莉央と武断派家臣との深刻な軋轢を予期し、事前に莉央に「太兵衛様は武骨な方ゆえ、言葉で言い争っても埒があかぬ。今は耐えるしかない。時が解決してくれることもある。莉央殿の真価は、必ずやいずれ示されるはずじゃ。殿も、莉央殿の知恵を戦にも活かそうと考えておられるはず」と助言していたが、現実はそれ以上に厳しいものであった。

太兵衛は、しばらく莉央を睨みつけていたが、やがて「くだらんことに精を出す。殿がお戻りになったら、この太兵衛、直言申し上げる所存よ。黒田家の将来のためにな。お主も、その知恵とやらが本当に役に立つのか、よくよく考えるがよい」と吐き捨てると、大きな足音を立てて工房を去っていった。彼の背中からは、莉央のやり方への不満と、主君官兵衛への忠誠ゆえの焦りが滲み出ていた。

後に残されたのは、再び重く冷たい空気に包まれた工房と、唇を固く結び、太兵衛の去った方をじっと見つめる莉央の姿であった。吉兵衛をはじめとする若い職人たちは、心配そうに莉央の顔を窺っている。

莉央は、作業台に広げられた設計図を睨みつけるように見つめ、そして、自らを奮い立たせるように、再び力強くペンを握りしめた。その瞳には、どんな困難にも屈しない、不屈の炎が静かに、しかし激しく燃え盛っていた。武士たちの価値観という見えざる壁に、自らの知恵と技術で挑み続ける覚悟を、その炎に宿していた。

母里太兵衛という、新たな、そして手強い壁。官兵衛不在の中、莉央の挑戦は、まだ始まったばかりであった。

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