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第12話:鍛冶場の火花

第12話:鍛冶場の火花

翌朝、まだ朝霧が妻鹿の城下を淡く包む刻限から、莉央は工房にその姿を現した。その手には、夜を徹して描き上げたのであろう、数枚の羊皮紙が握られている。それは、彼女が記憶の底から手繰り寄せた現代の農具――踏みふみすき、深耕を可能にする改良型のくわ、そして水流を効率的に利用する水車――の構造を、この時代の職人たちにも理解できるよう、出来る限り詳細に、そして分かりやすく描き起こした設計図だった。羊皮紙には、全体の形状だけでなく、部品の一つ一つの寸法、材質の指定(入手可能な範囲で)、そしてそれらを組み合わせる手順までが、莉央の几帳面な性格を反映した、正確で美しい線で記されていた。「私の朧げな記憶では、このような形の農具が、土を深く、楽に耕すのに役立ったように思います。これは、その記憶を元に描いたものです」と莉央は説明を添えるつもりだった。

「皆の者、これを見てほしい」

莉央は、鍛冶場の土間に職人たちを集め、その設計図を一枚一枚広げて見せた。その精密な図面と、これまでに一度も見たことのないような斬新な農具の形状、そして何よりも、その道具がもたらすであろう驚くべき効果(莉央は、従来の農具と比較した場合の作業効率の向上率や、期待される収穫量の増加を、具体的な数値目標として示していた)に、集まった職人たちは、ただただ驚きと、そして拭いきれない戸惑いの表情を浮かべるばかりだった。彼らの多くは、文字を読むことすらおぼつかない。莉央の描いた図面は、まるで異国の呪符か、あるいは理解を超えた天の啓示のようにしか見えなかったのかもしれない。

「このようなすきで、本当に田畑が楽に耕せるというのか…? この女の言うことは、あまりに突飛ではないか?見慣れぬ形じゃし…」

「この水車なるものは、まこと、人の手を借りずとも回り続けると申されるか…? にわかには信じがたい…もし、失敗したら、貴重な材料が無駄になるではないか」

職人たちは、互いに顔を見合わせ、不安げな囁きを交わす。彼らの目には、莉央の設計図が、あまりにも現実離れした空想の産物のように映っていた。

中でも、工房の最年長であり、鍛冶頭かじがしらとして長年黒田家に仕えてきた源爺げんじいの反発は、予想以上に激しいものだった。彼は、莉央の広げた設計図を一瞥いちべつしただけで、太い眉を不快そうに寄せ、その顔に深い皺を刻んだ。

「馬鹿馬鹿しい!このような奇天烈な代物が、本当に役に立つとでもお思いか!我らは、先祖代々受け継がれてきたこの国のやり方で、これまで何十年、何百年と農具を作り続けてきたのじゃ!異人の小娘風情が、一夜漬けで考え出したような絵空事に、我らが貴重な鉄と時間を無駄にできると思うてか!第一、その図面とやらは、何をどう作れと言うのか、さっぱり分からんわ!こんなものでは、何も作れん!」

源爺は、鍛冶場に響き渡るような大声で莉央を面罵すると、設計図に唾を吐きかけるかのような仕草を見せ、ぷいと顔を背けてしまった。他の職人たちも、源爺の剣幕に恐れをなしたのか、あるいは彼に同調したのか、次々と莉央から視線を逸らし、口を閉ざしてしまう。工房の空気は、一瞬にして凍り付いたように冷え切ってしまった。

(やはり、そう簡単にはいかない…彼らの誇り、そして長年培ってきた経験と伝統…それを、私のような新参者が、一朝一夕に変えられるはずがない…私の知識はあくまで設計の理念。それをこの時代の素材と技術で形にするのは、彼らの力なくしては不可能なのだ。私の帰還への道も、彼らの協力なしには開けないかもしれないのに…私の伝え方が悪かったのかもしれない。もっと丁寧に、彼らの言葉で説明する必要がある。そして、彼らの技術を尊重し、共に作り上げる姿勢を示さなければ…)

莉央は、源爺の言葉のとげに胸を痛めながらも、ここで引き下がるわけにはいかないと、固く唇を噛んだ。感情的になって反論しても、事態は悪化するだけだ。必要なのは、彼らの心を動かすための、論理的で、そして何よりも具体的な証拠だった。

「源爺殿、そして皆の者。私の知識が浅く、この国のやり方に疎いことは重々承知しております。この図面も、私の拙い絵心では分かりにくかったやもしれませぬ。ですが、どうか、一度だけ、この莉央に機会をいただけないでしょうか。この設計図の農具が、本当にただの絵空事なのか、それとも、皆の者の暮らしを、そしてこの黒田家の未来を、少しでも豊かにできるものなのか…皆さまのお知恵と技をお借りして、それをこの手で証明させてはいただけませんか。まずは、この小さな鋤から、共に作ってみてはいただけませぬか」

莉央は、深々と頭を下げた。その声には、懇願の色と共に、決して揺らぐことのない強い意志が込められていた。

「もし、私の申すことが偽りであったなら、その時は、いかなる罰でもお受けいたします。ですが、もし、ほんの僅かでも可能性があるのなら…どうか、この国の未来のために、皆の者の力を、私にお貸しください」

莉央の真摯な、そしてどこか悲痛ささえ感じさせる言葉に、源爺は頑なに背を向けたままだったが、工房の隅で、それまで黙って成り行きを見守っていた若い鍛冶職人の一人、名を吉兵衛きちべえという男が、おずおずと声を上げた。

「…莉央様。もし、それがしでよろしければ…その、一番小さなすきとやらを、莉央様の図面を元に、源爺様や先輩方にご指導いただきながら、一度、作ってみても、よろしゅうございますか…? 私には、莉央様のおっしゃることが、何となくですが、分かるような気がするのです。新しいものができるのは、わくわくしますし…」

吉兵衛は、まだ年若く、工房では下働きに近い扱いだったが、新しいものへの好奇心と、莉央の語る未来への微かな希望に、心を動かされたのだろう。その瞳には、不安と期待が入り混じった、複雑な光が揺れていた。

「吉兵衛…!お主、何を…!この小娘の戯言に付き合うというのか!おかしなものを作って、黒田家の恥になるようなことがあればどうする!」

源爺が、怒声と共に吉兵衛を睨みつける。しかし、莉央は、その声を遮るように、吉兵衛に向かって力強く、そして感謝の念を込めて言った。

「吉兵衛殿、まことに…まことに、かたじけない…!是非とも、お願いいたす!私も、粘土で模型を作るなどして、できる限り構造が分かるようにお手伝いします。どうか、皆さまのお力をお貸しください!源爺様、どうか吉兵衛殿にお許しを…」

それから数日間、莉央は吉兵衛と共に、鍛冶場に籠もりきりになった。彼女は、設計図の意図を丁寧に説明し、時には自ら粘土で鋤の刃の微妙な角度や形状の模型を作り、吉兵衛にその構造を具体的に示した。また、図面だけでは伝わらない部分は、身振り手振りを交え、時には地面に絵を描いて説明した。吉兵衛もまた、莉央の指示に真摯に耳を傾け、疑問点は臆することなく質問し、源爺に時折叱咤されながらも、その長年培ってきた鍛冶の技術を惜しみなく注ぎ込んだ。火花を散らし、鉄を打ち、焼き入れを繰り返す日々。莉央は、その横で、温度管理や素材の配合について、現代の基礎的な冶金知識の断片から助言を試みるが、実際の作業は吉兵衛の腕と勘に頼るところが大きかった。工房の他の職人たちは、遠巻きにその様子を眺めているだけだったが、彼らの目にも、徐々に興味の色が浮かび始めていた。

そして、三日目の夕刻。ついに、莉央の設計に基づいた、最初の「踏み鋤」の試作品が完成した。それは、従来の鋤とは全く異なる形状をしていた。刃はより薄く、鋭く、そして地面に深く食い込むような角度がつけられている。柄もまた、握りやすく、力を効率的に伝えられるように工夫されていた。

莉央と吉兵衛は、完成したばかりの踏み鋤を手に、工房の裏手にある、固く踏み固められた小さな空き地へと向かった。そこには、源爺をはじめとする工房の職人たち全員が、固唾を飲んでその成り行きを見守っていた。

吉兵衛が、緊張した面持ちで踏み鋤を構え、思い切って固い地面にその刃を突き立てる。すると、従来の鋤では何度も打ち込まなければならなかったはずの地面に、踏み鋤の刃は、まるで柔らかな豆腐を切るかのように、驚くほど軽々と、そして深く食い込んでいった。土を掘り起こす量も、従来の鋤の数倍はあるように見える。

「おお…!これは…まこと、軽い力で、これほどまでに…!莉央様の仰った通りじゃ…!これなら、作業がずっと楽になる!」

吉兵衛の驚嘆の声に、見守っていた職人たちからも、どよめきと、そして信じられないものを見たかのような感嘆のため息が漏れた。

源爺は、依然として腕を組み、難しい顔を崩してはいなかったが、その瞳の奥に、僅かながら揺らぎが見えたのを、莉央は見逃さなかった。(まだだ…まだ、完全に認めてもらえたわけではない。でも、確かな一歩だ。ここから、少しずつ信頼を築いていくしかない。)

工房の片隅で、小さな、しかし確かな火花が散った。それは、鍛冶場の炉の火花だけではなかった。古い伝統と、新しい知識がぶつかり合い、そして融合しようとする、変革の火花でもあった。妻鹿城の技術工房に、新しい時代の風が、今、確かに吹き始めようとしていた。

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