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第11話:工房の始動

第11話:工房の始動

鶏の甲高い鳴き声が、まだ薄藍色のとばりに包まれた妻鹿城の空に、朝の訪れを告げるように鋭く響き渡った。黒田官兵衛が、小寺家の使者として、再び喧騒渦巻く京の都へと旅立ってから、早くも十日が過ぎようとしていた。城内は、あるじ不在の、どこか張り詰めたような静けさと、それでもなお日常の営みを懸命に維持しようとする人々の、健気な緊張感を漂わせている。城門の見張りは以前にも増して厳重になり、夜ごと松明たいまつの数が増えた。家臣たちは井上九郎右衛門を中心に、昼夜を分かたず奥の評定所に籠もり、書状を広げては眉間に皺を寄せ、密談を重ねているようだった。その物々しい空気の中で、結城莉央は、官兵衛から出発の際に託された「妻鹿と技術工房のこと、頼む」という、短くも千鈞の重みを持つ言葉を胸の奥深くに刻み込み、新たな決意を固めていた。それは、この異郷の地で、自分の存在意義を改めて問い直し、そしてこの手で確立するための、静かなる、しかし燃えるような挑戦の始まりでもあった。(殿は、私に大きな期待をかけてくださっている。その期待に応えなければ…そして、この工房で新しい技術を生み出すことが、いつか私の帰還に繋がるかもしれない。そのためにも、私の知識を、この時代の技術と融合させなければ。まずは、この時代の職人たちに、私の考えを理解してもらうことからだ。)莉央は、工房の運営に全力を注ぐことを誓った。

官兵衛が不在となってから、莉央は彼の妻であるてると顔を合わせる機会が自然と増えていた。以前、莉央が疫病対策に奔走していた頃、光は城内の女性たちをまとめ、陰ながらその活動を支えてくれた。その時の莉央の献身的な姿と、彼女がもたらした確かな結果は、光の中にあった異邦の女性への戸惑いを、確かな信頼へと変えていた。時折交わす短い会話の中で、莉央の語る故郷の話(それは、記憶の断片であり、現代の常識や価値観が混じり合っている)に、光は静かな驚きと共に深い興味を示していた。そして今、夫が不在という状況が、二人の心の距離をさらに縮めようとしていた。

「莉央殿、こちらのお薬草は、熱さましには一番とされておりますのですよ。あちらの、少し苦味の強い葉は、傷の膿を吸い出し、清めるのに使いますの」

秋の柔らかな陽光が降り注ぐ、城の片隅に設けられた小さな薬草園で、光は莉央に一つ一つ丁寧に薬草の名とその効能を教えた。その声は、澄んだ湧水のように柔らかく、陽だまりのように温かい。莉央もまた、光からの素朴な疑問に答える形で、自身の記憶の断片――例えば、女性も男性と同じように学び、社会で様々な役割を担うことの可能性や、病気は神仏の祟りではなく原因があり、予防できるという考え方など――を、この時代の常識や人々の感情に最大限配慮しつつ、慎重に言葉を選びながら、少しずつ伝えていった。「私のいた場所では、男女の区別なく、誰もが学問に励み、それぞれの才覚を活かせる機会があったように思います…おぼろげな記憶ですが。薬草の知識も、男女問わず学ぶことができました」

「莉央殿の故郷では、女子おなごも殿方と同じように書物を読み、国を動かすことさえあると…? まこと、夢のような、しかし…心躍るお話でございますね。私も、幼き頃より父に手習いを受け、書物を読むことは好きでございましたが、女であるが故に、と諦めておりました。ですが、莉央殿のお話を伺っておりますと、まるで胸のつかえが取れるような、清々しい気持ちになりまする」

光は、莉央の語る「記憶の中の国」の話に、時には少女のように目を輝かせ、時には驚きに小さく息を呑み、そして時には深く、何かを噛みしめるように頷きながら耳を傾けた。その瞳には、戦国という時代に生まれた女性としての諦観と、それでもなお持ち続ける知的好奇心、そして莉央という、まるで星の世界から舞い降りてきたかのような異質な存在への、純粋な興味と敬意が、複雑に、しかし美しく滲んでいた。莉央は、そんな光の飾らない心に触れるうちに、この時代の女性たちが持つ、外見のたおやかさとは裏腹の芯の強さと、その内に秘めた海のように深い優しさ、そして燃えるような情愛に、改めて強い感銘を覚えるのだった。二人の間には、身分や生まれ、そして生きてきた時代の大きな隔たりを超えた、温かく、そしてかけがえのない友情の絆が、静かに、しかし確実に育まれていた。

ただ、ここ数日、光が時折、ふとした瞬間に顔色を悪くし、常よりも息切れしやすくなったり、寝物語の際に微かな熱っぽさを感じさせたり、あるいは乾いた咳が夜中に続いたりする姿が、莉央の胸に小さな棘のように引っかかっていた。尋ねても「何でもありませぬ、少し疲れが出ただけでしょう」と微笑むばかりだったが、その笑顔の裏に隠された僅かな翳りと、時折見せる額の汗に、莉央は言いようのない不安を感じずにはいられなかった。莉央は、以前自身の応急処置の知識を元に、滋養強壮と解熱作用のある薬草(光から教わったものも含む)を数種類組み合わせ、消化の良い粥と共に光に勧め、数日後、光の顔に少しずつ血色が戻ってきたのを見て、ようやく胸を撫で下ろした。この時代の医療水準では、些細な体調不良も命取りになりかねない。(この薬草の組み合わせは、私の朧げな記憶にあるものだけど、効果があったようで良かった…でも、本格的な医療知識がないのは不安だ…)

その日の午後、莉央は井上九郎右衛門の案内で、官兵衛から新たに一任されることとなった技術工房を改めて詳細に視察した。城の一角、古びた苔むした土壁に囲まれたその場所には、すすで黒光りする薄暗い鍛冶場と、鉋屑かんなくずが床一面に散乱する、やや手狭な大工小屋が、まるで寄り添うように隣接していた。鍛冶場では、年配の、しかしその眼光は未だ鋭い鍛冶頭かじがしらである源爺げんじいが、数人の若い弟子たちを叱咤しながら、火花を激しく散らし、真っ赤に焼けた鉄を黙々と打っている。その槌音は、城壁に反響し、まるで戦の前の鬨の声のようにも聞こえた。大工小屋では、棟梁格の、こちらも年季の入った職人である辰五郎たつごろうが、やはり数人の弟子を使い、領内から持ち込まれる壊れた農具の修理や、城内の様々な備品の製作に、額に汗して追われている。そののみを振るう音は、規則正しく、しかしどこか切迫した響きを持っていた。

莉央は、工房の隅々まで丹念に見て回り、職人たちの仕事ぶりを、その表情の一つ一つまで注意深く観察した。彼らの腕は、確かに立つ。長年培ってきたであろうその伝統的な技術は、現代の科学技術の粋を集めた研究所で働いていた莉央の目から見ても、紛れもなく確かなものだった。しかし、彼らが日常的に使っている道具――例えば、刃こぼれしたままの古い型のかんなや、柄が黒ずんですり減ったつち、火力の調整が難しい旧式のふいごなど――は、あまりにも古く、摩耗しきっている。製法もまた、何世代も前から一切変わることなく、ただただ師から弟子へと受け継がれてきたであろう旧態依然としたものに、頑なに頼りきっている。これでは、いくら職人たちの腕が優れていても、生産効率も上がらず、ましてや新しいものを生み出す余地など、ほとんどないに等しい。莉央は、その改善の余地のあまりの大きさに、ある種の武者震いにも似た、静かな、しかし抑えきれない高揚感を覚えていた。それは、目の前に広がる未開の荒野を、自らの手で切り拓いていくことへの、技術者としての根源的な喜びでもあった。

(このままでは、何も変わらない…彼らの技術は、磨けば光る原石だ。でも、それを磨くための新しい砥石を、そして新しい磨き方を、私が示さなければ…彼らが、そしてこの黒田家が、新しい時代を生き抜くために…!官兵衛様が信じて託してくださったこの場所で、私にできる全てを。そして、この成果が、いつか私が故郷へ帰るための力になるかもしれないのだから。)

莉央は、工房の職人たち全員を、夕暮れ間近の鍛冶場の前に集め、静かに、しかしその声には揺るぎない力を込めて語りかけた。

「皆の者、私は結城莉央と申します。この度、黒田官兵衛様より、この工房を預かることになりました。私の知識は浅く、この国のこと、そして皆の者の長年にわたる経験と技術には、到底及びませぬ。しかし、私はこの妻鹿の地で、ここに住まう全ての人々の暮らしを、その日々の耐え難い労苦を、少しでも豊かに、少しでも楽にするための、新しい道具を、新しい技術を、この手で生み出したいと、そう強く、強く願っております。そのためには、皆の者の、この国で他に類を見ないであろう素晴らしい知恵と、そしてその確かな、神業とも言える腕が、どうしても、どうしても必要なのです。どうか、この私に、皆の者の、そのかけがえのない力を貸してはいただけないでしょうか。私の朧げな記憶にある故郷の知恵が、皆さまのお力と合わされば、きっと素晴らしいものができると信じております」

莉央の真摯な言葉と、その澄んだ瞳に宿る揺るぎない決意、そしてどこか必死ささえ感じさせる響きに、それまで腕を組み、訝しげな表情を浮かべていた職人たちは、戸惑いながらも、僅かに、しかし確実に心を動かされたように見えた。彼らの多くは、これまでの人生で、このような若く、しかも女性の指導者から、これほどまでに熱意のこもった、そして自分たちの技術を心の底から真に必要としているという、魂からの協力を求められた経験など、一度としてなかったのだ。工房の隅で、それまで俯いていた若い職人の一人が、期待と不安の入り混じった、しかしどこか希望の色を帯びた表情で、莉央の顔をじっと見つめている。

莉央は、一呼吸置くと、当面の目標として、「領民たちの収穫量を、今の数倍にまで飛躍的に向上させる、全く新しい農具の開発」と、「厳しい冬の寒さと飢えを、確実に乗り越えるための、革新的な食料保存技術の改善」という、二つの大きな、そして具体的な柱を、力強く掲げた。

鍛冶場の炉に、新たな薪が勢いよくくべられ、赤い炎がパチパチと音を立てて、まるで新しい時代の到来を祝うかのように、天高く燃え盛る。大工小屋からは、未来への希望を、そして新しい道具の誕生を刻むかのように、力強い木材を削る音が、夕暮れの妻鹿城に清々しく響き始める。鍛冶場の炎と大工小屋の槌音は、この播磨の地に新しい時代の風が吹き始める、力強い胎動の音であった。結城莉央の工師としての挑戦は、希望に満ちた確かな一歩を、今、この瞬間から力強く踏み出そうとしていた。

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