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第10話:最初の絆

第10話:最初の絆

官兵衛が、喧騒と策謀渦巻く京での数々の任務を終え、ようやく妻鹿の城へと帰還を果たしたのは、それから数ヶ月の時が流れた、山々の木々が錦織りなす紅葉に染まり、冷たい風が冬の到来を告げる初冬のことだった。彼の纏う旅装束は泥と埃に汚れ、その怜悧な顔には、中央の厳しい政争の嵐を肌で感じたことによる深い疲労の色が刻まれていた。しかし、それ以上に、彼の瞳の奥には、天下の大きな動向をその目で見据え、自らの進むべき道を確信したかのような、新たな決意の鋭い光が、まるで研ぎ澄まされた刃のように宿っていた。

城に戻った官兵衛を迎えたのは、莉央が心血を注いでまとめ上げた、領内改善の進捗に関する詳細な報告書の束だった。工房で試作された新しい農具の試験結果、城下の衛生環境改善策の継続的な効果、そして莉央が助言した兵糧備蓄方法の初期的な成果などが、具体的な数値目標と、莉央自身が羊皮紙に丹念に描いた図解を交えて、理路整然と、しかし熱意を込めて記されていた。それは、単なる知識の羅列ではなく、明確なビジョンと、それを実現するための具体的な道筋が示された、まさに「未来への設計図」の断片とも言うべきものだった。官兵衛は、その報告書に目を通すうちに、改めて彼女の非凡な才能と、この短期間での実行力に感嘆の声を漏らさずにはいられなかった。

以前は莉央の存在を遠巻きに眺め、その異質さに警戒心を抱き、あるいはその若さと女性であることを見下していた家臣たちも、彼女がもたらした具体的な、そして疑いようのない成果――特に城下の衛生環境改善によって、これまで毎年のように幼い子供たちの命を奪っていた原因不明の疫病の発生率が目に見えて低下したこと――を目の当たりにするにつれ、その評価を大きく変えていた。

官兵衛の耳には、領民たちの声が、様々な形で届いていた。莉央の指導で井戸の管理方法を改めたことで、腹痛を訴える者が減ったと涙ながらに感謝を述べる老いた庄屋。疫病で死の淵をさまよっていた我が子が、莉央が「故郷の知恵」として伝えたという「命の水」(塩と少量の砂糖を湯に溶かした経口補水液の原型)によって奇跡的に助かったと、何度も何度も手を合わせる母親。それらの声は、莉央という異邦人が、もはや単なる「知恵袋」ではなく、この播磨の地の人々にとってかけがえのない存在となりつつあることを、官兵衛に強く認識させた。

官兵衛は、莉央のその計り知れない才能と、彼女が短期間のうちに、身分や性別を超えて家臣や領民から得ている深い信頼の大きさに、一瞬、「この異邦の娘は、自分が長年苦心してきた課題を、いとも容易く解決の糸口を見つけ出す。その異質な才覚は、頼もしい反面、どこか底知れぬ恐ろしさも感じる」といった、畏敬と警戒が入り混じった複雑な感情を抱いた。この若き異邦の工師は、自分が長年かけても成し得なかったことを、いとも容易く実現していくのではないか。その輝きは、時に自分の存在を霞ませてしまうのではないか、と。しかし、彼はすぐにその胸に渦巻く感情を、理性で強く打ち消した。莉央は、天が黒田家に遣わした、まさに得難い、かけがえのない宝なのだ。彼女と共に歩むことこそが、自身の、そしてこの国の未来を切り開く唯一の道であると、官兵衛は改めて胸に深く刻んだ。彼は、長旅の疲れも見せず、莉央の労を心からねぎらい、そして、その両肩に優しく手を置き、静かに、しかし揺るぎない力強さを込めて告げた。

「莉央殿、お主の働き、実に見事であった。この官兵衛、お主のような者が傍にいてくれることを、心から幸運に思う。お主の知恵は、もはやこの黒田家にとって、なくてはならぬものだ。 これからも、その知恵と勇気で、私を、そしてこの黒田家を支えてほしい。お主の力は、我らにとって大きな希望だ」

その夜、冷たく澄み切った冬の月が、静かに妻鹿城の櫓を照らし出す中、官兵衛と莉央は、二人きりで城の月見櫓に佇み、眼下に広がる妻鹿の城下町の、ちらちらと揺れる無数の灯りを見下ろしていた。その無数の小さな灯りは、まるで地上に降り立った冬の星座のように、寒空の下で健気にまたたいている。風は冷たく、莉央は思わず作業着の襟を合わせた。遠くからは、夜警の者の拍子木の音が、冬の澄んだ空気に凛と響いてくる。

しばしの沈黙が、二人の間に流れた。それは、互いの存在を確かめ合うような、穏やかで、しかしどこか緊張感をはらんだ静寂だった。やがて、官兵衛が、まるで夜空に浮かぶ月に語りかけるように、しかしその声は確かな問いかけとして、莉央の耳に届いた。

「莉央殿、お主は…なぜ、そこまでして私や、この黒田家に尽くしてくれるのだ?お主には、もっと別の、穏やかで安寧な生き方もあるはずだ。なぜ、あえてこの茨の道を選ぶ?お主の記憶は…まだ戻らぬのか?そして、時折見せるあの寂しげな表情は…何を想うておるのだ?」その声には、純粋な疑問と、そして彼女の真意を知りたいという切実な響きが込められていた。彼は、莉央の献身の裏にある、彼女自身の目的や願いについて、深く思いを巡らせていたのだ。

莉央は、凍えるような夜気の中で白く染まる官兵衛の息を見つめ、そしてゆっくりと、しかし確かな声で答えた。その声には、夜風のようにどこまでも澄んだ、しかし決して揺らぐことのない強い意志が宿っていた。

「私には…遠い、遠い故郷ふるさとへいつか必ず帰るという、どうしても諦めきれない強い願いがございます。この胸から、一日たりとも消えることのない想いです。あの事故で全てを失ったと思った時、最初に浮かんだのも故郷のことでした。ですが、私の記憶はまだ曖昧で、故郷の具体的な情景や、家族の顔さえも、はっきりとは思い出せぬのです。時折、断片的な映像が浮かぶことはございますが…。 しかし、それと同じくらい、この時代で、殿と共に新しい、戦のない世を築き上げたいという、熱い、熱い想いも、私の内に生まれました。正直、どちらの想いが本当の自分なのか、まだ私にも分かりません。でも、私にできることがあるのなら、このささやかな知識と、この両手が生み出す技術を、戦乱に苦しみ、明日の命も知れぬこの国の人々のために、役立てたいのです。それが、私をこの時代に生かしてくださった、天命なのかもしれないと…そう思うようになりました。そして、殿のお側で働くことが、いつか私の記憶を取り戻し、帰る道を見つける手がかりになるかもしれないと、そうも感じております」莉央の言葉には、一切の嘘偽りのない、魂からの真情が、痛いほどに込められていた。彼女は、自らの葛藤を隠すことなく、官兵衛に打ち明けたのだ。

官兵衛は、莉央のその言葉に、そしてその潤んだ瞳の奥に宿る、あまりにも真摯で、あまりにも純粋な光に、深く、そして激しく心を打たれた。彼は、天上に皓々と輝く満月を見上げ、しばし黙考した後、静かに、しかしその声は大地に響き渡るかのように力強く、誓った。

「ならば、私も誓おう。必ずやこの乱世を終わらせ、全ての民が武器を置き、ただ安んじて日々の暮らしを営める、真の泰平の世を、この手で築いてみせる。そして、お主がいつか記憶を取り戻し、故郷へ帰る道を見つけ出し、この地を去る日が来た時、私が笑顔で、一点の曇りもなくお主を送り出せるような、そんな豊かで誇りある日本を…いや、そんな素晴らしい世を、お主と共に、この命ある限り作り上げたい。お主の帰るべき場所があるのなら、その時まで、この官兵衛が、お主の力を借り、そしてお主を守ろう。お主の記憶を取り戻す手助けも、できる限りしよう」

二人は、もはや言葉を交わす必要はなかった。互いの瞳の奥にある、未来への揺るぎない強い意志と、いかなる困難にも屈しないという深い信頼を確かめ合うように、ただ静かに、そして長く、凍てつく夜空の下で見つめ合った。それは、主君と家臣という枠組みを超え、互いの才を認め合う、かけがえのない同志としての、確かな信頼関係が芽生え始めた瞬間だった。それはまだ脆く、不確かなものかもしれないが、二人の心には、共に未来を切り開くという強い意志の光が、確かに灯っていた。

黒田官兵衛と結城莉央、その生まれも育ちも、そして生きる時代さえも異なる二人が、運命の糸に導かれるようにして播磨の地で出会い、互いの非凡な能力と、曇りのない人間性を深く認め合い、最初の、そして揺るがぬ確かな絆を結ぼうとしていた。妻鹿の小さな城から、天下という荒れ狂う海原へ。二人の前には、血と硝煙の匂いが立ち込める、しかし確かな希望の灯も見える、険しくも挑戦に満ちた道が、今、開かれようとしていた。

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