第1話:異邦の空
第1話:異邦の空
重く低い機械音が、巨大なドーム状の地下空間に地の底から響くように反響していた。まるで休眠状態にある巨獣の、不規則な寝息のようだ。その中心には、無数の銀色の配管と、神経網のように張り巡らされた計測センサーに覆われた、武骨な灰色の実験棟が威圧的に鎮座している。コントロールルームの壁一面を埋め尽くすモニター群は、色とりどりのグラフや数値を絶え間なく明滅させ、白衣や作業着を纏った研究員たちが、張り詰めた緊張感の中、黙々とコンソールを操作していた。
結城莉央、二十七歳。防災科学技術研究所所属、地盤振動研究チームのリーダー。カーキ色の多機能作業着は、彼女の引き締まった体躯にフィットしている。ヘッドセットを装着した彼女の鋭い眼差しは、メインモニターに流れ続ける複雑な数値群と、ガラス越しに見下ろす実験棟の様子を、焦点を結び直すように丹念に交互に見つめている。ここ数日の徹夜が、目元に薄い隈となって刻まれているが、それ以上に、長年の研究がまさに結実しようとする瞬間への抑えきれない期待が、彼女の白い頬を微かに紅潮させていた。
(地盤振動予測モデル、最終パラメータ確認。よし、シミュレーションとの誤差は許容範囲内…学生時代、ヒマラヤの奥地での調査中、予測不能な雪崩に巻き込まれかけたことがあった。あの極限状況で生き抜くために叩き込まれた判断力と精神力が、今この瞬間に試されている…)内なる高揚を冷静さで覆い隠し、莉央はクリアな声で指示を出す。
「最終システムチェック、オールグリーン。加振装置、地下構造モデルとの同期、問題なし。加振実験シーケンス、スタンバイ。カウントダウンを開始します」コントロールルームに、抑揚のない合成音声が響き渡る。莉央の声が、その上に凛として重なった。
「各員、最終確認を怠るな。どんな些細な異常も見逃すなよ。特に、実験棟基部の歪みセンサーと、エネルギー供給ラインの監視を強化して」
「了解!」若い研究員たちの、緊張に上擦った声が返ってくる。
「5、4、3、2、1…加振開始!」
実験棟が、重低音の地響きと共にゆっくりと、しかし確実に揺れ始めた。その直後だった。
コントロールルームの照明が一斉に激しく明滅し、空間全体が赤と青の非常灯に染め上げられる。耳をつんざくような甲高い警告音が、鼓膜を直接揺さぶった。モニターの数値が、まるで狂ったようにありえない速度で乱高下を始め、グラフの線は意味をなさない混沌とした模様を描き出す。
「所長!エネルギー出力が制御不能!実験棟地下、想定外の超共振現象が発生しています!地盤データに異常なフィードバック!コアユニットの温度が急上昇!」研究員の一人が、恐怖に引きつった悲鳴に近い声を上げた。
「緊急停止!メインシステムを強制シャットダウンしろ!」莉央の鋭い指示が飛ぶ。しかし、返ってきたのは絶望的な報告だった。
「ダメです!システムが完全にフリーズしています!応答しません!」
次の瞬間、実験棟から目が眩むほどの、魂まで焼き尽くさんばかりの青白い閃光が迸った。強烈な衝撃波がコントロールルームを襲い、分厚い防護ガラスが蜘蛛の巣のように砕け散る。機器という機器が火花を散らし、焦げ臭い匂いと共に爆ぜ、天井からコンクリートの破片が雨のように降り注いだ。莉央は咄嗟に両腕で頭を庇ったが、その抵抗も虚しく、彼女の意識は急速に、抗いようのない闇へと引きずり込まれていく。衝撃の直前、作業着の胸ポケットに何かが、まるで意志を持ったように滑り込むような微かな感触があったが、確認する余裕はなかった。
(何が…起きてる…? このエネルギーの暴走は…予測モデルの、どこに欠陥が…まずい…!コアユニットの冷却が…!)それが、結城莉央の、現代における最後の思考だった。
木漏れ日が、閉じた瞼の裏を優しく刺激する。小鳥たちの甲高いさえずりが、遠い夢の中の調べのように耳朶をくすぐる。風が木々の葉を揺らし、さわさわと心地よい音を立てている。
莉央は、ゆっくりと、重い鉛を引き上げるようにして目を開けた。激しい頭痛がこめかみを圧迫し、耳の奥ではキーンという金属音が鳴り響いている。ぼんやりとかすむ視界に、見慣れない緑の天蓋が映った。無数の、種類の判別もつかない深い緑の葉が重なり合い、その隙間から、吸い込まれそうなほどに澄み切った空の青がのぞいている。
「……う…ここは…どこ…?」掠れた声が、乾いた喉から絞り出された。ゆっくりと、軋む体を起こすと、背中と腰に打ち身のような鈍い痛みを感じる。苔むした大木の太い根元に、寄りかかるようにして倒れていたらしい。足元には、踏みしだかれた羊歯の葉が青臭い香りを放っている。
周囲を見回すと、そこは鬱蒼とした、生命力に満ち溢れた森の中だった。防災科学技術研究所の、清潔で無機質な地下施設とは、あまりにもかけ離れた光景だ。自身の服装は、研究所で着ていたカーキ色の作業着のまま。しかし、泥と木の葉で汚れ、袖口は鋭い何かで引き裂かれたように擦り切れている。
(実験は…どうなった?研究所の皆は…? なぜ私がこんな森の中に…? まさか、あの爆発で…いや、生きている。でも、一体何がどうなって…)思考がまとまらない。事故の瞬間の、目を焼くような閃光と全身を揺るがす衝撃は、朧げながら覚えている。だが、その後の記憶が、まるで厚い霧に包まれたように曖昧だった。
胸ポケットに手をやると、指先に硬い感触があった。取り出してみると、それは指先ほどの大きさの、奇妙な紋様が微かに刻まれた黒っぽい金属片だった。実験棟のコア材に使われていた特殊合金の破片だろうか。事故の衝撃で紛れ込んだのかもしれない。今は、こんなもののことを考えている場合ではない、と無意識に再びポケットへしまい込んだ。
(私は…誰だっけ…?)頭痛と共に、記憶の混濁が襲う。自分の名前、所属、何をしていたのか…必死に思い出そうとすると、脳髄が直接揺さぶられるような感覚に、吐き気さえ覚えた。作業着の胸元に縫い付けられたネームプレートの断片が辛うじて残っており、そこに「結城」の文字が見えた。それをきっかけに、途切れ途切れの映像が脳裏をよぎる。「そうだ、私は…結城…莉央! 防災科学技術研究所の…地盤振動研究チームの…リーダーだったはず!」 断片的な記憶が、雷に打たれたように蘇る。名前と職業は何とか思い出せた。しかし、それ以外の個人的な記憶や、事故に至るまでの詳細な経緯は、依然として霧の中だ。その事実に、安堵と同時に、深い不安が胸に広がった。
腰のベルトにしっかりと固定されたサバイバルキットは、幸いにも無事だった。多機能ナイフ、マグネシウム着火具、小型LEDライト、方位磁針、応急処置セット、そして数本のカロリーバー。スマートフォンは…画面が蜘蛛の巣のように粉々に割れ、何の反応も示さない。
方位磁針を取り出すと、赤い針は、微かに揺れながらも、静かに北を指し示している。周囲の地形は険しく、天を突くようにそびえ立つ巨木は、都市部でしか森を見たことのない莉央にとって、圧倒的な威圧感で迫ってくる。空気は濃密で、湿気を帯びた土と腐葉土、そして未知の花々の蜜のような甘い香りが混じり合っている。
(これは…本当に日本の山奥なの? 私が知っている自然とは、何かが決定的に違う…まるで、時間が…ううん、そんなはずはない…でも、この空気の濃さ、植物の力強さ…一体、何がどうなっているの…?)ありえない仮説が頭をよぎり、否定しようとする理性と、目の前の現実がせめぎ合う。背筋を、氷のように冷たい汗が流れ落ちた。
人気のない森の中、たった一人。助けを求める声も、届くはずがない。涙が溢れそうになる。しかし、莉央は奥歯をギリリと強く噛みしめ、それを必死にこらえた。(泣いてる場合じゃない…!しっかりしろ、結城莉央!まずは生き延びる!)
防災研究者として、そして学生時代に国内外の僻地でサバイバル技術を叩き込まれた者としての身体に染み付いた本能が、莉央を突き動かす。水、食料、そして夜を安全に過ごせる場所の確保。それが最優先事項だと、頭が冷静に判断を下した。
多機能ナイフで、手頃な太さの樫と思しき木の枝を切り、先端を斜めに鋭く削って杖代わりにする。方位磁針を頼りに、地形が緩やかに下っている方向へ、一歩一歩、慎重に足を踏み出した。
(まずは水を見つけないと…川か沢があれば、それを下っていけば人里に出られるかもしれない…人がいれば、何とかなるかもしれない…そして、必ず元の世界へ…!)
しかし、見慣れない植物や巨大な虫に何度も足を止めそうになる。道なき道を進むのは想像以上に体力を消耗し、すぐに強烈な空腹感が莉央を襲ってきた。木の枝から垂れ下がる、小さな赤い実をつけた蔓を見つけたが、未知の植物は口にしないという鉄則を守り、手を出すのを思いとどまる。
やがて日が傾き始め、森の木々が長く不気味な影を落とし始める。夕闇が、まるで生き物のように刻一刻と迫ってくるのが、肌で感じられた。冷たい風が吹き始め、汗で湿った作業着を通して体温を容赦なく奪っていく。焦りが莉央の心を支配し始める。
(このまま夜になったら…獣も出るかもしれない…火を起こせる場所を…早く安全な場所を見つけないと…)立ち止まり、乱れる息を整えるように、深く、震える息を吸い込んだ。夕焼けの赤い光が、木々の隙間から射し込んでいる。その光に照らされた莉央の瞳には、恐怖を押し殺し、それでも生きようとする強い意志の光が宿っていた。
(私は結城莉央。これは、私にとって最大の危機管理訓練…絶対に、生き延びてやる!そして、必ず元の世界へ…!)莉央の瞳は、未来への微かな光を探して、闇に沈みゆく森の奥を、射抜くようにしっかりと見据えていた。