悪役はどちらか分からない
恋とは、なんと脆いものだろうか。
指でそっと触れただけで砕けてしまう硝子細工のように――儚く、美しく、そして冷たい。
アイリス゠リオネルは、書斎の窓辺に静かに座っていた。
細工の施された銀のティースプーンをかちゃりと鳴らしながら、湯気の立つ紅茶を一口。
けれど、口の中には何の味も広がらない。ただ、苦味だけが残った。
「……愛、ですって?」
机の上に置かれた手紙の末尾を、もう一度なぞるように目を通す。
筆跡は整い、言葉遣いも丁寧だが、そこにあるのはただの裏切りだった。
リュカ゠ヴァレンタイン。
幼い頃より婚約を交わし、未来を約束されたはずの青年。
けれどその彼が今、他の令嬢との“恋”に目覚めたという。
あろうことか、その相手は――カミラ゠シュタイナー。アイリスが親友と信じていた、あの娘だった。
恋に目を奪われ、真実を見失った者たち。
そして、愛を盾に人を傷つける者たち。
「……盲目なのは、あの人たちの方よ」
アイリスは、静かにカップを置いた。
その瞳には、もはや涙ひとつ浮かんでいなかった。
社交界において、噂は炎のように広がる。
些細な火種でさえ、誰かの耳に届けば、油を注がれたかのように燃え上がる。
真偽などどうでもいい。ただ、面白ければそれでいい――それがこの世界の掟だった。
「リュカ゠ヴァレンタイン様が、あのシュタイナー家の令嬢と?」
「ええ。舞踏会の夜に、ふたりきりで庭を歩いていたとか……」
誰かの憐憫を装ったその言葉に、どれほどの嘲笑が混ざっているか。
アイリスでさえ、もはや正確に聞き取れない。
彼女は小さく息をつき、手にしていた本を静かに閉じた。
読みかけだったはずの頁も、もはや追う気すら起きない。
紅茶の香りは冷め、窓の外では鳥が一声だけ啼いた。
その静寂の中で、アイリスはそっと瞳を閉じた。
いずれこの“噂”は真実となり、彼自身の口から語られるだろう。
そのときに私は笑っていれば良いのだ。
◇
重苦しい沈黙が、応接室を包んでいた。
壁に掛けられた時計の針が、やけに大きな音を立てて進む。
アイリス゠リオネルは、ただ黙って椅子に座っていた。
扉が開き、リュカ゠ヴァレンタインが姿を現す。
彼はどこか気まずそうな顔をしていたが、同時に“けじめを果たしに来た”というような自己満足にも満ちていた。
「……今日は、正式に伝えに来た。アイリス、僕は……婚約を解消したい」
「ええ」
アイリスは微動だにせず、淡々と返す。
「本当に、すまないと思ってる。君は何も悪くない。ただ……カミラとの関係を、真剣に考えていて」
「ご説明、不要ですわ」
彼女は、にこりともせずに言った。
「私から言えるのは、ただ一つ――見誤ったのは、私ではありません」
その言葉がチクリとリュカの心に刺さった。
ヴァレンタイン家の使者が去ったあと、屋敷の空気は静まり返っていた。
けれどその沈黙は、敗北を意味するものではない。
むしろ、風が止んだあとの静寂――嵐の前の予兆だった。
アイリスは、ゆっくりと席を立ち、窓辺へと歩く。
カーテンの隙間から差し込む陽光に照らされて、白い指先が冷たく光った。
「……あの程度で、“勝った”と思っているのなら、救いようがないわね」
呟きは誰に向けたものでもなく、けれど、確かな意志があった。
部屋の隅に控えていた女官が、静かに一歩前に出た。
「お嬢様……本当に、よろしかったのですか?」
「何の事かしら?」
「……なにも仰らずに、あの方をお帰しになったことです」
アイリスはわずかに笑う。
「言葉などいらないわ。あの人は私の人生を奪っていった。それ相応の報いを受けさせるだけよ」
女官の視線が、不安と敬意に揺れる。
「記録室の者に伝えて。シュタイナー家の財務記録と、カミラ嬢の寄進状況を精査するように」
「……承知いたしました」
すでにアイリスは、“シュタイナー家が社交界で生き残るために隠しているもの”の存在を知っていた。
そして、そこに“正義という名の刃”を振るう余地があることも。
だが、彼女は黙っていた。
理由はひとつ。
そのとき彼女は、まだリュカの婚約者だったからだ。
例え愚かだとしても、かつての彼に向けた想いに、アイリスは最後の一線を守ろうとしたのだ。
それが、かつての“恋”だった。
盲目で、脆く、そして――甘い幻想。
――だが、今は違う。
もう誰かに気を遣う必要などない。
守るべき絆も、配慮すべき面影も、とうに手のひらからこぼれ落ちた。
残されたのはただひとつ。
愛という名で人を騙し、踏みつけた者に、“代償”を支払わせること。
「……カミラ。あなたには、一つだけ感謝しているのよ」
壁に掛けられた肖像画に目をやりながら、アイリスはごく低い声で言った。
「あなたが“恋”という幻を壊してくれたおかげで、私はようやく、目を覚ますことができた」
紅茶はもう飲めたものではなかった。
けれど今の彼女にとって、それはどうでもいいことだった。
◇
夜会の会場は、金糸の装飾がきらめく華やかさに包まれていた。
クリスタルのシャンデリアが天井から光を放ち、貴族たちは絹と香水の波の中で優雅に言葉を交わす。
その中心近くにいたのは、シュタイナー伯爵令嬢――カミラ。
いつも通りの笑顔を湛え、周囲には貴族子息たちが列をなしていた。
だがその笑顔は、どこか硬い。
視線の端に、幾人かの婦人たちがひそひそと囁き合う気配があったからだ。
「……シュタイナー家の噂聞きました?」
「ええ、驚きましたわ。あの家、表向きは堅実だと聞いていたのに……」
あの時のように、噂は確実に広がっていった。
カミラの頬が、わずかに引きつる。
扇子で口元を隠しながら、笑顔を崩さずにいたが――冷や汗は、衣擦れの下で確かに滲んでいた。
そして、その噂の“発信源”が、誰かなど――カミラ自身が一番よく分かっていた。
ふと、視線の先。
人だかりの奥に、アイリス゠リオネルの姿があった。
白銀のドレスに、緋のルビーを一粒だけ添えて。
控えめな装いにもかかわらず、彼女が立つだけで、その場の空気は変わった。
気品と威厳をまとい、けれど微笑み一つ浮かべず――ただ、静かに舞踏会を遠目から見つめていた。
カミラの背筋に、冷たいものが這い上がる。
今夜は一体何があるのか、と。
理由もなく不安になるなど、本来の彼女では考えられなかった。
だが、あの銀のドレスを纏った女が視界に入った瞬間から、心がざわついて仕方がない。
アイリスは何もしていない。
ただ立っているだけだ。
言葉を交わしたわけでもなければ、視線すら合っていない。
なのに――息苦しい。
音楽が鳴り響く。
舞踏会はまだ終わらない――そのはずだった。
だが、次の瞬間、会場の隅でささやかれた小さな一言が、決定的な火種となった。
「……あれ、シュタイナー家の領地、今月だけで二件も担保に入ってるらしいわよ」
「ほんとう? あの家、そこまで追い詰められていたの……?」
ざわり、と空気が揺れた。
その場にいる誰もが表向きの顔を保ちながら、水面下で何かが崩れ始める音を感じ取っていた。
カミラの扇子が、かすかに震える。
笑顔を保てない。呼吸も、姿勢も、ままならない。
――どうして? なぜ今、こんなことが?
問いを繰り返す彼女に答える者はいない。
だが心の奥では、答えなど最初から分かっていた。
「……カミラ」
背後から、声がした。
振り返れば、そこにいたのはリュカ゠ヴァレンタイン。
彼の顔にも、余裕はなかった。目の下には薄い隈が浮かび、表情には迷いがにじんでいる。
「大丈夫か……?」
カミラは返事ができなかった。
代わりにリュカの方が、言いかけた言葉を呑み込んだように口を閉ざす。
彼もまた、気づいていた。
ここにいる誰もが、自分たちを見ていることを。
誰一人、助けの手など差し伸べようとしないことを。
――彼らは、孤立していた。
甘い言葉で未来を選び取ったはずが、気づけばすべての“信用”を失っていた。
そんな彼らの視界の先。
会場の中央を静かに歩く、ひとりの女性がいた。
アイリス゠リオネル。
彼女は誰とも言葉を交わさず、ただ静かに出口へと向かっていく。
この舞踏会は、いずれ地獄と化すだろう。
けれど、それはアイリスには何の関係もなかった。
知ったことではない。
もはや彼女の中に、“彼ら”に向ける感情など一片も残っていないのだ。
これは、恋に溺れた者たちが生んだ結末なのだから。