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悪役はどちらか分からない

作者: 入多麗夜
掲載日:2025/05/10

 恋とは、なんと脆いものだろうか。

 指でそっと触れただけで砕けてしまう硝子細工のように――儚く、美しく、そして冷たい。


 アイリス゠リオネルは、書斎の窓辺に静かに座っていた。

 細工の施された銀のティースプーンをかちゃりと鳴らしながら、湯気の立つ紅茶を一口。

 けれど、口の中には何の味も広がらない。ただ、苦味だけが残った。


「……愛、ですって?」


 机の上に置かれた手紙の末尾を、もう一度なぞるように目を通す。

 筆跡は整い、言葉遣いも丁寧だが、そこにあるのはただの裏切りだった。


 リュカ゠ヴァレンタイン。

 幼い頃より婚約を交わし、未来を約束されたはずの青年。

 けれどその彼が今、他の令嬢との“恋”に目覚めたという。

 あろうことか、その相手は――カミラ゠シュタイナー。アイリスが親友と信じていた、あの娘だった。


 恋に目を奪われ、真実を見失った者たち。

 そして、愛を盾に人を傷つける者たち。


「……盲目なのは、あの人たちの方よ」


 アイリスは、静かにカップを置いた。

 その瞳には、もはや涙ひとつ浮かんでいなかった。


 社交界において、噂は炎のように広がる。


 些細な火種でさえ、誰かの耳に届けば、油を注がれたかのように燃え上がる。


 真偽などどうでもいい。ただ、面白ければそれでいい――それがこの世界の掟だった。



「リュカ゠ヴァレンタイン様が、あのシュタイナー家の令嬢と?」

「ええ。舞踏会の夜に、ふたりきりで庭を歩いていたとか……」


 誰かの憐憫を装ったその言葉に、どれほどの嘲笑が混ざっているか。

 アイリスでさえ、もはや正確に聞き取れない。


 彼女は小さく息をつき、手にしていた本を静かに閉じた。

 読みかけだったはずの頁も、もはや追う気すら起きない。


 紅茶の香りは冷め、窓の外では鳥が一声だけ啼いた。

 その静寂の中で、アイリスはそっと瞳を閉じた。


 いずれこの“噂”は真実となり、彼自身の口から語られるだろう。


 そのときに私は笑っていれば良いのだ。




 ◇




 重苦しい沈黙が、応接室を包んでいた。

 壁に掛けられた時計の針が、やけに大きな音を立てて進む。


 アイリス゠リオネルは、ただ黙って椅子に座っていた。


 扉が開き、リュカ゠ヴァレンタインが姿を現す。

 彼はどこか気まずそうな顔をしていたが、同時に“けじめを果たしに来た”というような自己満足にも満ちていた。


「……今日は、正式に伝えに来た。アイリス、僕は……婚約を解消したい」

「ええ」

 アイリスは微動だにせず、淡々と返す。


「本当に、すまないと思ってる。君は何も悪くない。ただ……カミラとの関係を、真剣に考えていて」

「ご説明、不要ですわ」

 彼女は、にこりともせずに言った。


「私から言えるのは、ただ一つ――見誤ったのは、私ではありません」


 その言葉がチクリとリュカの心に刺さった。


 ヴァレンタイン家の使者が去ったあと、屋敷の空気は静まり返っていた。

 けれどその沈黙は、敗北を意味するものではない。

 むしろ、風が止んだあとの静寂――嵐の前の予兆だった。


 アイリスは、ゆっくりと席を立ち、窓辺へと歩く。

 カーテンの隙間から差し込む陽光に照らされて、白い指先が冷たく光った。


「……あの程度で、“勝った”と思っているのなら、救いようがないわね」


 呟きは誰に向けたものでもなく、けれど、確かな意志があった。


 部屋の隅に控えていた女官が、静かに一歩前に出た。


「お嬢様……本当に、よろしかったのですか?」

「何の事かしら?」

「……なにも仰らずに、あの方をお帰しになったことです」


 アイリスはわずかに笑う。


「言葉などいらないわ。あの人は私の人生を奪っていった。それ相応の報いを受けさせるだけよ」


 女官の視線が、不安と敬意に揺れる。


「記録室の者に伝えて。シュタイナー家の財務記録と、カミラ嬢の寄進状況を精査するように」


「……承知いたしました」


 すでにアイリスは、“シュタイナー家が社交界で生き残るために隠しているもの”の存在を知っていた。


 そして、そこに“正義という名の刃”を振るう余地があることも。


 だが、彼女は黙っていた。


 理由はひとつ。

 そのとき彼女は、まだリュカの婚約者だったからだ。


  例え愚かだとしても、かつての彼に向けた想いに、アイリスは最後の一線を守ろうとしたのだ。


 それが、かつての“恋”だった。

 盲目で、脆く、そして――甘い幻想。


 ――だが、今は違う。


 もう誰かに気を遣う必要などない。

 守るべき絆も、配慮すべき面影も、とうに手のひらからこぼれ落ちた。


 残されたのはただひとつ。


 愛という名で人を騙し、踏みつけた者に、“代償”を支払わせること。


「……カミラ。あなたには、一つだけ感謝しているのよ」


 壁に掛けられた肖像画に目をやりながら、アイリスはごく低い声で言った。


「あなたが“恋”という幻を壊してくれたおかげで、私はようやく、目を覚ますことができた」


 紅茶はもう飲めたものではなかった。

 けれど今の彼女にとって、それはどうでもいいことだった。


 


 ◇




 夜会の会場は、金糸の装飾がきらめく華やかさに包まれていた。

 クリスタルのシャンデリアが天井から光を放ち、貴族たちは絹と香水の波の中で優雅に言葉を交わす。


 その中心近くにいたのは、シュタイナー伯爵令嬢――カミラ。


 いつも通りの笑顔を湛え、周囲には貴族子息たちが列をなしていた。

 だがその笑顔は、どこか硬い。

 視線の端に、幾人かの婦人たちがひそひそと囁き合う気配があったからだ。


「……シュタイナー家の噂聞きました?」

「ええ、驚きましたわ。あの家、表向きは堅実だと聞いていたのに……」


 あの時のように、噂は確実に広がっていった。


 カミラの頬が、わずかに引きつる。

 扇子で口元を隠しながら、笑顔を崩さずにいたが――冷や汗は、衣擦れの下で確かに滲んでいた。


 そして、その噂の“発信源”が、誰かなど――カミラ自身が一番よく分かっていた。


 ふと、視線の先。

 人だかりの奥に、アイリス゠リオネルの姿があった。


 白銀のドレスに、緋のルビーを一粒だけ添えて。


  控えめな装いにもかかわらず、彼女が立つだけで、その場の空気は変わった。


 気品と威厳をまとい、けれど微笑み一つ浮かべず――ただ、静かに舞踏会を遠目から見つめていた。


 カミラの背筋に、冷たいものが這い上がる。


 今夜は一体何があるのか、と。


 理由もなく不安になるなど、本来の彼女では考えられなかった。

 だが、あの銀のドレスを纏った女が視界に入った瞬間から、心がざわついて仕方がない。


 アイリスは何もしていない。

 ただ立っているだけだ。

 言葉を交わしたわけでもなければ、視線すら合っていない。


 なのに――息苦しい。


 音楽が鳴り響く。

 舞踏会はまだ終わらない――そのはずだった。


 だが、次の瞬間、会場の隅でささやかれた小さな一言が、決定的な火種となった。


「……あれ、シュタイナー家の領地、今月だけで二件も担保に入ってるらしいわよ」

「ほんとう? あの家、そこまで追い詰められていたの……?」


 ざわり、と空気が揺れた。

 その場にいる誰もが表向きの顔を保ちながら、水面下で何かが崩れ始める音を感じ取っていた。


 カミラの扇子が、かすかに震える。

 笑顔を保てない。呼吸も、姿勢も、ままならない。


 ――どうして? なぜ今、こんなことが?


 問いを繰り返す彼女に答える者はいない。

 だが心の奥では、答えなど最初から分かっていた。


「……カミラ」


 背後から、声がした。


 振り返れば、そこにいたのはリュカ゠ヴァレンタイン。

 彼の顔にも、余裕はなかった。目の下には薄い隈が浮かび、表情には迷いがにじんでいる。


「大丈夫か……?」


 カミラは返事ができなかった。

 代わりにリュカの方が、言いかけた言葉を呑み込んだように口を閉ざす。


 彼もまた、気づいていた。

 ここにいる誰もが、自分たちを見ていることを。

 誰一人、助けの手など差し伸べようとしないことを。


 ――彼らは、孤立していた。

 甘い言葉で未来を選び取ったはずが、気づけばすべての“信用”を失っていた。


 そんな彼らの視界の先。

 会場の中央を静かに歩く、ひとりの女性がいた。


 アイリス゠リオネル。


 彼女は誰とも言葉を交わさず、ただ静かに出口へと向かっていく。


 この舞踏会は、いずれ地獄と化すだろう。


 けれど、それはアイリスには何の関係もなかった。


 知ったことではない。


 もはや彼女の中に、“彼ら”に向ける感情など一片も残っていないのだ。


 これは、恋に溺れた者たちが生んだ結末なのだから。

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