表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

響と学校の怪談

作者: 折田高人

 冷え冷えとした夜の空気。新円の月から青白い光が窓へと注ぎ込む。

 ここは私立堅洲高等学校。学力か経済に問題を抱えていないと選択肢に入らないと受験生達に話題の悪評高き学び舎である。

 闇が支配する校舎の中、明るく輝く部屋一つ。閉ざされたその扉を開け放ち、この学園の教師である新田秀吉は眉を顰めた。

「おいお前ら。とっとと起きろ」

 パンパンと手を打ち鳴らしながら、電気をつけっぱなしのまま部室で寝ていた三人の女生徒を目覚めさせる。

「んあ。新田せんせ? 何で家に?」

「まだ寝ぼけてるな。大鷲、ここは部室だ。寝るんだったら帰ってからにしろ」

「え? あ、ホントだ」

 寝ぼけ眼を擦りつつ、大鷲空は立ち上がった。

 突っ伏していた机の上には無数の資料。過去、この学校で発生した怪奇現象についてのまとめである。それらを鞄に急いで詰め込み、慌てて部室を後にする。

「気をつけて帰れよ。堅洲の夜は物騒だからな」

「分かってるって。じゃーねー、せんせ」

 親友二人と廊下を歩いていた空が階段に差し掛かったその時だった。

 月明かりに照らされて、黒い、くねくねした奇妙な何かが空達に先んじて階段を下りていく。

「海、陸、今の見た?」

「見た見た。何だありゃ?」

「何が何だか分からない。それを解明するのが私達ではなくて?」

「そうだよね! 気になるよね! ある意味、寝過ごしてよかったかも!」

 好奇心に目を輝かせた三人は、その奇妙な何かを追いかけて階段を下りていく。

 ずるずると階段を滑るように降りていく黒い何か。どうにも形が定まらない。

 階段の奥へと消えて行くそれを、気付かれないように追跡していた空だったが。

「あれ? いない?」

「どこ行ったんだ?」

 階段の踊り場で、唐突にその何かを見失った。

 どうにもおかしい。踊り場には大鏡が設置されている。つい先程まで、黒い何かはその鏡に映っていたのだが。

 陸が下の階を覗き込む。やはりいない。まるで、この踊り場で姿を消したように思える。

 三人の目の前には大鏡。納得がいかないと言わんばかりに、空は鏡面に手を触れた。


「お願い響ちゃん! 手を貸して!」

 長くはない休み時間。次の授業の準備をしようと机を漁っていた宮辺響の前で、手を合わせて頼み込むのは一人の少女。大鷲空だ。

 オカルト研究部の部長を務めているこの少女は、日夜堅洲で起こった怪奇現象を調べて回っていた。とりわけ、この学び舎で起こった怪奇現象に興味が有るようだ。

 この堅洲高校では部活動として認められるには最低でも四人の部員が必要である。

 オカルト研究部の設立には、随分と困難が伴った。何せ、普通に暮らしているだけで怪奇現象に鉢合わせる堅洲町である。実害の報告も珍しくない以上、自ら進んで怪異に関わろうとする人間は殆どいなかった。

 そんな中、空が目を付けたのが響であった。生徒や教師から報酬ありきで面倒ごとを引き受けている彼女を、学食の食券数枚で部員として雇ったのである。

 響としてはあくまで名前を貸しただけであり、普段は空達と行動を共にしてはいなかった。

 よって、直接手を貸してくれと頼まれたのはこれが初めてである。

 普段は響のプライベートを尊重してくれているだけに、珍しい事もあるものだ。

「それで空さん、今度はどんな不思議と出会ったのですか?」

 響の隣で様子を伺っていた滋野妃が会話に割り込んできた。金糸の様な艶やかな髪に吸い込まれるような青い瞳。高校生離れしたプロポーションの絶世の美少女である。

 世界有数の大財閥の令嬢である彼女は、普段は礼儀正しく分別のある行動を心掛けているのだが。

 一代で大財閥を築き上げた祖父の不思議な冒険譚を聞いて育った彼女は、目の前に怪異をぶら下げられると好奇心に駆られて周囲が見えなくなる悪癖があった。

 響を雇い入れる前、空達は妃がオカルト好きと聞いて勧誘してみたものの、祖父の様な冒険家になるために部活に縛られず色んな体験をしてみたいと断られたのである。

 実際、妃は様々な部活に手を貸している。オカ研にも興味を持ってあれこれ協力してはくれるものの、特定の部活に腰を据える気はないようだった。

「まあまあ、落ち着きなさいな妃さん。慌てなくても七不思議は逃げやしないわ」

 眼鏡をクイッとさせながら、鮫島海が笑みを浮かべる。本人はクールに決めてるつもりなのだろうが、緩んだ唇が早く不思議を喋りたいと言葉以上に語っている。

「今年二十八番目の七不思議……そ~れ~は~」

 悪戯っぽい笑みを湛えた少女、豹野陸が溜めに溜めて妃を焦らす。

 それにしても、二十八番目の七不思議とはいくら何でも盛りすぎだった。熊さんの所の四天王ですら一人多いだけですんでいるのに。

「真夜中の学校に現れる怪生物! 闇夜に踊る黒い不定形の正体とは!」

「正体とは? 何ですの何ですの?」

「それを調べるために手を貸して欲しいんだよ」

 何でも、空達は昨日の夜にその怪生物に遭遇したらしい。階段で付け回していたのだが、踊り場の途中で消えてしまったとの事だった。

「だからさ、今度は上下で挟み撃ちしようってわけ! 一人だと危ないかもしれないからさ、どうしてももう一人、人手が欲しいんだよ! そうすれば、一階と三階にそれぞれ二人で待ち伏せできるからさ!」

「それでもあの怪物が昨日のように姿を消す様な事があれば、いよいよ響さんの力が必要ってわけ!」

「妃ちゃんから聞いてるよ。響ちゃんってオカルトに詳しんでしょ? ぜひ、その知恵を貸して欲しいな~って……どうかな?」

 響は思う。正直、めんどくさい。所詮名前を貸しただけ。それだけで食券の義理は果たしている。それ程彼女達と交流がある訳でもなし、自ら怪異に近付いたせいで危機に陥ったとしてもそれは自己責任だ。

 そんな感情を飲み込みつつ、隣を見る。妃の瞳がキラキラと輝いていた。

「本当にこの学校に入って正解でしたわ! 中学校では七不思議は七つしかありませんでしたのに! 四倍、四倍ですわ!」

 こうなると思っていたのだ。例え響が断ったとしても、この好奇心旺盛なお嬢様が空達に手を貸すのは目に見えている。挟み撃ちに必要な人手はあと一人。その条件を満たすだけならば、別に響でなくても空達は構わないだろう。

 流石にこれは放っては置けない。彼女の祖父には借金以外にも借りがある。何より、妃は大切な親友だ。全力を持って守らねばならない。

 響は溜息をついた。


 新田は今宵も深夜の見回りを行っていた。彼の目の前には昨日と同じオカ研の部室。今日も今日とて明かりが点いている。

 また寝過ごしでもしたのかと中を確認してみると、三人のオカ研部員は帰り支度をしていた。

「おいお前ら。もう登校時間はとうに過ぎてるぞ?」

「あっ、先生。ごめんごめん、今日も寝過ごしちゃってさ。でも、起こされる前に起きたから堪忍して!」

 空が手にした大量の資料を鞄に収めているのを見て、新田は肩を竦める。

「また調べものか……熱中できるものがあるのは結構。だが、程々にしておけ。堅洲の夜は……」

「マジでヤバいからな」

 新田の言葉を引き継いだのは、既に帰り支度を済ませたらしい響であった。

「宮辺に滋野……手伝いか?」

「ちょいと面倒ごとを頼まれて帰りが遅れてな。ここを通りかかったらオカ研の連中、爆睡してやんの。だから叩き起こしたってわけだ」

「そうか。世話をかけるな」

 新田は響の言葉を疑いもせずに受け取る。新田自身も響に雑務を頼む事が多いため、彼女の帰りが遅れても特に不審に思わなかったようだ。

「早く帰れよ」と彼女達を促して新田は見回りに戻る。

「ふふふ。嘘をついてこの場を切り抜けるなんて、響さんったら悪い子」

「人聞き悪いな。別に嘘は言ってねーだろ? 面倒ごとはこいつ等から頼まれたし、それが終わったとも言っていない。夜活動するために体力を温存するとか言って寝ていたこいつらを起こしたのも事実だしな」

「あら。ここを通りかかったというのは?」

「いつ、とは言ってないだろ?」

 妃は苦笑しながら手にしていた過去の怪奇事件の資料を空に返却する。

 準備が済んだ空は、廊下を覗き込む。無人となっている事を確認し、にんまりと笑った。

「さあ、不思議を解き明かす時間が来たよ! 早速探しに行こうじゃない!」

「「「おーっ!」」」

 オカ研に混ざって拳を振り上げる妃。その視線が響に向いた。

「あら、響さんは一緒にやりませんの? ほら、おーっ!」

「おー……」

 適当に話を合わせつつ、呆れた様子を見せないように響は顔を窓に逸らせた。

 月光が校庭を照らしている。人気はない、はずだった。

「で、挟み撃ちにするために内訳なんだけど……」

「私と妃が一階、お前らが三階だ。そっちで怪物を見かけたなら、無理に追わずこっちに連絡をよこせ。着信音は無しにしとけよ」

 急に真面目な顔で話を遮りグループ分けを決めた響を見て、妃は嬉しそうに微笑む。

「早速やる気になってくれましたわね! 気合というのも馬鹿に出来ませんわ!」

「とっと一階に行くぞ」

 そう言って、響は妃の手を取り早足で歩き出す。

「皆さん、御武運を祈ってますわ~!」

「頑張ってね~!」

 空の声援を背に受けて、二人は階段の下へと消えて行った。


 たどり着いた一階の廊下は静寂が支配していた。

「……誰も居ないな」

「ですわね。一体、怪物さんはどこに居らっしゃるのでしょう?」

「謎生物の事もあるんだがな……」

「どういう事ですの?」

「さっき、窓の外を見たんだがな。誰かが校門に立ってた。正確な姿は分からなかったんだが、校内に入っていくのだけは確認できた」

「まあ。どなたでしょう?」

「さあな。うちの学校の関係者か、そうでなければ不審者か……ただ、怪異がどこをうろついているかも分からない校内だ。忠告くらいはしておいた方がいいと来てみたんだが……」

 目の前の昇降口には誰も居ない。果たして、あの人影はどこに消えたのか。

「まあ、考えても埒が明かないか」

「そうですわね。とりあえず、一階を探して回りましょう」

「怪物か侵入者、どっちかくらいは捕まればいいがな」

 静まり返った廊下に、少女二人の足音だけが響く。

 途中で擦れ違いそうになった新田の目を何とか誤魔化しつつ、一階を一通り調べたのだが。

「変わった所は無し、と」

「やっぱり三階に居るんでしょうか?」

「さあな。アイツらから連絡が無い以上、分からないが……二階も探索してみるべきか?」

「そうしましょう!」

 夜の校舎の探索という非日常にテンションが上がりっぱなしの妃を引き連れ、昇降口へと戻ってきたその時だった。

 夜闇に紛れて見逃しそうになったが、確かにそれは存在した。黒いタール状の奇怪な物質が、意志を持つかのように蠢いている。

 響が早速、三階の三人に連絡をしようと携帯に手を伸ばそうとして、背筋に感じる悪寒に気が付く。

 何時の間にか、背後にも黒い不定形の生物が姿を現していた。それだけではない。月光が微かに差し込まれている昇降口には、無数の影。

「囲まれた……!」

 響と妃の周囲から、怪物がじわじわとにじり寄ってくる。

 包囲網が狭まり追い詰められながら、響は頭を働かせていた。

 妃を自分の方に抱き寄せる。足を地面に向けてトン、トンと踏み鳴らした。

 逃げ場の無くなったと見て取ったのだろう。怪物の一匹が飛び掛かってくる。

 その瞬間を見逃さず、響は自分の足下……影の中に合図を送ろうとして……。

「きゃっ!」

 妃の目の前で火花が舞った。飛び掛かってきた怪物は空中で壁に阻まれたかのように弾かれ、地面に転がる。

 思ってもいない展開に響が目を丸くしていると、昇降口の入り口から聞きなれない呪文が夜風に乗って耳に届く。

 響は足下を確認すると、自分達と怪物とを遮るかのように淡い光の線が輝いていた。魔術による結界だ。

 怪物の一匹が、後方を確認したように思えた。月を背にした影法師。手で印を刻みながら、怪物達の前に立ち塞がっている。

 邪魔をされた事に激昂したのだろうか、怪物が影に飛び掛かる。瞬間、月光を反射して白銀が煌めいた。

 真っ二つになった怪物だったが、即座に一つに集まり元に戻る。どうやら不定形のその姿は伊達ではなく、物理的な攻撃は通用しないらしい。

 しかし、怪物達には明らかな動揺が見て取れた。突如現れた闖入者に体勢を立て直そうとでもしたのだろうか。不定形の怪物達は滑る様な動きで階段へと逃げていく。

 慌てて追いかける響だったが……いない。階段の踊り場にある鏡には、あの怪物達の姿は映っていなかった。

 とりあえず危機は去ったようだ。

 怪物の事も気になるが、自分達を助けた闖入者の事も気になる。

 日本刀を手にしながらこちらに歩いてきた影の正体は、響の知っている顔だった。

「バンバだっけ?」

「凡場だ凡場! いい加減に覚えやがれ!」

 凡場久秀。響の中学生時代の同級生だった。

 天ヶ瀧町で名の知れた不良であったのも過去の話、妃に絡んでデートという名の心霊体験ツアーに参加させられてからはすっかり大人しくなったと聞いていたのだが。

 そんな男がどうして魔術なんぞを使いこなしているのか、響には全く理解が出来なかった。

「まあまあまあ! 凡場様、お久しゅうございますわ! して、その不思議な力はどのようにして?」

「畜生! やっぱり食いつきやがった!」

「教えてくださいまし! 前のデートではそんな力を使っていませんでしたのに!」

「色々あったんだよ色々! 寄るな来るな引っ付くな!」

 好奇心たっぷりに食い寄る妃に凡場は頭を抱える。

 この好奇心の塊と付き合ったばかりに、凡場は呪われる羽目になったのだ。

 宝嶺寺で除霊してもらったものの、そこの住職に自分が霊を引き付けやすい体質だと言われ、やむにやまれず魔術の修業なんぞをする事となったのである。

 そんな訳で、凡場としてはこの財閥令嬢には関わり合いになりたくなかった。自分の人生を捻じ曲げた妃がすっかりトラウマになっていたのである。

「まあ、色々あったんなら何で魔術を使えるのかは聞かないさ。だが、お前は何でここに来た? あの化け物共の事を知っているのか?」

 何とか妃から距離を取りつつ、凡場は響の問いに答える。

「知らねーよ。そもそも、ここに来るつもりはなかった。神社からの帰り道で偶然通りかかっただけだったんだが、藤の奴が反応してな。何が気になるのか散策していたら、お前らが変なのに襲われていたって訳だ」

「藤?」

「こいつだよ」

 凡場が手にした刀を響に見せる。微かな月光に照らされて、刃が白々と輝いている。素人目にも見事な刀だと感心して見ていると、途端にその柄に瞳が現れた。刀は見る見るうちに変化していき、やがて一匹の蛇へと姿を変えた。

「まあ! この方が藤さん? かわいらしい蛇さんですわね!」

 妃が蛇に一礼するが、蛇は妃を睨みつけるようにして凡場の腕に巻き付いた。まるで凡場は自分の物だと主張しているかのようだった。

「しかし神社か。また呪われでもしたか?」

「そうそう何度も呪われてたまるか。その為にしたくもねえ魔術の勉強なんてしてんだからな。神社に寄ったのはこいつを受け取るためだよ」

 そう言って鞄から取り出されたのは、奇妙な鏡。大きく口を開いた蟇を模したと思われる縁。丁度口の部分にはめ込まれた鏡が、覗き込む響を映している。

「何だこれ?」

「封神鏡っていってな……」

 凡場の話を聞いていると、ドヤドヤとした話し声と共に階段からオカ研の三人が下りてきた。

「お~い! 怪物見つかった~?」

「全然連絡が来ないから、一旦顔を見せに来たわ……って、どちらさま?」

 海が凡場の事を訝しげに見ている中、妃は空に興奮した様子で早口でまくし立てていた。

「居ました居ましたわ確かにこの目で見ましたわさっきここで怪物さん達に取り囲まれましたのそこを凡場様が救ってくださって……」

「おお! 今日は一階に居たんだな! しかも達、って事は複数居んのか!」

 妃のマシンガントークに陸は目を輝かせた。

「これは驚きだな、部長!」

「うんうん! ますます興味がわいてきたよ!」

「いや、ここで引いとけよ。私ら、その怪物に襲われたんだぞ?」

「だったらなおさら、その怪物に対処しないと!」

「そうね部長! 第二、第三の犠牲者を出さないために、我らオカ研が謎を解き明かす時だわ!」

 響の意見もどこ吹く風で盛り上がる三人組。隣の妃もうんうんと頷いている。さっき襲われたばっかりだというのに、全く堪えていない様子だ。

「つうても、実害ありそうなんだろ? こいつ等の言う通り、犠牲者が出る前に何とかした方がいいんじゃねえのか?」

「……お前、あれを何とか出来るのか?」

「いくつか効きそうな魔術は齧っている。お前はどうだ宮辺?」

「同じく。ただ、一人じゃきついな」

「了解した。手伝おう。あんなのが校内を徘徊してたんじゃ、おちおち学校生活も送れないからな」

「で、だ。お前ら、階段で怪物共と顔を合わさなかったか?」

 オカ研の三人組は首を横に振る。

「私達は見ていませんね」

「だな。だけど、あたしら途中で二階を覗いてきたからな……入れ違いになったかも?」

「怪物、追えなかったの?」

「ああ。階段に逃げたのは確かだがな。そんな時間かけた訳でもないのに、居なくなってた」

 そう言って響が階段を見上げていると、足元を藤が這っていった。

「わ! へ、蛇?」

 驚いている空達を後目に、藤は踊り場の鏡の前で鎌首をもたげた。そして……

「え、え、え~?」

 空達が目を見開いている。

 藤が鏡の中へとスルスルと身をくねらせて入っていったのだ。

 凡場が相棒の蛇を追って鏡に手を付くと、まるで水面に手を入れたかのように鏡の中に吸い込まれて行く。

 一旦手を引き抜くと、その手には藤が絡まっていた。

「どうやらあいつらはここに逃げ込んだようだな……よし、お前ら。宮辺を残してここで待機して……」

「うお~! 怪物の巣穴発見! 皆の者続け! 突撃だ~!」

「「「わあ~!」」」

 凡場の話を遮って、鏡の中に突入する三馬鹿とお嬢様。

 妃を見失ってなるものかと、響も躊躇なく飛び込んでいく。

「お前ら話聞け!」

 好奇心の赴くままに行動する連中に振り回されるまま、凡場もその後を追うのだった。


 鏡の先にあるものは見事な庭園だった。黒い太陽が照らす薄明かりの中、色とりどりの花が咲き誇っている。中央にある噴水が、冷たい飛沫を周囲に放っていた。

 目の前には西洋屋敷。普段なら感嘆すべき見事な洋館も、天より投げかけられる黒く異様な光と、空を飛び交う蝙蝠の群れとが相まって、近寄りがたい不気味さに支配されている。

 明らかに現実世界ではない。そんな異様な光景に、響と凡場は眉を顰める。その一方。

「なになになに? あの怪物君、こんないい場所で暮らしているの?」

「あたし達の寮よりも凄くね! 羨ましいぜチクショー!」

 ワイワイと盛り上がりながら、警戒心もなくずけずけと屋敷に向かって進んでいく妃とオカ研部員達。

 迂闊に動くなと凡場が注意を上げようとしたが、時既に遅し。洋館の呼び鈴を律儀に鳴らし、「ごめんくださ~い!」との声がはもる。

 果たして、その声には反応があった。扉がゆっくりと開け放たれ、妃達の目の前に明るく照らされた見事なエントランスホールが姿を現した。

「あら? 誰も出てこないわね?」

「入ってい~んかな?」

「開けてくれたって事は歓迎されてるんじゃない? お邪魔しま~す」

 空が躊躇なく足を踏み入れる。確認できる範囲は誰もいない。人影はおろか、あの怪物達の姿も見受けられなかった。

「怪物さん達、どこに行ってしまわれたのでしょう?」

 空達に続いて館に入った妃が首をかしげた。

「おいお前ら、あんまり勝手に行動するな!」

 周囲を警戒している響に代わり、凡場が妃達を連れ戻そうと扉に近付いたその瞬間。

 バタン! 扉が閉じられる。

 背後で生じた大きな音に、妃達が慌てて扉に駆け寄る。必死になってドアノブを捻るが、ガチャガチャと音を立てるばかりで開く気配が微塵も感じられない。

「え、嘘、閉じ込められた?」

 空達が慌てた様子を見せる中、妃は冷静に辺りを見回した。相も変わらず人気が無い。自分達が追い込まれたのかとも思ったのだが、いくら待っても怪物達は姿を現さなかった。

 余程防音がしっかりしているのだろうか。外からの声すら届かない。

 静寂が支配する中、エントランスの真ん中に鎮座する蝙蝠ともナマケモノともつかない奇妙な生物の彫像が、無言で佇む四人の少女を見下ろしていた。

「……誰も来ませんね」

「……どうする、部長?」

「どうするって……このままだと埒が明かないし、探索でもしてみる?」

「探索! 探索ですわね! ぜひしましょうそうしましょう!」

 自分達が危機的状況に陥っているというのにも拘らず、妃の好奇心は萎える事を知らないようであった。


 最初は四人集まって館の中をうろついていた妃達。しかし、まったく怪物と顔を合わす事も無い。その事実に多少大胆な気持ちになったのだろう、気が付けば一人ずつに分かれて家探しを行っていた。

 蛙を思わせる奇妙な生物の置物が無数に飾られている廊下。妃は通路に沿って続く扉を一つ一つ確認しながら館を周っていた。

「ここは……書斎ですわね!」

 幾つかの客間を経た後、妃は目的の部屋を見つけて目を輝かせた。

 響と行動を共にしてきた経験で、こう言った不思議な現象の解決には書物が不可欠な存在だと妃は信じ込んでいたのである。

 ずらりと並んだ書物の数々。日本語訳の聖書とその研究書が幾つか。蝋屈症や薬学に関する本。様々な医学書。北欧神話の英雄譚。ポーやポリドリ、ブラム・ストーカー等の著作物。

 殆どが日本語の書物の中、二冊ほどフランス語の書物が混じっていた。

「ジェヴォーダンの真実と……象牙の書?」

 象牙の書についての知識は妃にはなかったが、もう片方の書物に対しては閃くものがあった。

 ジェヴォーダンの真実という分厚い書物を流し読みしてみると、妃は思っていた通りの記述を見つける。

「やっぱり、ジェヴォーダンの獣の事ですわね」

 そうなると、ここの蔵書の傾向がはっきりと理解できる。

 生ける死者、早すぎた埋葬、人狼、そして吸血鬼。中世ヨーロッパの暗闇を跋扈していた夜の民についての知識が、この書斎に集まっているのだ。

 聖書を手に取る。何度も開かれたのが原因だろう、血は命との記述があるページが自然と開かれる。紙が挟んであった。

「死の克服について」と書かれたその紙には、他者の血を取り込む事で死を超越できるのでは、と走り書きされていた。

「となると……あの怪物さん達は吸血鬼の使い魔なのでしょうか?」

 それなら、自分達が襲われたのは血を吸うのが目的だったのだろう。

 とはいえ、吸血鬼があのような怪物を使役しているとは聞いた事も無かった。小説や映画などの創作によるイメージにすぎないとは理解しているものの、吸血鬼といえば蝙蝠や狼の方が使い魔として有名だ。

 果たして、あの怪物の正体は如何に。妃の興味はあの黒い不定形生物へと移っていく。

 もっと情報はないものか。ぎっしりと並べられた蔵書を確認してみるものの、死や人狼、吸血鬼が連想される本ばかりで、あの蠢くタールについては書かれていそうにない。

 大漁の本棚で手狭に感じる書斎の奥、妃は小さな机がぽつんと置かれているのを目にした。

 さっそく引き出しを順々に開けていくが、目ぼしいものは見当たらない。

 最後の引き出しに手をかける。何かが突っかかっているかのように、動かなかった。

「あら? 鍵がかかってますわね」

 引き出しには鍵穴が確認できる。しかし、鍵は見当たらず。

 妃は少し考えを巡らせた後、鞄からクリップを一つ取り出した。それを器用にまっすぐに伸ばし、鍵穴に当てて動かし始める。

「えーと、三上様が言うには確かこうやって……」

 聞きかじりの知識で行ったピッキングは、思っていた以上にあっさりと成功した。

 引き出しの中には分厚い日記帳。それを目にして、妃は得意げな笑顔を浮かべる。

「ふふふ。私にも悪い子の素質があるかもしれませんわね」

 早速日記を手に取って調べてみる……のだが。

「……読めませんわ」

 しっかりと暗号で記されていた。

 一応、薬草の名称や分量等は理解できたのだが、それ以外の事はさっぱり理解できない。

 よもや吸血鬼になるための儀式的な記述が載っているのかもしれないと、妃の胸が高鳴った。

 後で響に見せてみようと鞄に日記帳を潜ませると、扉の奥から空が顔を出す。

「妃ちゃん、来て来て! 凄いの見つけちゃった!」

「まあ、何ですの?」

「こっちこっち!」

 そそくさと書斎を後にして、妃が辿り着いた一室。

 扉の前では海と陸が早く早くと手招きをしている。

「ここここ! この中!」

「ん~……暗くて見えませんわね……」

 一見すると何の変哲もない客間に見えるのだが、確かに奥では何かが蠢いているように見える。

「明かりをつける訳にはいかないんだ。こっそり近付いてみて……気を付けて、こっそりとだよ……」

 空に促されるまま、妃は蠢く何かに近付いていく。やはり暗くて確認できない。

 目を凝らそうとしたその時、室内が急に明かりを取り戻した。同時に、目の前に存在するものの正体に気が付く。

 蠕動する黒い肉塊。それに全身が飲み込まれるような形で顔を出している三人の少女。不定形の怪物に取り込まれ、紅潮した頬と艶かしい吐息を洩らしていたのは、先程まで行動を共にしていたオカ研の三人に他ならなかった。

 だとすれば。自分をここに連れてきたモノはなんなのか。

 振り返った妃の先で、取り込まれている三人と瓜二つの顔がにたりと笑う。黒く変色し、輪郭が崩れていき、やがて姿を現したのは黒色の怪物達。

 声を上げる間もなく、妃は黒い肉塊に取り込まれた。


「くそ! 開かねえ!」

 凡場は必死になってドアノブを回しているが、扉は固く閉ざされたままだ。

 オカ研部員達はどうやってこの扉を開いたのだろうか。魔術に詳しくない彼女達との分断で、凡場の心に焦りが走る。

「そういやあいつら、きちんと呼び鈴ならしてたな」

「それだ!」

 同じく外に締め出される形となった響の言葉を聞き、凡場は呼び鈴を連打する。

「何とも喧しい男だな、貴様は……」

 唐突に、背後から声が響く。

 振り向いた凡場達の前には蝙蝠達が群れていた。

 それは一ヵ所に集まり、やがて黒い外套を纏った青年へと姿を変えた。

「何もんだ、手前は……」

 他人を見下すような不遜な眼差しを受けて、凡場は青年を睨み返す。

「最近の若造は礼儀を知らんらしいな。まあいい。我が名は歴山。無明の闇に住まう神に仕えし者」

「その歴山様がどんな要件だってんだ?」

 ふん、と鼻で笑う黒衣の青年。

「貴様なんぞに用はない。私が用があるのはそこのレディの方だ」

「レディ? 宮辺が?」

「おいなんだその目は潰すぞ」

 胡乱げな視線を響に向けて、凡場はぼそりと呟く。

「レディって言うか、レディース?」

「よし、潰す。誰が珍走団だ」

 人差し指と中指を立て双眸に狙いを定める響から顔を背け、凡場は再び青年と相対する。

「で、お前は宮辺にどんな用があるってんだ?」

「知れた事。我が喉の渇きをその血潮で潤す手伝いをしてもらう」

「……吸血鬼って奴か」

「陳腐な名称だが……まあ、低能そうな貴様には分かりやすかろう。如何にも我は吸血鬼。麗しき乙女の血潮で命を繋ぐ夜の民である」

「けっ。何をかっこつけてやがる。女のケツばっか狙う変質者風情がよ」

「随分と吠えるな小僧。それほどまでに我が怖いのか? 生憎我は忙しいのだ。貴様がここを去るというのなら見逃してやろう……もっとも、そこのレディだけは置いていってもらうがね」

「そりゃ有難い。そんならスタコラサッサとさせてもらいますか……って言いたいところだがな。人様に仇名す怪異を前にして逃げ出しちまうと、クソ坊主にどやされるんでな」

「我に勝てるとでも?」

「勝てる勝てないじゃねえ……勝つんだよ!」

 その言葉と共に駆け出し、凡場は右手を青年に突き出した。腕に絡まっていた藤が凡場の手に納まり、銀光鋭い日本刀へと姿を変える。歴山の心臓に目掛けての突きによる奇襲。

 歴山の胸に穴が開く。その穴を通す形で刀がすり抜けていた。

 穿たれた穴を中心に青年の姿が崩壊し、無数の蝙蝠が乱舞する。蝙蝠達は凡場から距離を取り、一ヵ所に集まって再び青年の姿へと変化した。

「ふん。随分と姑息な事だ。貴様が魔術師である事は我が眷属から報告を受けている。その程度のトリック、我には通用せん」

「その割には随分遠くに逃げたじゃねえか」

「何、急な来客だ。出迎えの準備をするにも時間が無かったのでね」

 そう言うと歴山は呪文を紡ぎ始める。邪魔をするには距離がありすぎる。守りのために自身も呪文を唱えようと考えた時、響が小声で語り掛けてきた。

(おい凡場。お前、あいつをどうにかできるか?)

(手はある。あるにはあるんだがな。あの身のこなし、隙を突かないとうまくいかねえ)

(私が援護する。幸い、あいつは私も魔術師だってことに気が付いていないようだ)

(隙、本当に作れるのか?)

(安心しろ。とっておきがある。だからお前はあの吸血鬼をどうにかする事だけを考えろ)

 凡場は素直に頷いた。歴山に遅れて唇から漏れる詠唱。当初の防御を目的とした魔術ではなく、攻めに転じるための呪文だ。

 歴山の詠唱が終了した。それと同時に、大地から湧き上がる三つの影。校舎で遭遇した不定形の怪物達だ。

 それと同時に、歴山は凡場へと一直線に駆け出した。

 詠唱を続けながらも、身構える凡場。擦れ違いざまに凡場が白刃を翻すが、歴山は人間とは比べ物にならない動体視力でそれを見極めぎりぎりで避ける。

 一撃を回避され慌てふためくその表情を横目に、歴山は凡場に手を出さずに後方へと姿を消す。

「言ったであろう。我は暇ではないと。せいぜい、我が眷属達と戯れているがよい」

 凡場の背に嘲笑を浴びせ、一足飛びで響の目前へと迫りくる歴山。品定めするよう、響を視線で嘗め回す。

「抵抗してくれるな、レディ。なに、悪いようには扱わん」

 それまでの疾走が嘘のように、静かな足取りで響に迫る。

 歴山の後方では、凡場が三体の使い魔相手に苦戦する姿が見て取れた。

 凡場の攻撃は不定形の怪物には効果が無いようで、何度切り刻んでもすぐさま元通りになってしまう。

「高々人間程度の魔術では、我が眷属は滅ぼせんよ」

 後方を確認して鼻で笑った後、歴山は再び視線を響に向けた。

 黒い太陽が足下に響と歴山の影を伸ばしている。

 歴山はすっかりと油断しているようだった。

(今が好機!)

 トン、と鳴らされる足音。

 次の瞬間、歴山の背筋に怖気が走った。

 振り返ろうとしたその矢先、何かに体を掴まれる。節くれだった古木の枝の様なものが、歴山の身体を締め上げていた。

 それが何かと考える余地もなく、突如として後方現れたそれが、歴山の身体を彼の眷属の一匹に向かって放り投げる。

 ぶつかりそうになった眷属が慌てて肉体を広げ、歴山を受け止める。

 突然の衝撃に混乱をきたす頭を落ち着かせ、歴山は漸く自身を襲った存在を確認できた。

 奇妙な生き物だった。一見すると樹にしか見えないその怪物が、裂けた口だけが確認できるのっぺらぼうな顔をこちらに向けている。そしてその上に鎮座するのは赤子ほどの大きさの幼女の姿。

「よ~し! あたし達の出番だ~! 芙蓉とあたしのコンビネーションが火を噴くぜ~! 突撃~!」

 その幼女……シオンの言葉に答えるように妖樹は一吠えし、歴山達に巨体を突っ込ませていく。

 混乱をきたした怪物達が我武者羅に怪物を押し留めようとするが、枝の様な巨大な腕で引き剝がされて投げ捨てられる。

 あの妖樹。頭の上に居る幼女が操っているのか。そう判断した歴山は己が魔力を腕に込め、跳躍。渾身の一撃をシオンの頭の上に振り下す。

 確実に仕留めた筈だった。眷属達が必死になって作った隙を見逃さずにはなった必殺の一撃。逃げ場など無い、そう確信した歴山だったが。

「下へ参りま~す」

 鉤爪が空を切る。狙い定めた筈の標的は、歴山の爪の下。視界の端に移ったのは、水底に沈むが如く影の中に消えていく妖樹と幼女の姿。

 体勢を崩し地面に激突する寸前、倒れていた眷属の一匹が敏捷な動きで歴山の下に滑り込み、衝撃を緩和する。

 歴山が身を起こそうとしたその瞬間、彼の視界に飛び込んできたのは自分に奇怪な鏡を突き付ける凡場の姿だった。

「俺の事を忘れてもらっちゃ困るぜ、吸血鬼様よお!」

 既に封神鏡を起動する術式は唱え終えていた。大きく開いた蝦蟇の口。はめ込まれた鏡が吸血鬼を捉えている。

 煌めく鏡面。刹那、鏡が凄まじい風を伴い歴山の身体を吸い込み始めた。そのまま歴山は鏡の中へと……送られる事はなかった。

 先程歴山を受け止めた献身的な眷属が、自身の身体を大きく広げて風を遮る。されど封神鏡の力には敵わず、そのまま鏡の中へ吸い込まれて行った。

「ちいっ!」

 鏡の中で蠢く怪物を見て、凡場は舌打ちをする。

 怪物達の親玉である歴山を仕留める事が出来なかった。

 封神鏡を起動させるための魔力は、もう鏡には残っていない。例え残っていたとしても、封神鏡の定員は一体までだ。もう、この戦いの最中では使えないだろう。

 よろよろと立ち上がる歴山を見て、凡場は影の中から再浮上してきた妖樹達と共に響を護るように立ち塞がる。

 歴山の表情は読めない。ただ、身体が微かに震えていた。見下してきた若造に追い込まれた事で、怒りが頂点に達したのだろうか。

(さて、ものの見事に失敗に終わった訳だが、どうするよ宮辺?)

(お前、もう手は残ってないのか?)

(魔術学んで一年も経ってないペーペーだぞ俺は。過大な期待はすんな)

(仕方ない。まあ、一体でも敵を減らせたなら上出来だ。後は私が何とかする)

(出来んのか?)

(お前みたいに外さなければな。あいつらを滅ぼせそうな魔術なんて、今の私の魔力じゃ一発が限度だ)

(正真正銘、最後の切り札か)

(まあな。問題は私が魔術師だって事にあいつが気付いたかどうか、だが)

 横目で自らを守るように立つ妖樹を見る。

 この妖樹……芙蓉は召喚した訳ではない。シオンに頼んで彼女の設けた影の中の空間で待機してもらっていただけ。呼び出す際も軽い合図を送っただけである以上、歴山は彼女らが凡場の呼び出した存在だと誤認している可能性がある。

 できれば隙は多い方がいい。こちらが無害な女性だという認識を持ち続けていてくれるならば、響としてはしてやったりなのだが。

(響、あたしらはどうする?)

(お前らはさっきと同じく暴れまわれ。でも余力は残しとけよ。館の中にもあのタール野郎が居る可能性が高いからな)

(合点承知!)

 小声での相談の最中、歴山は全く動かなかった。もしや呪文でも唱えているのかと耳を澄ましてみたが、聞こえてくるのは噴水の音だけだ。

 静寂は唐突に破られた。

 全く、何の前兆もなく歴山が飛び上がる。不意を突かれて驚愕している響達の下に舞い降りた歴山は、その勢いのまま大地に頭を差し出して。

「申し訳ありませんでしたあああ!」

 それはそれは見事な土下座を決めたのであった。

「我が神の使途とは知らずに何たるご無礼を! 平に! 平に~!」

 呆気にとられる一同の前で、歴山と眷属達は頭を何度も地面に打ち付けている。

(お前……変な宗教に嵌ったのか?)

(まだ目を付けられただけだ。嵌っちゃいない)

(でもこいつ、お前を使徒とかどうとか……)

(分かんねえよ。全く心当たりがねえ)

 凡場の顔色を伺うが如く、おずおずと顔を上げる歴山。向けられた視線は封神鏡に注がれている。その瞳には紛れもない畏怖の念が見て取れた。

(そいつか? その鏡が使途の証って事か?)

(らしいな。まさか拾い物の鏡にこんな効果があるとは思ってもいなかったがな)

(だとしたらやる事は一つだよなあ、黄門様?)

(控えおろうってか?)

 目配せを済ませた凡場は鏡を懐に忍ばせた。藤も日本刀から蛇の姿に戻る。戦闘意志が無い事を歴山に示しながら、凡場は語り掛けた。

「いや、こちらも悪かった。初めからこいつを示していれば余計な争いをせずに済んだんだからお相子だ」

「はは~!」

 深々と頭を下げる歴山。

「で、お前はここで何をしていたんだ?」

「はい。生きるための糧を求めて、つい先日この校舎に忍び込んだ次第でして……」

「やっぱり血が目的か。妃達は無事なんだろうな? もしあいつに何かあったら……」

 無表情で圧をかける響に対し、歴山は慌てて首を振り否定する。

「と、とんでもない! 客人に対して無礼な真似はしていません! 我が神に誓ってもいい!」

「そうかよ。まあ、あいつらの無事をこの目で見ない事には信用できないがな」

 凡場のその言葉に、歴山は立ち上がる。

「ならば、信用していただきましょう」

 閉ざされていた扉が再び開かれる。

 エントランスの中央から、奇妙な象がこちらを見下ろしているのが確認できた。

「それでは使途殿、こちらへ」


「「「「「「オーッホッホッホ!」」」」」」

 案内された館の中の一室。恭しく歴山が扉を開いたその奥で、妃が増殖していた。

 室内に響き渡る六人の妃の高笑い。それを見ながら、オカ研の三人と一緒に居る妃が「まあ、そっくりですわ」と朗らかに笑っている。

 そんな妃の感想を余所に、オカ研三人の感想は。

「うん。まあ、似合うかな」

「だが、何というか」

「解釈違いだよな、部長」

 あまり評価は高くない様子。

 部屋に通された響も同意見だった。見た目だけなら確かに高笑いが似合うのだが。これまでの付き合いの中、響は妃の高笑いなど聞いた事が無い。彼女の性格を知るものならば、違和感を拭えないだろう。

「そうか……見た目だけで見切り発車するのは良くないって事だな。勉強になる」

 六人の妃の内の一人が、難しい顔で反省している。

 その反応からオカ研と一緒に居るのが本物の妃と当たりを付け、響は彼女に駆け寄った。

「無事か?」

「響さん、館に入れたのですわね! 私は大丈夫! むしろ体が軽いですわ!」

「体が軽いって……何があったんだ?」

「彼女達……使い魔さん達がマッサージしてくれましたの! そのおかげで空さん達も元気いっぱいですわ!」

 頷きながらガッツポーズをとる空達。

 一方で、六人の妃モドキは何やら会議中の様子である。

「こいつらって、あのタール共か? 何でお前の姿に化ける練習をしてるんだよ?」

「それはですね。血を分けてもらうためには、しばしこの館に留まってもらう必要性がありまして。その間、不在なのが不審に思われぬよう影武者を仕立てている訳です」

「影武者ねえ。妃以外はいいのか?」

「彼女達に関してはもうとっくに。貴女方を誘ったのも我が眷属が化けた影武者でございます」

 全く気が付かなかった。元から交流の少なかった響はともかく、定期的に接していたであろう妃すら気付いた様子が無かった。何とも見事な擬態能力だ。

 歴山が言うには、この校舎に忍び込んですぐ、踊り場の鏡に関する噂を広げるために、眷属に頼んで図書室に意味深な文章を仕込んだとの事であった。

 その仕事を済ませて帰路についた眷属をオカ研の三人が見つけて追跡。空達はこの鏡の中の世界に迷い込んだのである。

 早速血を分けてくれるように交渉した歴山だったが、好奇心旺盛なオカ研部員達である。しばらく鏡の中の世界を探索したいと申し出たのであった。

 出席日数が足りなくならぬように影武者を仕立て上げる最中、彼女達の話から協力を受けてくれそうな女生徒の情報をピックアップ。まず初めに選ばれたのが、オカルト慣れしている響だったのだ。

 なお、妃は有名な大財閥の令嬢との事で、失踪期間が長くなると大騒ぎになるのが目に見えていたため、候補から外されていた。実際、此度の来訪は歴山にとっても寝耳に水だったようで、眷属達が慌てて影武者の用意に奔走した結果があの高笑いらしい。

「そうだ! 響さん、さっき書斎でこんな本を見つけましたの! 暗号で書かれていてさっぱりですので、きっと凄い魔導書ですわ!」

「何? 見せてみろ、妃!」

 鞄から取り出された本を、歴山は慌てて取り上げた。

「レディ、困ります! 書架の本ならともかく、机の中の私物を持ち出さないでください!」

「あら? 貴方様がこの館の主様ですの? これは失礼いたしましたわ」

 深々と頭を下げる妃。

「なあ、その本。何なんだ? 日記か?」

「いえ。秘伝のレシピ本ですよ。良い血を得るには食生活から。すぐに効果は出ませんが、この館に滞在した乙女達の血の味が良くなるように、我手ずからなる料理を提供しておりますので」

「暗号で書く程のものか、それ?」

「ものです!」

 自信満々に言い切った歴山の後ろから、見知らぬ人影。看護師姿の女性だ。

「皆様。採血の準備が整いました。マッサージが済んだお方からどうぞ」

「「「はーい」」」

 眷属が化けたらしい看護師の後をついていくと、歴史ある洋館には不釣り合いな近代的な印象の採血室に通された。

「献血バスかよ。首筋に牙を突き立てるんじゃないのか?」

「獲物にすぐ齧り付くなんて下品な真似はできませんよ。血液の保存も利きませんし。この設備を使うためにちゃんと眷属達に医療免許を取らせているんですよ」

 妃達が採血を受ける中、響が歴山に案内されたのはパックされた血液の冷凍保管庫。

「在庫はそこそこあるんだな」

「それはまあ。とは言え、吸血鬼には寿命がありませんからね。これだけあってもまだ不安になるのですよ。そんな訳でレディ、貴女も血を分けてくれませんか?」

「ただ働きは御免だが?」

「ふむ。どうやらあなたは魔導書に造詣が深い模様。我が書斎の魔導書を貸し出しましょう。それでどうでしょうか?」

「いいねえ。商談成立だ。で、だ。何か目玉になるような魔導書はあるか?」

「あまり期待しないで貰いたいですな。自慢できそうな物と言ったら象牙の書くらいでしょうか? 余り正確な写本とは言えませんが、それでも読む価値はあるかと」

「で、俺はどうする? 俺も採血受けりゃいいのか?」

 凡場のその言葉に、歴山は心底申し訳無さそうな表情を浮かべる。

「申し訳ありません使途殿……我が口は呪いのせいで乙女の血以外を受け付けないのです……」

「そうか。呪いなら仕方がないな」

 そんなに野郎の血は嫌なのか。そんな言葉を飲み込む凡場であった。

「ではレディ、まずはマッサージを受けてきてくだされ」

「さっきの部屋でいいんだな?」

「ついでに我が眷属達が貴女の姿を真似られるように指導をお願いしたい」

「了解了解。シオン、芙蓉、行くぞ」

「ほいさっさ」

 シオンと妖樹が響の影に沈んでいく。

 そのまま通路へと消えて行く響を眺め、凡場は肩を竦めた。

「俺、帰るわ」

「そうですか」

「一応忠告しておくが、あんまりヤンチャすんなよ。武藤の連中に目を付けられたらこの町じゃやっていけねえからな」

「心に留めておきます。と、そうだ」

 歴山が小さな包みを手渡してきた。

「何だ、これ?」

「特製のハーブクッキーです。採血が済んだ乙女達に土産として持たせているのです。自信作でしてな。是非、御賞味あれ」

「お、おう」

 何とも甘い香りの贈り物。ファンシーな包みが仄暗い吸血鬼の屋敷と絶望に似合っていなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ