白昼夢
青空はどこまでも広がっていて、眩い太陽が僕の肌をじりじりと焼いている。時々ふわっと吹く風は、僕の体から心地よく熱を奪っていく。
見上げると、そこには空高くまで積みあがった大きな入道雲。その頂上はきっとどんな場所よりも自由だ。だから、僕はこの雲の一番上まで登ることにした。
雲でできた坂を歩いて、雲でできた崖を登って、雲のトンネルをくぐった。不思議と疲労は感じなかった。ただひたすら、雲でできた大地を上へ上へと登って行った。
だいぶ高いところまで来た。少し肌寒くて、頭上にはいつもよりも青黒い空があった。風は穏やかで、とても静かだ。そして、いままで経験したことがないほど澄み渡った空気に満たされていた。
台地状になっている雲の端っこまで歩いて下を見下ろすと、僕が住んでいる町はだいぶ小さくなっていて、もっとたくさんのものが見えた。草原、山、川、海、都市、丸みを帯びた地平線…。
この景色は、僕が本当は何にも縛られていなくて、自由なのだということを思い出させた。僕は再び、頂上を目指して歩み始めた。
とうとうたどり着いた頂上には、雲でできた、小さな窓一つだけ開いている小屋がぽつんと建っていた。中には、小さな二つの椅子と机があった。僕はその椅子の一方に座って、深く呼吸した。
窓から外を眺める。とても静かだ。今、僕はきっと誰よりも自由で、孤独だ。何も僕を縛り付けていなくて、一人ぼっちだ。少し、寂しい。そう思ってうつむいた。
それまで、風音だけが届いていた僕の鼓膜を、聞いたことのある音が刺した。食器のぶつかる音。
顔を上げると、そこにはおしゃれなティーカップに紅茶を注ぐ青年の姿があった。
「飲むかい。」そう言って青年は僕にティーカップを差し出す。僕はうなずいてティーカップを持ち、一口飲んだ。
僕は「君も登って来たの。」と尋ねる。青年は首を横に振って「いいや、僕はずうっと前からここにいるよ。」と言った。青年の声色は柔らかくて、ずっと聞いていたいと思えるほど美しかった。続けて「どうしてここにいるの。」と尋ねると、青年は窓の外を虚ろに見つめながら「ぜんぶ、あきらめちゃったんだ。」と言った。青年の瞳は美しく澄んだ青空を映している。「何をあきらめたの。」と聞くと、青年は細い人差し指を唇の前に立てて「それは内緒だよ。君もそういうのあるだろ。」と微笑んだ。
少しの沈黙の後、青年は「僕も君に質問していいかな。」と言った。僕はうなずいた。青年は紅茶を一口飲んで「君はどうしてここに来たの。」と言った。
どうしてだろう。僕は心地よい風に吹かれて、汗ばんだ手で日光を遮って、入道雲を眺めていた。そして、その頂上に憧れた。地球上のどこよりも自由な場所だろうと思った。
そう。自由だ。「僕は自由になりたくてここに来たんだ。」
「…まあ、そりゃそうだよね。」青年はくしゃっと笑って言った。「君はこの世界が嫌いなのかい?」と言った。僕は「好きじゃない、かな。だって、疲れるから。」と返した。青年は僕をやさしく見つめて黙って聞いていた。
「だって、みんな僕のことが好きじゃない。僕がいなくなってもみんな、すぐに僕がいたことなんて忘れるに決まってる。」言葉が溢れ出す。「でも、一人ぼっちで生きていくのはやっぱり辛いから、みんなに好かれなきゃいけない、見てもらわなきゃいけない!」言葉が止まらなくなる。「それに、僕はみんなのことを心から好きになれない。気に入らないところばかり見えてしまって、心の奥底で軽蔑してしまう。世界も僕も、人を貶す言葉ばかりだ!こんな僕に世界はわざわざ居場所をくれない!何をやっても、どんな存在になっても、僕のことなんて誰も大切にしてくれないし、世界は僕に刃物を突き付けてくる…。」涙が溢れる。「間違ってるのは…僕のほうなんだよ…。」
「うん…わかるよ。」青年はそう言ってまた、紅茶を一口飲んだ。「あっ、簡単にわかるだなんて言っちゃいけないんだよね、ええと、うん、君の辛さは推し量れないけど、似たような感情は…」青年は早口で言葉を紡いでいる。「別にわかるでいいよ…。」青年の早口弁解に思わず笑みがこぼれて、涙も引っ込んでしまった。紅茶の香りが僕を撫でる。僕も紅茶を一口飲んだ。
「でも、世界がまるごと嫌なわけじゃないよ。」そういうと青年は再び、優しい視線を向ける。「晴れた日の空とか、巨大な入道雲とか、そういうのは好きなんだ。だから一人でも生きていけないことはないよ。」青年は「そっか。」と微笑んだ。「ずっとここに居ようかな、君がいてくれるし、なにより、景色がいいからさ。」と僕は言う。「でも、友達とか恋人とか、そういうのもやっぱり憧れちゃうんだけどね。」と付け加えた。再び沈黙が訪れ、青年は窓の外に視線を移した。
「…ずっとここに居たっていいさ。」青年が沈黙も破った。「実はね、僕も君と同じように、人付き合いが面倒になってさ、自由になりたくて、ここに来たんだ。」僕は少し驚いた。青年は極めて社交的に見えたから。「君が言う通り、ここは自由さ。君を縛り付けるようなものはここにはない。」
「でもね。」数秒の静寂を挟んで、青年は少しうつむいて言った。「自由は孤独の裏返しなんだ。」僕は青年のその虚ろな瞳に吸い込まれるような感覚を覚えた。「束縛こそが、充実だったのかもしれない。」と青年は語る。僕は「でも、もう疲れたよ。自由は確かに孤独かもしれないけど、まだましじゃない。」と返す。「それはわからない。人によると思う。けど、自由になるのは一瞬だ。みんなの前から姿をくらませれば、それで君は自由だ。けれど、心地の良い束縛を得るのは簡単なことじゃない。」と青年は言った。確かにそうだと思った。「だからさ、もうすこしいろいろ試してからでいいんじゃないかな、ここに来るのはさ。」
「そんなの。」
「そんなの分かってるよ。それはそうだけど。」勝手に口が動く。「でも、僕はもう十分頑張ったよ!みんなに必死に付いていったし、みんなを好きでいようとしたし、初めて話しかけるのだって勇気を振り絞った!けど、その答えが疎外感だとか閉塞感だとかだった!それでもう素直な気持ちであいつらを見られなくなって、気づいたら誰も僕のことなんて見なくなったんだ!」青年はただぼくを見つめていた。「僕はきっと、人間に向いてなかったんだよ。みんなで生きることも、一人で生きることもできない出来損ないだったんだ!」再び涙が溢れて、瞳の中で青年の顔が溶けてしまった。「ならせめて、ここで君と話していたい…。」振り絞るように言った。「僕はこの世界が嫌だ…。」
青年は僕の涙を拭って、ゆっくりと口を開いた。
「それでも、きみにはこの世界を捨ててほしくないんだ。」青年は言った。「僕はさ、その、なんというか、もう戻れないんだ。友情も愛情もしらないまま、全部捨てちゃったからさ。」青年の声は、少し苦しそうに聞こえた。「でも、やっぱり後悔してる。…辛いさ。うまく生きていくのは。けど、君には美しいものにたくさんであってほしいんだよ。僕みたいに、後悔してほしくないんだよ。」青年は一粒だけ涙を流して、頬を伝って、こぼれた。
青年は紅茶を飲み干して「僕はいつでもここで待ってるよ。耐えられなくなって、やっぱり君がこの世界のことを好きになれなかったら、その時はふたりで紅茶を飲みながらずうっとこうして話そう。辛かったこと、好きになれなかった人、この世界に対するありとあらゆる不満をさ。」青年は変わらず優しい声で僕に言った。「…怖いよ。」と吐いた。「大丈夫。ぼくはずっと雲の上から君を見てる。これから君が新しい友達を作って談笑してるのとか、自分の目標に向かって四苦八苦してるのとか、恋人を初めて家に連れてきてどぎまぎしてるのとか。」「…そういうのは覗かないでよ。」
青年は笑った。僕はすこしだけ、勇気が持てた。もう一度だけ信じる勇気を。
「それでさ、もし君が少しでもこの世界のことを好きになれて、この世界を思いっきり楽しんだら、その話を僕に聞かせてほしいんだ。僕は残念ながらそういうのを知らないままここに来たからね。いいかい。」僕は頷いた。「いつになってもいいから、また会いに来てね、僕はずっと待ってる。」青年の手を僕は握った。「君の名前を教えてくれないか。またここに来たら、大声で君を呼ぶからさ。」
「僕の名前…。」青年はまっすぐ僕を見つめる。
「僕の名前はイリスだ。」僕はぽかんとして「それは…僕の名前…。」とこぼした。
「ああ、僕は君だからね。」と青年は言った。「それって、どういうこと…。」と聞き返す。
「その話はまた今度にしよう。一つくらい謎を残しておかないと、君が僕に会いに来てくれないかもしれないだろ。」と青年は微笑んでいった。
「それじゃあ、そろそろ帰るよ。」「ああ、そうだね。」僕は小屋を出た。振り返ると、青年が手を振っている。
「帰りはそこから飛び降りればいいよっ!」青年は叫んだ。思わず「ええ!?」と声を上げてしまう。「死んじゃうでしょ!」と抗議すると、「大丈夫だって!」と青年は返す。結局、青年は僕のところまで来て、「世界を信じる前に、まず僕を信じてみなよ、練習としてさ。」と言った。
「わかったよ…。」
雲の淵に立って、僕が住んでいる町を見下ろす。足が震える。「やっぱり少し怖いかな。飛び降りるのも、またあそこに戻るのも。」そう言うと、青年は僕の手を握って「ああ、そうだね。大丈夫。僕を信じて。」と落ち着いた声で言った。不思議と、心が穏やかになった。
「じゃあ、行くね。」
「ああ、また会おう、イリス。」
「うん、会いに来るね、イリス。」
「ああ、楽しんで。」
青年の手を離し、僕は飛んだ。すぐに彼の姿は見えなくなった。太陽が眩しい。とても長い時間、雲の上にいたような気がするが、空は真昼のままだった。ずいぶん小さかった僕の町も次第に大きくなっていった。
そうだ。いつもそうだった。どれだけ考え事をしても、それが弾けるのはいつも一瞬だった。そのたびに少しだけ、前に進めた気がした。
地面が近づいて、次第に視界は白んで、一瞬だけ、体が溶けたような感覚を覚えた。
目を開けると、入道雲を眺めていたあの場所に戻っていた。長い長い白昼夢を見ていたようだ。確かに覚えているのは、彼の名前だ。
「イリス、僕が君に幸せを見せてあげる。」
そうして、スマートフォンをポケットから取り出して、きれいな入道雲を写真に収めた。
「よし、行こう。」そういって僕は自転車にまたがって漕ぎだした。いつか会える大切な人に、この白昼夢の話をしたいと思った。