一握の矜持
今日も一日、炎天下の国道端で紅白旗を振る姿が、自動車販売会社のショーウインドーに映っていた。猛暑が到来し、色白だった顔が土色に変わるのにたいした時間を要さなかった。交通誘導員は見た目よりむずかしく、一瞬のミスで事故を誘発しそうになり、冷や汗をかくこともしばしば。気短なドライバーからは容赦なく罵声をあびせられるし、心ない土木作業員からクズ呼ばわりされることもある。憤ってもやり場はなく、みじめで情けない日々のくり返しに慣れていく自分を不憫に思うこともある。されど仕事というものは所詮お金を稼ぐ手段であり、その手段に優劣をつけて自己を満足させている人間よりは、今、与えられた仕事を黙して勤めあげる人間のほうが、人生を達観しているのだと自分にいい聞かせていた。
仕事が終わると現場監督にサインをもらい、事務所で日銭六千五百円を受け取って帰宅する。そして銭湯で汗を流し、スーパーで半額処分になった『おつとめ品』の惣菜を、夕食と翌日の弁当用に何点か見つくろい、きまって雑酒とやらのビールもどき500cc一缶と甲類焼酎のワンカップを二本買う。
ひとりアパートでテレビを見ながらビールもどきが喉を通りすぎるとき、今日一日の憂さがどこかへ消えていく。やがて二本目の焼酎を空けるころ、まったく不思議なことに、そこにはイヤで仕方のなかった仕事が明日またあることを望んでいる卑屈な自分がいた。
昨日、「瀬戸大橋は俺が建てたんや」と、ことあるごとに豪語していた先輩警備員の井上さんが死んだ。井上さんは六十五を過ぎて一人暮らし。湯に浸かったまま浴槽に浮かんでいた。橋梁関係の仕事を長く続けてきた井上さんは、全国を渡り歩いていた。今の仕事に就いたころ、ずいぶんと世話になった。
葬儀に参列したいと事務所の上司にいったら「君の気持ちはよくわかるけど、その必要はない。配置先の人手が足らないから、現場に出てくれ。現場優先だ」と一蹴された。
昼休みに弁当を食べたあと、現場近くの河原に石を積み、哀悼の真をささげた。飲みかけの炭酸飲料を真夏の日差しで焼けた石にかけると、音をたてて瞬時に蒸発した。人の命などこの消えていく液体のようなものかと、なぜだか痛く感心した。
日銭を受け取るとき「まったく見事な往生。戒名は一文字。参列者はわずかな身内だけ。火葬場で直葬じゃけん質素なものだった。まさしく孤高の人生そのものや」と、二代目の痩せこけた社長が、事務所の重役連中と話しているのを耳にした。
社長のほうを見て、井上さんの口癖だった「おえりゃあ~せんのお」とつぶやいたら、年齢不詳、化粧のきつい経理の事務員が、「お偉いさんが、どうかしたの」と分厚い眼鏡をもちあげながら小首をかしげた。『おえりゃあ~せんのう』とは岡山弁で『やってられない』という意味らしい。
社員の最期を知らされても平然としている連中が無性に腹立たしかったが、「べつに、なんでもありません」そう仏頂面でいって事務所を出た。
仕事が終わった解放感と井上さんの突然死が綯い交ぜになった複雑な思いで、アパートに帰ってからしばらく何をする気にもなれなかった。
十五年前のあの夏の日、若い先輩警備員につれられて建設現場に立った日のことを思い出していた。心臓が激しく脈を打ち、恥ずかしさと得体の知れぬ恐怖で、脂汗がじっとりと全身をつつんでいた。
「大丈夫ですか」
若い先輩は、顔色のすぐれない新人を見つめていった。
「ご心配なく」
陰鬱にこたえて深呼吸した。
初めて経験する真夏の日ざしは尋常ではなかった。なにもしないで立っているだけだが、今まで流したことのないような大量の汗が、全身からとめどなく噴き出してくる。
学校を出て二十年あまり、年中、金太郎飴のように背広姿で過ごしてきた。うわべの汗をかくふりをして、きれいな仕事ばかりを選んで生きてきた。ホワイトカラーがブルーカラーを隷属せしめているかのような思い上がりがあったに違いない。ブルーカラーを蔑んできた自分が恥ずかしくてしようがなかった。
ギラつく太陽が憎らしいほどニヤニヤと笑っていた。言葉にできぬほど苦しかった。とても身体がもちそうになかった。今まで何をしてきたのだろう。何のために生きてきたのだろう。こうやって死ぬるおもいで汗を流さなければ報酬が手にできないということをその時は何もわかっていなかった。
昼休み、弁当を買いに行く気力も失っていた。脱水症状寸前でめまいがした。先輩たちは、ひ弱な新人などにはまったくおかまいなく、手弁当をひろげ、うまそうに箸を動かしていた。
ただ水が飲みたかった……。
気力をふりしぼり、自動販売機の前に立った。小銭入れから取り出した百円硬貨。手元が狂い、落ちた。コンクリートでできた側溝の蓋の下に落ちた。タバコも我慢して残しておいた貴重な銭である。しゃがみ込み拾おうとしたが、大人の大きな手は入らない。両手で蓋を持ち上げようとしたが、ビクともしなかった。ポタポタと涙が汗とともに流れ落ちた。悔しくてやりきれなかった。溝に落ちた百円硬貨を呆然と見つめる自分がみじめでなさけなかった。あきらめてふり返ると、刑務所の壁のような大男が立っていた。
大男は『井上』と名乗った。
真黒に日焼けした顔。すり切れた制服。つま先が開いた安全靴。ベテランの鏡である。
「これ、飲みな」
男はよく冷えた缶コーヒーを無言でさしだした。地獄に仏とはまさにこのことである。心の底からうれしかった。男と目をあわすこともなく一気に飲んだ。
(うまい!)
こんなにうまいものはないと思った。汗の混じった涙がとまらなかった。
「ありがとうございます」
涙の汗をぬぐいながらボソリといった。
「気にするな。歳はいくつや」
「三十八」
「なまえは」
「小山」
「うまれは」
「兵庫」
「神戸か」
「……」
黙ってうなずいた。
「なつかしいの。わしも若いころ、明石の橋の工事の頃には神戸におった」
「……」
「ここ(別府)までひとり旅か」
「……」
「子はおったんか」
「……」
過去を棄てて生きのびている自分を語る勇気はなかった。反面、見ず知らずの人間に身の上話をするほど落ちぶれてはいないという自負があった。
「わしもわけありで大阪から流れてきた。ふりだしは岡山やけどな」
男はそうつぶやくと、紅白旗をもってふたたび現場に向かった。西日を背にして歩く無言のうしろ姿が、人生を知り尽くした人間のように凛々しく輝いていた。
決死の八時間。過酷な労働は終わった。
与えられた仕事に満足することもなく、夜遅くまで無為な残業に追われていた過去の自分はいったいなんだったのだろう。気どりでも悟りでもなく、警備の初日を終えたときの自分がえらく立派に思えたのをおぼえている。
足を引きずりながら現場事務所までもどり、監督から日報にサインをもらい、エアコンのそばでしばし立ち尽くしていた。
帰りの送迎車で、男は内緒で冷えた缶ビールをくれた。
「イヤでしょうがのうても、そのうちに慣れる。まずは昔のことを忘れることや。昨日の自分より今日の自分がちょっとだけ好きになれたらそれでええんや。それでじゅうぶん生きてる意味はある」
「そんなもんですか」
「ああ、なんも心配いらん」
男の言葉どおり、あっという間に三年が過ぎ、気がつけば十五年が過ぎていた。
じつをいうと土建業界に顔がきくこの男のおかげで、ともに警備会社を渡り歩いてくることができたのである。
「じつはな、前にも話したことのある瀬戸大橋の仕事をしたときに世話になった監督さんのお嬢さんが近いうち結婚するんや。すまんけど、小山、俺といっしょに出席してくれへんか」
「ふたりで、ですか、なんで、俺ですか」
「つきおうてくれや、俺とお前の仲やないか」
「式はどこであるんですか」
「神戸であるんや」
そういって井上さんはニコリと笑った。
「そりゃちょっと無茶ですわ。いっしょに神戸まで行くのはかめへんけど、俺が式に出席する理由がない」
「招待状が二通。ふたり出席するいうて返事してるんや。銭の心配やったらいらん。費用はすべて俺がもつ。祝儀もまかせてくれたらええ」
「銭のことやないわ」
井上さんから員数あわせで、一緒に出席してほしいと頼まれた結婚式の招待状を箪笥から取り出した。出席の返信は発送済みだった。華燭の宴は一週間後に迫っていた。
「おっさん、幽霊になってしもたら、出席できんやないか」
そうつぶやくと不意に胸がつまった。思い出にふけるまま、しばらく部屋で座っていようかと思ったが、汗がしみ込んだ制服から異臭がわきだしてきたので、肌にまとわりついた下着と制服だけは洗濯機にほうりこんだ。
市営温泉で汗を流し、外で飲むときはきまって立ち寄る北浜の小さな食堂『藤代』の暖簾をわけた。紫の地に白抜きで『藤代』という名は、やけに立派である。されど店はその名の品格に到底及ばないカウンター席五つほどの場末の薄汚れた酒場である。トイレも店外の公衆。店名にそぐわないそのアンバランスな風情が気に入っていた。よく井上さんと飲みに来た思い出の酒場である。
「いらっしゃい」
井上さんと同世代、ポロシャツ、ジーンズ
姿に割烹着。やせ身の雪子ママがいつもとかわらぬしわがれ声で迎えてくれた。気さくで色気のないママを井上さんは好いていた。
聞くところによると雪子ママは井上さんと同じ大阪ミナミの出身だった。三人でよく関西の話で盛り上がった。ふたりの郷土愛は、純粋で清らかだった。うらやましく耳を傾けることが多かった。
店に客はなく、小型ラジオのプロ野球中継が流れていた。
「あの金魚はどうなった?」
「だめやった。死んでしもた」
先日、立ち寄った時、弱り果て泳げなくなった金魚を店先でママが介抱していた。塩をなめさせたら元気になると酔っ払いの冗談を真にうけたママは、いわれた通り食塩を金魚の口に添えていた。ありえないと正直思ったが、余命を宣告された患者の身内が藁をもすがる思いでなんでも受け入れるあの心情と似ていた。
「そうか、かわいそうなことしたな」
「あの金魚、和美ちゃんの形見や。癌で入院したとき、『退院するまで預かって欲しい』って頼まれたんやけど。半年もたんかった」
和美はママを慕ってかよう『藤代』の古い馴染み客だった。多額の借金をかかえ、昼は食堂、夜はナイトクラブ、夜中はファミレスと昼夜兼行で働いていた。骨身を削るほどの借金を若い和美がどうして背負い込んだかは誰も知らなかった。
亡くなった井上さんは、生前、和美を自分の娘のように可愛がっていた。享年三十五。死因は乳がんだった。髪が短く、瞳の大きな明るい娘だった。真夏の熱帯夜も団扇ひとつで過ごしていた。自己破産もせず、生活保護も受けずにがんばっていた。しがらみのすべてを棄ててきた流れ者とは雲泥の違いである。和美にものがいえる立場ではなかった。
「あんなに必死で生きてる和美が、なんで死ななアカンのや。この国はな、格好ばかりつけて世界の大国と肩をならべてると思ってるけど、地べたをはって生きてる人間のほうには眼がむいとらん」
そう嘆いてめずらしくやけ酒を飲んだ日の井上さんの顔が忘れられない。
「和美ちゃんも金魚も寿命やったんや。ママのせいやない」
適当な言葉がみつからず、そういうのが精一杯だった。
「そうかな」
ママは悲しげにうつむいた。
「それはそうと、もうひとつ悲しいお知らせがあるんや」
「なに、どないした」
「井上さんが死んだ」
「……」
ママは小さな瞳をまんまるにひろげて絶句した。
「葬式は」
「今日の午後、俺は仕事で行けんかった。会社の社長が代表で行ってきたけど、火葬式おしのびプランいうやつや。焼場で直葬。かわいそうなもんや」
「病気かいな、事故? それとも」
ママの瞳が赤くなっていた。
「仕事から帰って風呂入ってるときに心臓マヒを起こしたみたいや。歳がいったら気をつけんとあかん」
「ほんまやな……教えてくれておおきに」
雪子ママは背を向けて涙をぬぐった。
「生ビール、おくれ」
「あいよ」
ママは気丈に笑顔をみせ、ビールにつきだしを用意してくれた。
「人間死んでしもたらおしまいや。ひとり死んでいくのはさびしいけど、これから孤独死はまだまだ増えるやろ。家族に見守られて死ねるなんて夢のまた夢や」
井上さんの死を特別とは思わなかった。また身近にあまり多すぎて驚くこともなかった。
世間がいうように孤独を悪とは思わない。核家族の末路と少子化が独居世帯を増産しているのは自明の理である。しかしながら人と群れることを良しとせず、あえて独居を求めて生きる孤高をリスペクトしている。一人死んでいくことがそんなに不幸なことなのか。いまさらできもしない三世代家族を幻想し、孤独死を悲劇的末路であるとマスコミの連中があおりたてている昨今の風潮には反吐が出る。どこでどうやって、生きようが、死のうが、その人の人生である。
こんな世の中になることは半世紀も前からわかっていたことである。予測できた先進国の少子化と高齢化社会。野放図に放置してきた為政者の子孫たちは、ちゃっかりと現有議席にしがみつくことしか考えていない。先生などと呼ばれて浮かれているが、その生活行動は日銭で生きている庶民と何らかわりはしない。
「このあいだまで、そこにいた人がおらへんなんて、不思議やわ」
たしかにママがいうように不思議な感覚である。
「俺、井上さんに頼まれて結婚式の披露宴にでなあかんのや」
一週間後の自分の行動を決めかねていた。
「結婚式て、誰のよ」
「井上さんの式とはちゃうで」
「あほいいな、わかってるわ」
ママはうなずいてそういった。
「なんでも井上さんが瀬戸大橋の仕事をしたときに世話になった人のお嬢さんやいうてたけど、ほんまかどうかはわからへん。俺も身内ということになってるらしい」
「井上さん死んでしもたのに、あんたは行くんか」
「どうしたらええかわからんのや。所詮、員数あわせやし、このままほっといてもいいとは思うけど、費用や切符まで用意して会社に預けてくれてるから、このまま身内もない身元不明で会社にその銭を没収されるのは可哀想な気もするし」
素直な気持ちをいった。
「そうやな、じつはうちも井上さんから預かってるもんがあるんや」
ママが困惑げにカウンターの中の引き出しに手をかけた。
「なに」
「それはいえん。井上さんから誰にもいうなっていわれてるから。でもな、もう用がなくなってしもたわ」
ママは首を振って引き出しを押しもどした。
「ひょっとして井上さんの身内が来てるかもしれんし、何も知らん先方も無断で欠席されたら困るやろ。それにあんたにとって井上さんは命の恩人や。行ってあげたらええんとちゃうか。行かんのやったら連絡だけはしてあげんとな」
ママがあまりにもっともな答えをだしたので、うなずいてビールを喉にながしこんだ。
「そうやな。たしかに、あのとき井上さんがおらんかったら、現場で起きたあの事故に巻き込まれて命を落としていたかもしれん」
新規採用されたその年のクリスマスイヴの夜、駅前商店街にあるファッションビルの改修工事でその事故は起きた。
その日は雪が降る冷たい夜だった。
「アーケードの入口は、小山、おまえが立て」
「ハイ」
「高橋は反対側の入口や。おまえの立ち位置は現場から離れてるさかい、無線連絡は確実にするんやぞ」
「了解しました」
高橋さんは、大手の地銀支店長まで勤めたエリートだった。現場で一緒になった日は、いつもきまって昔の自慢話を聞かされた。融資先を助けた英雄気取りがあまり好きでなかった。なにゆえ高橋さんが警備員になったかは、自ら語ることはなかった。あとから聞いた話によると、パチンコの遊興費をつくるために銀行の金を使い込み、懲戒免職になったらしい。あげくに家を抵当にしてサラ金から借金を重ね、自宅を売却することになった。売却が確定した日、高校生だった娘が家の前で焼身自殺した。悲惨な業を背負った人だが、支店長だった頃の自分の姿が未だ忘れられず、新しく入社した人をつかまえては過去の勇姿を雄弁に語っている。今も懲りずに日銭をもらいパチンコに通う姿はあまりに悲しい。
「小山、堕ちきれへん人間はあかん。現実を見る勇気がないからいつまでたっても昔のままや。昔の自分を嫌いになれて初めて人は成長するんや」
一度だけ井上さんが、高橋さんのことをそう評したことがあった。
「クレーンにはおれがつく。作業は各階の窓枠につかうスチールサッシとアルミサッシを玉かけして八階の屋上につりあげるんや。午後の九時から車は通行止めにする。自転車と歩行者は通す。クレーン左右のアウトリガーを張り出したら歩行者通路が極端に狭くなるから、吊りあげ作業中は、自転車、歩行者ともに通行させたらあかん。歩行者進入の合図は無線でしてくれ。その歩行者の安全な誘導と連絡がふたりの今日の任務や。おそくなったら酔っ払いが増えてくるから十分気をつけてくれ」
「ハイ。了解しました」
「業務が終了したら、そこの小山の立ち位置にある牛丼屋で大盛りをおごったる」
「毎度、ごちになります」
前歯の欠けた高橋さんが、ヘルメットのひさしを上げて満面に笑みを浮かべた。
もともと現場作業員だった井上さんの指示は的確だった。警備員に転職したのは、同僚を足場の崩落事故で亡くしたからだった。
指示を受けてふたりはそれぞれ現場についた。
「小山、今夜は寒くなるぞ。風呂に入って一杯やってきたか」
そばまで来た井上さんがあご紐を締めながらいった。商店街入口はクレーンから近く、アームを最長に伸ばせば立ち位置に届く距離だった。
「はい。湯割り二杯、メーター上がってます。すこぶるええ感じです」
「よし。これは自衛手段や。それでも朝の一時過ぎには保温効果が切れるからな。おまえは駅前通の正面やから立って寝るなよ。かっこ悪いからな。眠くなってひざが何度も折れるようになったら、いつものように声をだせ。小山、今日の掛け声は?」
「はい。雪の進軍、氷を踏んで、どこが河やら道さえ知れず」
井上さんに敬礼してまじめな顔をして声をあげた。
(しまった!)
井上さんはうつむいてしばし黙した。
「つまらんぞ、戦争賛美は」
ふだんから戦争を愚の骨頂といって嫌っている井上さんにはまずかった。
「すみません」
「まあ、ええ。八甲田か? 小山上等兵。ええ覚悟や。心配するな。天は我々を見捨てはせん。せやけど戦争賛美はつまらんぞ」
井上さんはそういって、クレーンを見守っている現場監督のところへもどった。
雪は降りやむことなく、街を真っ白に染めてクリスマスをロマンチィックに演出していた。恋人たちが肩を寄せあい目の前を通り過ぎていく。わびしさやみじめな思いはまったくなく、雪を浴びて立つ自分がどうしたわけか誇らしかった。
作業は順調に進んでいた。午前一時を過ぎるころには、資材の大半を屋上へ運び終えていた。
最後の荷が吊りあげられたとき、車を支えていたアウトリガーがきしむような大きな音をたてた。金属がこすれ合う異音が気になってふりかえったが、ワイヤーは荷をスムーズに引っ張り上げ、五階をこえるところまできていた。下から見守る井上さんも不安げな表情を見せることもなく、真剣な視線をおくっていた。
安心して振り返ったときだった。
「あぶない、小山、道路へとびだせ!」
背後で井上さんの絶叫する声がした。
けたたましい音をたててクレーンは横転し、アーケード入口にある牛丼屋の玄関を大破していた。
歩道にある植え込みに飛び込んだのが幸いして負傷はまぬがれた。井上さんがいったように、天は我々を見捨てはしなかった。
「往復のチケット二枚あるし、ママも一緒にいかへんか」
一人で行くのがどうも心細かった。
「うちが井上さんのかわりに出席してどないするんや。あんたは身内ということになってるからええけど、まったく関係のないうちが出て行くわけにはいかん」
「そんなことないで。一番身近にいて気心知れてたママが井上さんの名代で行ってもおかしいことはない」
「わけのわからんこというたらあかん。覚悟して行っておいで」
「なんや心細いな」
「ええ歳してなにいうてるんや。うちは故郷には帰られへん。この四十年、墓参りもしたことない」
それからママはそのことについて何もいわなかった。
となりの店の串カツ屋のきよしさんと警察官を退官して遊んでいる鉄ちゃんのふたりが上機嫌でなだれ込んできた。
「おう、警備隊長どの、あいかわらず日に焼けて黒い顔しちょるな」
上機嫌の鉄ちゃんが、声をかけてきた。
「顔の黒いのはうまれつき。それより警視総監、ゴルフの調子はどないや」
鉄ちゃんは週三回、熱心にゴルフ通いをしている。プロのコーチを雇い、真剣に若い余生を謳歌している。
「わしが総監やったら、日本の刑務所が足らんわ。まあ、冗談はさておき、ゴルフは見事にさっぱりやな。どげえもこげえもならん。ブービーにも届かんわ。まるで今年のタイガースみたいじゃ。小生、健康のために、連日、山へ芝刈りに行っちょります。スコアーは、いつまでたってもかわることない。それでもそれがゴルフ。わしは死ぬまでするで。退職金なくなったら、年金があるけん。それも全部つかってゴルフする。警備隊長どの、こんど、いっぺん、つきあわんか」
鉄ちゃんは少々酩酊気味である。
「ゴルフは二十年前にやめました。おふたりみたいに時間も、銭も、心の余裕もない。遠慮しときます」
ビールジョッキーを飲みほしていった。
「話しかわるけど、隊長、うちの店にもまた寄ってや」
隣に座ったきよしさんが、鉄ちゃんを抱きかかえながらいった。
「そやな、また、ちかいうちに」
そういっていつものように生ビールのあと、焼酎を二杯飲んで店を出た。
翌朝、いつもどおり午前五時半に目が覚めると、雨が降っていた。テレビの天気予報は大分地区降水確率90%の予報がでている。どう考えても今日の仕事は無いだろう。
天気予報の前に五分程度『今朝の言葉』という番組がある。大学の先生が登場して格言、名言を紹介する。このコーナーが好きで毎日欠かさず見ることにしている。
今日の名言は『人間至るところ青山あり』
この人の世。どこにでも墓となる場所はある。故郷を出て活躍せよ、というふうな意味か。幕末の僧、月性が維新の志士たちに尊皇攘夷を訴えた詩篇「清狂遺稿」の一部だそうだ。ちなみに「人間」は、じんかん、と読むらしく、人の世をさす。勇ましい覚悟である。
故郷でないこの九州の地で孤独死した井上さんを思い浮かべた。どこに移り住もうと人は生きていける。戻りたくとも戻ることのできない故郷もある。
午前六時になって会社から電話連絡があった。
「自宅待機でおねがいします」
宿直で配置係をしている斉藤さんが連絡してくるのだが、けっして「休み」とはいわない。日雇いに自宅待機もあるものか。いついかなるときもスタンバイしておくようにと入社時にいわれているが、一週間も待機が続くこともある。日銭をくれるでもなく、真に受けて待機していたら飢え死にである。これはまさに飼い殺しである。いや生殺しである。だいたい、この世の中は弱者にやさしくない。どうすれば神も仏もないこの困窮から逃れられるか、警備員になった当時はそれなりに勇ましく志をもったが、時とともに意識は薄れていき、今となっては、ただ時の流れに身をまかせている。
仕事を待つ、というほんのわずかな拘束。それ以外は自由。これはこれで心地のよいものである。
仕事にがんじがらめにされて、機械のように働き、仕事以外に誇れるものも無く、定年になると時間をもてあまし、食べることと年金支給日だけが生きている関心事となる。誰もがたどる資本主義社会における人の一生である。そのあいだに家の一軒も建てれば上出来で、大半はそうもいかずに一生を終える。
長寿が続き、医療費が増大。子供が減少して年金を担保できない。おまけに年金制度に疑問をもつ若者はこの資金を積み立てようとしない。これではいかんということで、国は死ぬまで働けと元気な老人を鼓舞する。社会保障の財源となる原資は、使い果たしてしまったので、年金は先延ばし作戦。さらに医療費は払い渋る始末。最後の手段、消費税を上げようとしているのだが、めくらましで、お金をばら撒こうと画策している。
あきらかに国民をバカにしてはいないか。などといっても市井の声はいつも国には届かない。少数の意見に耳を傾けない国の民主主義とはいったいなにか。いくつになっても生産性を求められる社会は、情緒感がなくあまりに息苦しい。
「国家的詐欺じゃ。わしは騙されんぞ。秘策を考えておる」
井上さんの口癖だった。井上さんは年金の受給資格をすでに取得していた。そういえば今年の八月から支給を受けるはずだった。身寄りの無い井上さんの年金は国庫に没収されるである。何のために、誰のために、払い続けてきたのか。為政者のほくそ笑む顔が浮かんできて胸糞が悪かった。国の思う壺にはまった井上さんが不憫でならなかった。
午前八時になり、会社からまた電話があった。今度は経理部長からだった。
「井上さんの遺品のなかに結婚式出席のためにということで積み立てていたお金がでてきたのですが、小山さんはなにか知っていますか。自分に何かあった場合は小山君に渡すようにと書置きがでてきましたが」
部長は怪訝そうな口調でいった。たしかに不思議な話である。
「聞いています。一緒に結婚披露宴に出てほしいと頼まれていました」
「そうですか。くわしく事情が聞きたいので会社まで出社してください」
「わかりました」
百均で買ったビニール傘をさして家を出た。
別府流川の裏路地から商店街へ出ると、シャッターがおりた店舗が静かに並んでいた。夜は観光客でにぎわう湯の街だが、朝のけだるい風景はどこか物悲しい。アーケードを抜けると雨は小降りになっていた。
曇り空の下、別府タワーが憂鬱な顔をして湯の街を見下ろしていた。
「あれが通天閣やったら別府ももう少し住みやすかったのにな」
井上さんは別府に流れ着く前、西成のあいりん地区で立ちんぼをして仕事をひろっていたらしい。よく新世界の話をしてくれた。