シーン39 真髄
シーン39 真髄
ここはベータのセーフハウスだ。5年前、新興大手だった暗号資産取引所“ GOU “が日本に進出し、220億の資金を集め上場間際の5月ドバイで社長が突然死した。当然、220億円の金も消えた。死因はアナフィラキシーと発表されたがこの社長の目撃談は年に3〜4件あり、投資者はドキュメンタリードラマに出演したりして今も社長の行方を追っている。それでも真相は闇の中で、捜査は行われないまま現在に至っている。
その社長が子飼いの友人⁈パトロン⁈取り巻き⁈だった文化人、芸能人、一般人と狂気乱舞の酒池肉林を毎夜、繰り広げていたのがこの部屋だ。どういうワケかこの部屋の存在は伏せられ、なぜかコロンブスが手中に納めてコロンブスはサラマンダーに下げ渡した。
59平米のリビング、3ベットルーム、ゲストルーム、20平米のキッチン、20インチ天井雨スパミントジェットシャワーシステム付きのバスルームが2室に、カッシーナのUの字ブラックソファー、208✖︎104の執務デスク、70インチのTV、天井にはクリスタルのシャンデリアにBOSEの埋め込み式スピーカー、アンディーウォーホルの絵画、グラフィック、自画像、毛足の長いペルシャ絨毯に白磁の壺、どの部屋も高級品には事欠かない。
それでもベータ要員の誰一人居並ぶ高級品に興味がなく、それは無欲ではなくむしろ強欲で、自己目標の立脚点が物ではなく生き方に向く集団だからだった。
カンマルに連れられてリビングに入ってきたトムは口笛を吹き「さすがの日本経済」と笑う。そのトムにサラマンダーは「まぁ、座れよ」と言って琥珀色のコニャックが入ったバカラグラスを差し出し、ソファーにドカリと座ったトムはグラスを受け取り、「お疲れ」と言ってサラマンダーの左手にあるグラスにチンと合わせて飲み干した。
トムはコニャックを愛している。「熟女のコニャックは美味いな」と言ったトムに、飲み干したグラスをテーブルに置いた左手でデカンタを取り上げ「もう少しどうだ?」と魅力的に掲げたサラマンダーを、見上げたトムは「もらうよ。こんな所に呼び出してどうした?カンマルから聞いたが進展ってなんだ?話せよ」と潤った喉で聞く。
「そう、慌てるな。じきに自分から喋りたくなるよ」サラマンダーはコニャックを継ぎ足しながらトムに好青年の顔で笑いかけ、トムは注がれたコニャックを舐めるように飲み始める。
1分も経たないうちにトムの視界がグニャリと歪む。あっと気づいた時にはすでに遅く「ハハハ、何を盛った?俺がコニャックに目がないてこと知ってたな。ハハハ、この馬鹿野郎ども」トムの意志に反して笑い出したトムに、サラマンダーは左手のデカンタをテーブルに置きながら「どっちの耳に内耳モニターを入れた?俺たちは原則、左耳だ。アリシアも入れたのか?」と軽い口調で聞く。「アリシアは何も知らない。俺だけだ」アッケラカンと素直に認めたトムはあごを上げて横顔を突き出しつつ、右手の人差し指で上顎骨を指差して「ここだ。なんで俺、正直に話してる⁈」と自答するが、すぐにどうでも良くなった。トムの後ろにソファを挟んで立っていたゾロがトムの両肩に左右の手を置くや、トムをソファーの背もたれに押し付ける。今のトムには非力な女でも簡単に出来ることだった。
トムの正面に立ったサラマンダーはトムが指差した箇所を、中指の第二関節を立てた拳で意欲的に突く。「イテッ!!」両手で右頬を覆ったトムの足元にグラスが転がった。テーブルの上にPCを置き、絨毯にあぐらを組んで座っていたDがPC画面から視線をスゥーとサラマンダーに流して「破壊完了」と平坦な声で報告する。
「フレミングが郵送した内耳モニターでお前は俺たちの会話を聞いていた。リンクのさせ方はどうやって知った?」とサラマンダーは穏やかな声で聞く。「スパルタンからだ」純朴な少年の顔でトムは答え、黒く聡明な目をトムに注いでいたサラマンダーは「違うな。あいつの情報は古い。CIAのカウンターパート、内閣情報調査室、室長補佐官・藤堂直之からの情報だ。アイツらは情報共有しない俺たちが気に入らない。1つの国に2つの諜報機関はいらないとでも思ってるんだろう。いいとこ取りさせてやってるのにな、失敬な奴らだ。どうして知ってるかって、俺らが世界に張ってるネットワークは戦場の連帯と苦渋、互いの国に対する忠誠心を尊敬する気持ちが基礎になって構築されている。お前たちみたいに誰かを使って何かをやらせるのとは質が違う。体を張って培われたものだ。トム、ネタは上がってる。正直に話せ。悪いようにはしない」サラマンダーの口調には誘うような、掴むような、逃さないような絶妙なニュアンスが匂っていた。
サラマンダーはテーブルに座り、右手で拾い上げたバカラグラスを見ながら「なんにだって高いだけの意味はある。この絨毯だからこのグラスは割れなかった。エリートは表の綺麗な場所で使われるのを待っていればいいのにな。藤堂を潰すような事はしない。使い方を変えるだけだ。心配するな」と言い、テーブルに置いたグラスの縁を指で弾く。キィーンと優しく鳴り「いい音色だ」と言ったサラマンダーがほんのりと笑う。
その笑みをトムに向け「CIAはマキシムと繋がってる。そうだな?」と聞く。「俺はマキシムを管理してただけだ。経緯は知らない」温柔なトムが答える。「いつからだ?」とサラマンダーがさらに聞く。「2年前」今のトムからはサラマンダーの思うがままに答えを引き出せる。そう、特別調合の自白剤。自分の血を見る事もなく、やめてくれと声を枯らして叫ぶこともなく、涙を流す必要もない。今のトムにあるのは多幸感だけだ。
「本国では内耳モニターと液体デイバイスのコピーはできたのか?」とサラマンダー、「いいや、分析して成分はわかったが、あらゆるレシピで試しても、どれも融解するらしい。この世界で液体デイバイスを製造できるのはあの女、盾石富士子だけだ」トムはとろける笑みで言ってしまう。
「red eyesの開発者はどうなった?」サラマンダーは質問の角度を変えた。「宗は偶然の産物red eyesを俺に見せて、我が国に亡命したいと相談してきた。だが、気づかれて身柄を押さえられた。宗の監視をしていた俺の相棒が宗の頭に9ミリ弾を撃ち込んで殺した。かの国が最強の生物兵器を手に入れたら世界の前途は暗い。正しい行動だった。あっ、お前たちは日比谷公園でred eyesを手に入れたんだったな。だが、使えない。特効薬がない生物兵器は自国の安全をも脅かす。残念賞だったが、この国を見る近隣諸国の目は確実に変わるぞ。超大国の仲間入りだぁー」機密が伸びやかな言葉となってスルスルとトムの口から溢れ出す。サラマンダーが「red eyesをわが国が手に入れただと、なんの話だ?」と返す。「またまた、その態度」と言ったトムはサラマンダーを両手の人差し指で指し、「奥ゆかしさがこの国の文化だとでも言ってるようだ。俺も嘘つき。お前も嘘つき」と続け、話す事が快楽を刺激すると知ったトムの口調はまったりとしていた。「あれで全部か?」と聞いたサラマンダーに、「ああ、ぜーんぶーーだーー。全部マキシムに渡した。あんなもん」と言った途端に身震いしたトムはしとやかに頷く。
サラマンダーが「どうして本国に送らず、マキシムに渡した?」と聞く。ジンワリと眉間にシワを寄せたトムは「あんなもん、保有してどうする。ハシゴを上がりやすくする必要はない。威嚇なら核兵器で十分だ。それにこの日本でテロが起きれば本国は俺たちに注目する。そうなれば組織も大きく出来るし、発言力も増す。円が売られ、ドルの価値が上がる。それでちゃんちゃんだったはずが、お前たちがしゃしゃり出てきてーー、しっかり仕事しやがった。くそ。red eyesを奪われた上に俺はこの不始末、マキシムは疫病神だ」トムは回らぬ口を懸命に動かし、トムなりに早口で話しているつもりだったが、聞いている方には間伸びする口調だった。
「トム、俺たちが対処を誤ると期待していたんだろう。red eyesが散布されようとしていた日比谷公園はこの国の中枢が集中してる場所だ。被害が出ていたら、初動の俺たちは責任を取らされて良くて部隊縮小、あわよくば廃止だ。利害が一致したんだよ。お前と藤堂の」知的な顔つきのサラマンダーが真実を突き付ける。
「そこまでわかってて、なんで俺に話しをさせる」トムの健やかな表情に影が落ちた。「お前に首輪をつけるためだよ。自白すると実感が増すだろう。これで俺たち仲良しだ」とトムを言葉で痛ぶる悪魔のサラマンダーの機嫌はとてもいい。
何かと横槍を入れてくる藤堂を手駒にでき、いざという時、トムからCIAが世界中でかき集めた情報が得られる。不機嫌なはずがない。あとはマキシムとトロンスキーを据え変えるだけだ。
「トム、もう帰れ、また今度な」と言いながら立ち上がったサラマンダーに、ニッコリと笑ったトムは「ああ、またな」と返して立ち上がったがフラつき、さっとトムの左肘を右手で支えたサラマンダーが、ウトウトし始めたトムを支えて歩き出す。
事の成り行きをリビングの戸口に立ち、見聞きしていたカンマルに視線を向けたサラマンダーは「玄関で警備しているピッコロとトムの車をピックアップして自宅まで送れ。室内に侵入する時、トラップに気をつけろ。朝、目が覚めたらトムは何も覚えていない」と言った。
トムの右脇に左肩を入れ「それでは今後、トムから情報が得られません」と言ったカンマルに、ふと目元を和らげたサラマンダーは「2重スパイの重圧がない分、行動はいたって変わりなく普通だ。それでいいんだ。ここ一番の時に刀は抜くもんだ、カンマル」兄のような優しさで説明した。
カンマルはスパイ戦の真髄を知る。




