シーン25 こぼれ落ちる、涙と気持ち
シーン25 こぼれ落ちる、涙と気持ち
目を瞑り、ベットで採血している富士子の目元から一粒の涙がこぼれ落ちた。泣いているわけではない。ただ、残り香のような余韻が落ちただけだ。
地下駐車場に迎えに来ていたファイターさんに付き添われ、私は彼がいる隔離室の前に進み出た。分厚いビニール越しの彼が私を見て微笑む。現実を目の当たりにした私は泣いた。泣く私に、彼は凛々しく「作戦進行に手違いがあって、規則上、ここにいるだけです。心配しなくていい」と男性的な声でキッパリと言い切った。
彼は優しい嘘をついた。私は知っている。私を探し当てた人たちから今、何が起きているか・・なぜ、私が保護対象になったのか・・どこへ行くか、どうして、そうしなければならないのか、その全ての説明を受けた後、私は2度目の守秘書類にサインしてここへ来た。彼はそれを知らない。
言い換えれば、彼の優しい嘘が埋もれるほどに、ここの状況は切迫していて個人の感情など確認する時間が無いほどに慌ただしく、混乱しているということだ。
実際、ドアを隔ててウィルスの封じ込めに立ち働く人たちの低く重い会話が、物音が、緊張が、願いが、川の流れのように溶け合い、聞こえて来てもいる。ここは・・戦いの最前線なのだ。
彼は赤い目で私に語り始め、その表情は穏やか過ぎて、どこかに行ってしまいそうで私は怖くなった。時折、顔を上げて私がいると実感したように微笑し、その度に彼の存在が霞んでゆくようで、私は無意識に左手の親指の爪溝を右手の親指の爪で押していた。それに気づいた彼は「富士子さん、爪を痛めます」と緩やかな声でやめさせた。
彼の自分の身に起きた事をあるがままに受け入れている様子に、私の心に恐怖の木枯らしが吹いた。そんなあきらめは許さない。彼を引き止められるのなら、私は棘だらけの怒りだって抱き締めてみせると、そんな強気が私の中で湧きい出た。
それでも私は母の話となると、取り乱して泣きじゃくってしまった。時に彼は、辛抱強く私が落ち着くのを待って話だし、その声は春の日差しのようで、私はその声にすがって泣いた。触れることができたのは・・声だけだった。
泣く私に、彼は一段と声を和らげたが、次第にその表情には険しさが加わっていった・・・彼は・・・私に母のことを話す・・自分を責めていたのだろう。
私は、彼の声に洗われたのだろう。折れ曲がって、頭を下げるしかなかった懺悔も、自分に抱き尽くした嫌悪も、暗く、深い罪悪感も、今、私の中にはない。
そんな剥がれても、剥がしても、癒えなかったであろう、傷心は去っている。
オルガは富士子から500ml採血した。既定を完全に、着実に超えていた。無理はさせるなと言われていたが、チャンスの容体を考えればこうせざるを得なかった。青く、透明な富士子に頭を下げたオルガは「ありがとうございます。ここで横になっていてください」懺悔するかのようにそう言い、右手で輸血パックを抱いて退室した。間に合うだろうか・・・、チャンスはこの輸血で、、、安定してくれるだろうか・・。着任早々の事態にオルガの心が揺れる。
その背を見送りながら富士子は思う。私はred eyesの抗体をもっているという。ならば、私がいるのは、ここじゃない。ゆっくり起き上がる。ふらつきながら、ドアの前にたどり着く。僅かに開けたドアの隙間から、外を見る。見覚えのある背が、壁のように立ちはだかっていた。「ファイターさん・・」小さくつぶやく。
その声にピクリと反応したファイタは振り返って「大丈夫ですか?ありがとうございました」と頭を下げた。ドアを大きく開けた富士子が「私の力ではありません。母からの贈り物を使っただけです」と、か細く言った。
敵の指揮官を狙撃する時のような観察眼で富士子を見たファイターは「イエーガーからの伝言があります。“来るな。ダメだ。今は身体をいとえ“ との事です。大人しく、ベットで休んでください。何かあったら必ず、お知らせします」倒れるのではないかと、身構えながら伝えたが、ガサガサとした聞き心地の悪い声になってしまった。聞いた人は、イヤな気になるはずだ・・・俺は・・格闘や狙撃、工作や策略そんなことばかりが得意で、デリカシーに欠けている。
「ファイターさん、お疲れではないですか」と富士子が聞く。やっぱりと思ったファイターは床に視線を落とし「私の疲労など、取るに足りません」とつぶやいた。そのファイターを富士子はシカと見上げ「心配ありません。尾長さんもチャンスさんも、きっと大丈夫です」凛とする口調で言い、一礼するや通路を歩き出す。
富士子の勇ましい口ぶりに面食らったファイターが「あの、どちらにいらっしゃいますか?」唖然としたまま聞く。一人微笑んで振り返った富士子は「私がいるべき場所に」青く、輝くようにそう返して、あれよあれよという間に要の隔離室に入っていく。
見送るファイターの目は、富士子の無謀な行動に釘付けとなっていた。完全なる置いてけぼりである。だがやがて、今日1日で溜め込んだファイターの後悔に、光が差しだす。俺は恐れに飲まれていた。今は前進あるのみだ。立ち止まってはならない。そう誓ったファイターは要の隔離室へと向かった。
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バサリと音を立てて、隔離室の入り口が開く。ベットの側にあった椅子に座ったばかりの富士子が振り向くと、左足を引きずりながら入室してきた医務官が「ここから出てください!あなたに抗体があるにせよ、強化された生物兵器です。感染しないとは限りません。出てください!」と鋭い口調で言い、富士子は自分の鼻先にそっと右手の人差し指を立て、医務官は不満げに口を一文字にする。富士子は椅子から立ち上がるや、部屋の片隅へと移動した。
後をついてきた医務官に振り返った富士子が「ご心配をおかけして、申し訳ありません。仰りたいこと、重々、承知しております。決して、ご迷惑はおかけ致しません。看病させてください」細針に糸を通すような声で言い、深く頭を下げる。それでも無言を通す医務官に富士子は顔を上げ、真っ直ぐな瞳で「ここに、いさせてください」と願う。柔らかくも、富士子の意志が迸る声だった。
医務官がため息のような息を深く、長く、吐く。
そして要を見遣るや、医務官は「しっかりしろ!かけがえのない人を泣かせるな!」野太くそう言い、富士子を見据え「わかりました。あと、1時間ほどで特効薬が届きます。チャンスの方がイエーガーより重篤だったので、あなたの血液はチャンスに輸血しています。申し訳ありません」と言って富士子に深く頭を下げ、顔を上げると「イエーガーは急激にリンパ節が腫れ出し、39.7℃の発熱があります。意識はありません。富士子さん、特効薬との相性がわからない今、抗生剤、鎮静剤の投与は控えています。これ以上、熱が上がるのは避けたい。腋窩と両足の付け根に冷却剤が入っています。小まめに変えてください。冷凍庫はあそこです」とテキパキと説明したあと指差し、ベットの傍らにある機器のそばに行き、右手の人差し指で画面を指し示して「これが心拍数、これが血圧、呼吸数、体温、これがspo2、動脈血中に含まれている酸素量です」と言った。キビッと、富士子に向き直った医務官が「異常だらけで、警告音が鳴りっぱなしになるので切ってあります。今のこの数値を基準として異変があったら、すぐに知らせてください。私はビスケットといいます」と名乗り、「はい」と返した富士子に、ビスケットは「イエーガーの気力が頼りです。よろしくお願いします」と言って意思ある背を折り、礼を尽くして隔離室から出た。
一礼してビスケットを見送った富士子は早速、冷凍庫に冷却剤を取りにゆく。そっと上掛けをはぎ、要の腋窩から冷却剤を取り出してみると、芯にまで熱が染み入ってクタクタに溶けていた。
あと1時間、できる事はこれしか無い。辛抱強く、繰り返して待つしかない。富士子が要の腋窩に冷却剤を挟むと、要が富士子の左手首を掴んだ。ハッとした富士子が、要の目を見る。微かに開いた要の目尻から、赤い雫がこぼれ落ちる。
枕元にしがみ付いた富士子が「私です。富士子です。あと少し、ほんの少しで薬が届きます。どうか、耐えて、お願いです」懸命に訴える。富士子を見た要は眉間に荒い皺を寄せ「なに・・してる・・ここから、出ていけ」声を張るがそうはいかず、富士子は起き上がろうとする要の両肩をベットに押さえつけ「いいえ!私はここにいます!どうか、今は休んでください。看病させてください。お願いよ、今は休んで」と振り絞る。
言いたい事を口にする間も無く、病みは要を暗い場所に引きずり込んだ。意識を失った要に富士子は慌て、要の首元に右手をあて、視線を機器へと走らせる。指先に鼓動を感じ、数値も変わりなく、富士子は細い息をついた。
それでも要は富士子の手首を掴んで離さず、富士子はそっとその指をほどいて、上掛けの内に戻した。妙だ。額は沸点のように熱く、手は氷点下のように冷たい。
富士子は思い至って宗弥にメッセージを打つ。
“尾長さんがred eyesに感染したわ、宗弥。特効薬が届くまで、あと1時間もかかる。間に合いそうにない!!なにかわかる人を探して、宗弥。お願いよ!治療の手立てがないか、教わって!!!”
送信した富士子が、人の気配を感じて振り返る。隔離室の外にファイターが立っていた。
富士子は静かに立ち上がり、ファイターの前に進み出て話しかける。「間に合わない気がします。オルガさんを呼んできて頂けないでしょうか」丁寧な言い回しではあったが、有無を言わせぬ声だった。




