On Your Mark
カチャリカチャリとスタートブロックをいじっていたら、ぴゅう、と強い風が競技場を吹き抜けて行った。思わず目を細める。芝生の上にはぽつりぽつりと人がいるのが、眼鏡を外したぼやけた視界からでもなんとなく見えた。
隣のレーンの人は、もう準備を終えたらしい。腰を高く上げたかと思うと、スッと流れるようになスタートの練習をしていた。綺麗なフォーム。自分は他所からどう見えているのかな、なんてふと思った。
いけないいけない。レースにちゃんと集中しないと。今日走るのはこれ一本だけ。だから、全力で。
タータンに手をつく。第一競技場のタータンは表面がちゃんとしている。ごわごわになってしまった第2競技場のタータンとは大違いだな、と思いながら前傾姿勢のまま、スタートを確かめる。
ヒュッと小さく耳元を風が切る音。うん、いつも通り。踏み出した右足の力を抜いていく。
よっしゃ、一発、やったりますか。
※
「まーた余計なこと考えてたでしょ。」
「え?」
レースを終えて、ストレッチマットに寝そべりながらマッサージをしてもらっている最中。咲がそう言ってきた。
「はい右足オッケー、氷のっけとくから冷たかったら言ってね。」
「うい。」
酷使してパンパンになった筋肉に、ロックアイスが触れる。心の中で自分に「お疲れ」と小さく声をかける。
「だってレース前のあの表情、絶対集中してなかったもん。」
「よく見てたね…。」
「そりゃマネージャーだもの、選手の一挙一足見て無いと、失格よ。」
ふるふるとふくらはぎを振られる。あー、気持ちい。
「由利香はね、スイッチ入った時とそうでない時の差がすごいわかりやすいから。今日のレース中は入ってたみたいだけど。」
「何よ『今日は』って」
「だって練習のタイムトライアルとか、『こいつ今絶対今日の晩御飯のこと考えながら走ってるだろ…』って時あるし。」
「嘘だぁ、そんなの、見てわかるもんなの?」
「うん、由利香めっちゃ顔に出るタイプだし、そういう時のタイム決まって遅いもん。」
「知らなかった…。今度から顔に出さないようにするわ。」
「いや、その前に集中して?練習も、記録会も。」
二人であははと笑う。クールダウンしている時の、筋肉と一緒に精神を緩めていく感覚が、私はとても好きだ。
「で、今日は何を考えてたの?」
「うーん、見てくれてる人のこと。先輩方、とか」
「ああ、晴樹さん?」
あえてぼかしたのに、咲にはバッチリ伝わってしまった。晴樹先輩は去年、なぜか唐突に辞めてしまった。あれだけ面倒を見てくれて優しくしてくれた、私たち部員にさえ何も言わずに。
「由利香の憧れだもんね〜。」
ニヤニヤと咲が言う。
「ちがっ、そんなんじゃなくって…」
確かに憧れではあった。力強く走る先輩のフォームを見るたびに私もあんな風に綺麗に走りたいと思った。試合前の緊張をほぐしてくれる優しさが、心に沁みて嬉しかった。
「咲は先輩がなんで辞めたか知ってる?」
「ううん、知らない。なんか聞きづらいよね、辞めた理由とかって。」
学校ですれ違えば、先輩は変わらず優しい顔で挨拶をしてくれる。けれども、それが却って「何も聞かないでほしい」という意思の表れな気がして、それ以上、踏み込めなかった。
「そんな気になるんなら『見にきてください』ってLINEかなんかで言ってみればいいじゃん。」
「ちょ、そんな簡単に…。」
「競技場広いから、先輩が一人来たところで他にはバレないって。私なんか、完全部外者の彼呼びつけて手伝わせてるっていうのに。」
「それは咲達がイレギュラー過ぎるだけだって…。」
咲の彼氏の犬山くんは帰宅部なのだけれども、時々陸上部に来ては咲含めマネージャーの手伝いをしてくれている。なんでも中学までは陸上部をやっていたとのことで仕事もしっかりしてくれるため、部員達の間では感謝されているのだけれども。
「はい、マッサージ一通り終了。どこか張ってるとことか無い?」
「うん、大丈夫、ありがとう。」
「そしたら私、次の競技始まるからそっち行くね。」
「おっけー。」
咲は、マネージャーのバッグを持って立ち上がった。
「由利香次第だからこれ以上は言わないけど。」
「ん、何?」
「自分から行動しないと、多分、何も始まんないよ。」
彼女はそう言ってテントの影から出ると、競技場の方へと行ってしまった。
「自分から、かぁ…。」
LINEの友達一覧を開く。たくさんのアカウントに埋もれるようにして、先輩のアイコンがあった。
プロフィール写真は、初めて登録した時からずっと変わらない。桜が舞う競技場の風景だった。




