表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/16

九話

 家に帰ると、瑠の服に僅かに付いていた油彩絵具のにおいが慧の元にまで漂った。

「何だよ、この変なにおい」

「油絵っていうやつだ。俺も初めて知ったんだ」

「油絵? 油で絵なんか描けるのか?」

 双子だからか、疑問に感じることは一緒だ。はっきり言って未だに瑠もわけがわからなかった。

「食べる方の油じゃねえよ。あれじゃ色なんて塗れないだろ」

「じゃあ油絵じゃないじゃん。だいたい、どうしてお前がそんなこと知ってんだ? 絵なんか描いたことないのに」

 確かに、瑠は絵に興味はなかったし、落描きさえ描いた経験はない。不思議なのも仕方ない。

「俺は、今日から油絵の練習して、綺麗な絵を描く勉強をするんだ」

「勉強? 誰が先生なんだ?」

 ふと先生の名前を聞くのを忘れていた。首を傾げて何とか答えを探した。

「めちゃくちゃ絵が上手な人だ。特に薔薇が得意で、ものすごく感動するぞ」

 ふん、と慧は腕を組み、少し呆れるような目を向けてきた。

「絵に感動するなんて、瑠って変わってるな。しかも自分でも描こうなんて面倒くさいこと、俺だったら絶対嫌だね」

「別に、お前もやれって言ってるんじゃない。油絵を面倒だとか馬鹿にするな」

 いらいらし、さっさと部屋のドアを閉めた。良さが胸に響かないなら余計な話はいらない。本当に美しいものがどういうものか理解できない慧を哀れに思った。瑠は空や花などの自然を眺めるのが趣味で、他人とおしゃべりもせず黙々と行う絵画に適している性格だったから、油彩に一目惚れしたのかもしれない。先生も屋敷に家族がいないので、誰かに邪魔もされずマイペースに絵を描けるのだろう。

 ところで、なぜ家族がいないのか。高齢だし、子供が出て行ったのか。とすると妻はどこにいるのか。それともこの歳まで独身だったのか。六歳の瑠には答えは闇の中だ。

 翌日から、瑠は先生の屋敷に通い始めた。画材はすべて揃っているしアトリエは広く二人なら全く狭くないスペースだ。まずは基本を学ばなければならないので、鉛筆で丸や線を描く練習からだ。早くキャンバスに色を塗りたいという言葉は飲み込んで、とにかく続けた。こうしてしっかりと基本を学んでおけば美しい作品はできあがるのだと、わがままは言わず先生の言う通りに従った。また、そうすることによって先生との距離や信頼感が少しずつ増えていった。最初は瑠くんだったが次第に瑠になり、親子のような関係になった。家にいてもほったらかしにされるだけなので、休日は泊まり込みで勉強に励んだ。瑠がいなくても家族は心配しないので、いくらでも時間があった。

「それにしても、先生ってでっかい屋敷に住んでるんだな。しかも一人で」

 ふと言葉を漏らすと、先生は寂しげに笑った。

「本当はいたんだよ。油絵よりも大好きで大切な……命よりも大事な妻がね」

「妻? 奥さん? 結婚してたのか」

「まあね。実は私も独りが大好きで、昔から家族とも離れて絵を描いてきたんだ。独りじゃないと集中できないし邪魔されたくないしね。友人もいなかったよ」

 瑠と瓜二つだ。違うのは油彩を知っているか知らないかだけだ。

「へえ……。それでよく奥さん見つけられたな」

「彼女も絵を描くのが趣味だったんだよ。でも才能がないって途中で諦めて、見る側になったんだ。そして偶然私の絵を知って、どんな人が描いているのかって探してこのアトリエまで来たんだ。私は煩わしくて来ないでくれって怒鳴ったよ。ストレスも溜まるし気が散るし、いい加減にしてくれって。それでも彼女はアトリエにやって来た。来るだけじゃなく、どんな絵も素敵だとか美しいとか褒めてくれて……。他人に感想をもらった経験がなかったから、だんだん嬉しい気持ちが溢れて、彼女がやって来るのが待ち遠しくなったよ。恥ずかしいからありがとうなんて言えなかったけど」

 先生の瞳はきらきらと輝き、妻とのひとときが明るく楽しい出来事だと伝わった。瑠も穏やかに笑っていた。

「それで結婚したんだな」

「愛してるなんて告白する勇気はなかなか沸かなかったけど、他の男に奪われたくないっていう焦りの方が強くて。この人しか私を幸せにしてくれない、結婚しようって決意したんだ。彼女も好きだと返事をしてくれて、すぐに式を挙げたよ。ウェディングドレスの彼女を描いてプレゼントもしたよ。天国みたいだったよ」

「じゃあ、なんで今はいないんだ?」

 質問すると、先生は俯き低い声で答えた。

「……亡くなったんだ。病気で」

「亡くなった? 死んじゃったのか?」

 衝撃で目が丸くなった。先生は小さく頷き、もう一度話した。

「もともと体が弱かったんだ。結婚してまだ二年で妻は死んでしまった。子供も産んでいないから、私はまた独りに戻った。天国だったのに地獄に突き落とされたんだ。一瞬でね」

 さらに驚いて、暗い過去を蘇らせてしまった自分を責めた。

「……せめて子供がいればよかったのに。それって何年くらい前なんだよ」

 だが先生は黙って項垂れていた。ずっと昔の出来事だから覚えていないのかもしれない。

「新しく女の人と結婚すれば、寂しくなかっただろ」

 ふるふると首を横に振って、俯いたまま先生は呟いた。

「新しい女の人なんか現れないよ。妻を失って生きがいを失って醜く痩せ細った男を好きになる女性なんかいるはずないだろう……」

 涙混じりの声が槍のように瑠の心に突き刺さった。体も冷たく凍り付いた。以前は独りでもへっちゃらだったのに、一度愛の暖かさに触れてしまうとどうしようもなくなる。たった一人の妻が消え、先生はどれほど辛い目に遭ったのか想像できなかった。嘘だ悪夢だと泣き叫び、ぼろぼろに壊れ砕け散った心のまま地獄の毎日を送るのだ。おまけに先生は助けてくれる友人もいない。

「……だから俺に話しかけてきたのか」

 瑠も呟くと、先生は微かに頷いた。

「どうしていつも独りでいるのか、独りでも悲しまずにいられるか教えてほしかったんだ。弟の慧くんばっかり可愛がられていて羨ましいとか悔しいとか考えないのかい?」

「全然。どうでもいいし、そっちが冷たい態度なら、こっちも冷たい態度で返すって決めてる。友だちと喧嘩もないし、恋人も必要ないし、結婚だって絶対しないよ」

「まだ瑠は小学生で、これからどんな人生になるかわからないだろう。諦めるのは一番いけないことだ。どんなに無理で奇跡でも起きない限りありえないと思うことも、そうやって諦めてはいけないよ」

「諦めてるんじゃないよ。最初っから興味ないってだけ。恋人なんかいらないし、もしいたらせっかくの油絵が描けなくなるしさ。邪魔されてストレス溜まったら、いい絵なんか描けないじゃん」

 すると先生は、そばにあった机の引き出しからあるものを取り出し瑠に渡した。薄汚れた紙切れだ。

「何これ?」

「妻が亡くなる直前に、私にあてた手紙だよ。もし自分が死んでしまっても落ち込まないようにと書いておいたんだ。ほとんど読めないが、私の大事なお守りだ」

 確かに文字は掠れて読めない。それほど昔だったのだと改めて考えた。

「どんな文章が書かれてたんだ?」

 聞くと先生は、しっかりと固い口調で即答した。

「私がいなくなっても、独りになっても、あなたは絵を描き続けて。どんなに寂しくても辛くても絵を描いて。いつかあなたの絵を探してくれる人が必ず現れる。あなたの絵はとても癒される尊い作品だから、きっと好きになってくれる。そしてその人はあなたに最高の喜びと愛を与えてくれる。だからあなたも最高の喜びと愛を与えてあげて。あなたが幸せになるのが私の一番の願いだから。……最後の最後まで、彼女は私の絵を愛し続けてくれていたんだ。彼女と同じ女性は、どこにもいないよ。もし現れたとしても私は彼女を忘れられない……」

 切なく悲しい妻の気持ちが強く胸に響いた。自分も病気で苦しいのに、それについては触れず、ただ先生だけを心配している。そして先生もまた、妻の姿が胸に浮かんでいる。距離が遠すぎて二度と会えないとわかっているけれど、絶対に心から消えない。まさに大恋愛だ。

「私は、瑠を我が子だと思っているよ。血が繋がってはいないが、瑠は私の立派な息子だ」

 先生の一言に、瑠も大きく頷いた。

「俺も、先生のこと親だと思ってるよ。優しくて子供想いの父親だって」

 ぎゅっと飛び込むように抱き付くと、先生も細い腕で抱き返してくれた。

「どうか私のそばにいてくれ。ずっと離れないで。もう独りぼっちになりたくない……」

「俺も先生のそばにいたい。先生しか信じてないよ」

「ありがとう。瑠のためならどんなこともするからね」

「うん……」

 笑みがこぼれ、はっと驚いた。こんなに笑顔になるなどほとんどないため、どきりとした。先生のお守りを受け取り、いつも肌身離さず持ち歩くと告げた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ