八話
瑠が孤独の世界から抜け出せたのは今回だけではなかった。まだ六歳くらいの頃だ。やることもなくぼんやりと過ごしている生活。空や花を見たり当てもなく散歩したり、つまらない毎日を送っていた。学校でも家でも瑠に話しかけてくる人はいない。弟の慧ばかり楽しく明るく暮らしていた。しかし別に羨ましいという考えは起きず、とにかく孤独だった。
いつも通り街をぶらぶらと歩いていると、突然背中から肩を叩かれた。驚いて振り向くと、まるで骨と皮でできているガイコツのような人間が瑠を見下ろしていた。
「初めまして。ちょっと私の話に付き合って……」
「うわあっ」
まだ幼かったため幽霊だと勢いよく走り家に帰った。部屋で荒い息を落ち着かせた。
「な……なんだ……。今の……。ガイコツ……」
掠れた声で呟き、冷や汗を拭った。まだ昼なのに幽霊が現れるのはなぜか。瑠の頭の中では、幽霊は夜現れるものだと記憶してある。それに幽霊はしゃべらないし触れないはずだ。けれどあのガイコツが生きている人間だとはとても思えない。さっさと忘れようと首を横に振り、明日から別の道を歩こうと決めた。
しかし翌日も翌々日もガイコツは現れた。背中から肩を叩き、瑠をじっと見下ろすガイコツ。さらに腕を掴まれて逃げられない。
「やめろ。放せよ」
振り払おうとしても力が強くて放せない。人気のない公園まで移動し、ガイコツは瑠の顔に視線を向けた。
「ごめんね。君とどうしても話がしたくて。少しでもいいから付き合ってくれ」
「俺と?」
「おかしなことをするわけじゃないから。こんなに痩せたじいさんが君を襲える元気もないしね」
よく見るとガイコツは、すっかり年老いた男性だった。確かにその通りだと安心はしたが油断は禁物だ。
「さて、じゃあ君の名前は何て言うのかな?」
「えっ? 名前?」
知らない人間に名前を教えたら危険だとよく聞いていたため戸惑った。瑠の躊躇いが老人に伝わったようで、すぐに首を横に振って苦笑した。
「簡単に名前は教えられないね。わかった、私の家に行こう」
「い……家?」
もっと危ないじゃないかと怖くなったが、老人は手を掴んで歩き始めた。引きずられるように瑠もついて行った。
しばらくして老人が立ち止まったのは、白くて大きな屋敷の前だった。庭にはたくさんの薔薇が咲いている。その赤がやけに生々しく感じられた。この老人の生き血を薔薇が吸い取ったみたいだ。
「ここがあんたの家?」
「そうだよ。住んでるのは私一人だけだがね」
「一人?」
こんなに屋敷が大きいのに家族がいないのか。もしかしてこの薔薇が家族を食べてしまったのか。もう一度薔薇を見てから中に入った。
玄関を抜けリビングに行くと、ふわふわのソファーに座らされた。周りに置かれているものの豪華さにどきりとした。天井には見事なシャンデリア。床は大理石で絨毯も凝ったデザインだ。壁にかかっている絵も置き物の飾りもすごい。どうしてこれほど優雅な場所に住めるのか、キッチンで茶を淹れている老人を緊張しながら眺めた。
「はい、どうぞ。お口に合うかな?」
おいしそうな紅茶をテーブルに置かれたが、中に薬が混ざっていたらと飲めなかった。
「……どうして俺をここに連れてきたんだ?」
真っ直ぐ疑問をぶつけると、老人は紅茶を一口飲んでから答えた。
「君は不思議な色を持っているから」
「不思議な色?」
「そう。街を歩いていたら不思議な色が目に飛び込んできた。それが君だった」
全く意味がわからなく、この老人はボケて頭がおかしくなってしまったのだろうと哀れに思った。助けてくれる家族もいないため自分が狂っているのにも気付かない。
「俺、そんなに暇じゃないんだよ。他の人とやってくれ」
冷たく言い立ち上がったが、老人は泣きそうな表情で首を横に振った。
「お願いだ。もう少しだけ付き合ってくれ」
「不思議な色とかわけわかんないし。色って何だよ。どうして俺が色になるんだよ」
すると老人は立ち上がり、こっちへ来いと伝えるかのような視線をして後ろに振り向いて歩き始めた。無意識に瑠も早い足取りのガイコツを追いかけた。
長い廊下の突き当りに大きなドアがあった。なぜか独特のにおいが中から漂ってくる。老人が勢いよく開き、視界に飛び込んできたものは描きかけのキャンバスとたくさんの花の絵だった。
「君は油絵って知っているかい?」
聞かれ、ふるふると首を横に振った。
「知らない。油で絵なんか描けんのか?」
「料理で使う油じゃないよ」
穏やかに言い、老人は描きかけのキャンバスに触れながら先ほどより強い口調で話した。
「私は油絵が大好きなんだ。特に薔薇を描くのがお気に入りでね。庭にたくさんの薔薇が咲いているのもそのせいだ。この屋敷にある絵は全て私が描いたんだ」
「全てって……。壁に飾ってあったのも?」
「そうだよ。油絵は私の生きがいだ。常にそばにいてくれるのは油絵だけなんだ」
あまりにも美しい作品に、頭がおかしくなってしまったという哀れの気持ちは消え失せた。逆に、この老人の憧れの想いが生まれていた。瑠も部屋に入り、キャンバスに近付いた。
「す……すごい……。写真みたいだ……」
きめ細やかで派手でも地味でもない色鮮やかな薔薇の数々。どれも透き通るように輝いている。
「君を不思議な色といった意味、わかったかな?」
素直に頷いて、そっと呟いた。
「……俺も、油絵描いてみたい。こんなに綺麗な絵……。俺も描いてみたい……」
老人は微笑み、しっかりとした口調で答えた。
「やっぱりね。きっと君は好きになってくれると予想していたよ。……じゃあ、名前を教えてくれるかな?」
「水無瀬瑠。俺は先生って呼んでいい?」
「もちろん。一緒に頑張ろう。瑠くんが立派な絵を描けるように私も努力するからね」
うん、ともう一度頷いた。胸の中が暖かく、心がまるで羽のように軽くなっていた。