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五話

 慧の、爽花への不満は募っていく。「爽花は馬鹿だ」「頭おかしい」「花なんか見ても面白くないのに」「くだらないものにばっかり感動して」「自然が好きなんて、ついていけない」など、明らかに思いやりに欠ける言葉に、アリアも困っていた。

「爽花ちゃんが可哀想でしょう? 慧、爽花ちゃんが大好きなんでしょう? だったら、そんな酷いこと言わないで。母さん悲しいわ」

「可哀想なのも悲しいのも俺の方だよ。せっかく誘ったのに映画もめちゃくちゃつまらなそうにしてさ。話聞いてんのかっていらいらする。いつもいつもアホみたいにぼけっとしてるし、全然しゃべんないし、こっちの身にもなれよって感じだろ。いい加減にしろよって怒鳴ってやろうかな」

「やめて。母さん、そんな話聞きたくないっ」

 涙混じりの声にいたたまれなくて瑠も部屋に逃げた。空や花に感動しているということは、爽花は未だに瑠を覚えている。アトリエでのひとときも全て覚えている。もちろん慧にバレないように気を付けているはずだ。どうしても忘れられないものは、人生にとってかけがえのない宝物だ。瑠も爽花を忘れられない。きっと一生忘れられない。どんなに頑張っても、爽花の明るい笑顔や独りぼっちだと流した涙を記憶から消せない。慧が嫌がっているのは、爽花がまるで瑠と過ごしているような態度をとるからだろう。自分に影響されると誰だって嬉しくなる。けれど爽花は慧ではなく瑠と好きなものが共通している。空が綺麗、花が美しいと言う時、爽花の瞳にあるのは慧ではなく瑠だ。ぼんやりとしている爽花を、慧はどんなやり方で痛めつけているのだろうか。泣いて傷ついている爽花が胸に浮かび、慧への怒りも生まれた。だが瑠には爽花を護る権利はない。再会しないと怒鳴ったのだから、突然瑠が現れて爽花を助けるなんて許されない。瑠は爽花とは関係がなく、繋がるのは無理なのだ。だいいち絵が描けない現在の瑠には魅力など何もなく、ただとっつきにくいだけの暗い男だ。爽花も絵がないなら瑠と付き合いたいという気持ちにならない。独りで生き独りで死ぬしか瑠には残されていない。爽花だけでなく画力も失うのはあまりにも酷い。どうすることもできず、瑠もぼうっと遠くの空を眺めていた。

「どこかで、あいつもこの空を見ていればいいな……」

 薄っすらと願い、部屋に引きこもっていた。

 さすがにアリアも心配し、こんこんとドアを叩いてきた。

「瑠、大丈夫?」

「大丈夫って? 何が?」

 抑揚のない口調で前を向いたまま答えた。

「だって、ずっと引きこもってて……。ご飯もろくに食べてないでしょう? 絵も描いてないし……。どうしたの?」

「いいだろ。ほっといてくれよ。いつもみたいに」

「だけど……。……もしかして、それって……さや」

「うるせえな。もう話しかけんなっ」

 大声で言うと慌ててアリアはドアを閉めた。爽花ならまだここにいるだろう。本当に相手を心配し、落ち込んでいる理由が何か気になっているなら、ちょっとやそっとじゃ逃げない。爽花の真摯な眼差しと、瑠を明るい世界へ導こうという努力の姿が蘇ってきて、長いため息を吐いて俯いた。爽花のような女の子はどこにもいない。瑠を親身に感じ、いつもそばにいてくれる存在は、たぶんこの先どこにも見つからない。もっといい別れ方を選べばよかったと後悔しても時すでに遅しだ。瑠に残された人生は孤独だけだ。

「俺のこと嫌いなのかな」

 いらだった声で慧がぶつぶつと呟き始めた。アリアは首を傾げて聞いた。

「爽花ちゃんが慧を嫌ってるってこと?」

「そうだよ。俺と一緒にいたくないのかな。話してもうわの空で、俺と爽花は相性よくないのかも……。もしかしたら、どっかに好きな男がいるんじゃないかな……」

 そして、ふとドア越しに見つめていた瑠の方に視線を向けた。慧の瞳は黒く沈み、嫉妬の炎はなかった。瑠に助けを求めているような、心に直接訴えかけるような、何か伝えたがっているようだ。瑠も慧の顔から目が離せず、じっと黙って立っていた。アリアは二人をそれぞれ見て、喧嘩が始まるのではないかと焦っていた。しかし瑠も慧もとてつもなく静かで、争う気は全くなかった。

 どちらからともなく視線を外し、瑠はゆっくりと部屋に戻った。慧の瞳とキャンバスの黒がそっくりだと感じた。現在の慧は真っ暗な深い森の中で怯えながら進んでいる状態だ。瑠は慣れているので迷うことはないので、道案内をしてくれと考えているのかもしれない。

「爽花と付き合うのが辛い」

 今度は弱音を吐き始めた。アリアは相変わらず困惑している。

「あんなに可愛くにこにこしてたのに、どうして笑ってくれないんだ……。爽花のために頑張ってるのに……」

 はあ、とため息を吐いて項垂れる慧を何度も見た。




 ある日、またドアが叩かれた。アリアかと思ったが慧だった。

「何だよ」

 低い声で言うと、真剣な眼差しで慧は話し始めた。

「お前、セルリアンブルーが好きなんだよな」

 意外な質問に少し驚いたが、素直に頷いた。

「好きだ。それがどうかしたのか」

「ふうん。そうか。どれくらい好きなんだ?」

 どれくらいと聞かれても言葉では表せられない。慧も気付いたのか、違う言い方に変えた。

「今でもセルリアンブルーが好きか?」

「今でも好きだ。セルリアンブルーがどうかしたのか」

 すると慧は俯き、そっと呟いた。

「わかった。……好きなんだな。わかった」

 独り言を繰り返しながら、慧はゆっくりと部屋から出て行った。そして、その日から急に指の震えが治まった。筆も持てるし普通に絵を描けるように戻った。また油彩が続けられると、ほっと安心した。ぼんやりとしていた心もしっかりとし、フランスに行こうという気持ちが生まれた。フランスで絵の勉強をしようと思いついた。さっそくアリアに言うと、目を丸くし首を横に振った。

「フランスに? どうして……」

「花しか描けないだろ。人や動物も描けるようになりたい」

「待って。いきなりそんなこと……。瑠がフランスに行っちゃうなんて、母さん寂しい。行かないで」

「ほとんどほったらかしだっただろ。慧だけいれば充分だろ」

 さらに目を丸くし、石のように固まって黙った。本音を見透かされたという表情だった。

「あいつにも教えてやってくれ。これから荷物まとめる」

 素早く言い、さっさとリビングから出た。

 荷物といっても瑠の持っていく必要最低限のものは着替えと画材道具くらいだ。私物が少なくてよかったと初めて思った。ほんの二時間ほどで荷物はできあがり、あとはパスポートや空港、飛び立つ日時を決める。アリアから話を聞いた慧が慌てて部屋にやって来た。

「フランスに行くって本気かよ?」

「本気だ。もっと画力あげなきゃいけない。本格的に絵の勉強をしたいんだ。家は先生の屋敷が残ってると思うから、そこに住む。もしなかったら自分で探す」

「探すって……。無理だろ。いきなりフランスに住むなんて無謀だろ。やめておけよ」

「いや、もう決めたんだ。荷物だってまとめたし、とにかく絵を学ばないと。風景だけじゃなく人も描けないと」

「人?」

 突然じろりと慧が目つきを変えた。指を差して慧は続けた。

「別に、お前には友人なんていないんだから人は練習しなくてもいいだろ。それとも描きたい誰かがいるのか? 絵にしてあげたい誰かが」

 どきりと胸が鳴った。そういうつもりで言ったわけではないが、慧は理由があって勉強したいと聞こえたようだ。

「特に描きたい奴がいるわけじゃない。とりあえず人も描けるようにしたい」

 望んでいた答えではなかったからか、慧は悔しげな表情になり、違う話を始めた。

「フランスに行っても日本には帰って来るんだよな?」

 首を横に振って、瑠は即答した。

「日本には帰らない。フランスでそのまま暮らす。ここには二度と戻るつもりはない」

「えっ?」

 驚いて慧は目を丸くした。かなり動揺している。

「二度と戻らない?」

「俺がいなくなって万々歳だろ。ようやく厄介者が消えたって嬉しいだろ。よかったな」

「ふ……ふざけんなよ」

 ばしっと胸を叩き、ぎろりと睨み付けた。

「確かに俺はお前が大嫌いだったよ。お前なんかどっかに行けばいいのにって、ずっと願ってた。でも、やっぱり血が繋がった兄弟なんだし、二度と会えないのは寂しいだろ。フランスでどんな生活してるのかとか、元気でやってるのかとか知りたいだろ」

 嘘ではないと感じた。同じ家で育ったため、僅かにも愛は存在しているのだ。

「悪いけど、日本に帰るつもりはない。永久にさよならだ」

 冷たく言い切ると、慧は苦しそうに顔を歪め、すぐに部屋から出て行った。


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