四話
廊下を歩いてリビングに近付くと、慧とアリアがおしゃべりをしていた。爽花とのデートの話だ。
「今日、爽花に空が綺麗だって言われたんだ」
「空?」
「そう。ただの青空を綺麗とか、爽花ってちょっと変わってるよな」
かなり不満そうだ。アリアは少し緊張した表情で答えた。
「爽花ちゃんは変わってるとは思わないけど……」
「だけど、せっかくのデートなのに空が綺麗だとか、余計な話しないでくれって感じだろ」
「いいじゃない。爽花ちゃんは爽やかなものが大好きな女の子なんだもの。慧は、爽花ちゃんが空が綺麗って話したのが気に入らないの? そっちの方が変だと思うわよ?」
「別に……。気に入らないってわけじゃないけど……」
むっとして慧は黙った。アリアは目を逸らすためか下を向いていた。
爽花はセルリアンブルーが好きだという事実が蘇った。名前の中に「爽やか」という漢字が含まれているのもあって、幼い頃から青や緑や自然が大好きだとよく言っていた。瑠も自然が好きで、描くのも花ばかりだ。画力ゼロなのに瑠みたいに美しい自然を描いてみたいと絵の勉強をしたり、瑠の作品を公開したいと張り切ったりしていた。その時、ある言葉が胸に浮かんだ。亡くなった先生の言葉だ。
「私はね、妻のために絵を描いていたんだよ。妻が喜んでくれるのが一番の幸せでね」
幼い瑠にはわからなかった。友だちが一人もいないため「誰かのために何かをしてあげると、自分も嬉しくなる」という意味が理解できなかった。
「ふうん……。先生は、本当に奥さんのこと大好きだったんだな」
「大好きというか……。私の全てだよ。彼女がいたから私は生きていられた。真っ直ぐ歩いていられた。きっと瑠にも大好きな人が現れるよ。護りたい、絶対に離れたくない人がね」
「いないよ。俺って友だちゼロなんだぞ? 興味もないし。独りの方がいいよ」
「いいや。必ず現れるよ。間違いない。そうやってすぐに諦めてはいけないっていつも言ってるだろう」
強く言い切った先生は、真剣な眼差しで瑠を見つめていた。
「護りたい……。離れたくない……」
消えそうな声で呟くと、そっと慧がこちらを向いた。はっと驚き、逃げるように部屋に戻った。
曖昧になっていた悩みの答えが、はっきりと鮮明になった。指が震えて描けないのも、色が灰色で鮮やかに映らないのも、爽花を失ったからだと確信した。瑠が絵を描く理由は爽花に喜んでもらうためだったのだ。しかし爽花とは別れてしまった。もう絵を描く意味がなくなってしまった。だから筆も鉛筆も握れないのだ。それほど瑠にとって爽花は、とてつもない生きがいだったのだ。結婚したら、爽花は慧の嫁として水無瀬家に加わる。けれどすでに爽花は慧のものであって、自分のものには絶対にならない。爽花自身も瑠を嫌って、二度と絵を褒めたりしないだろう。すぐそばにいるのに手に入らない。しかも弟の慧に奪われた。慧と爽花が愛し合っている光景を見るのは、とても辛い。むしゃくしゃして、描きかけのキャンバスを黒で塗りつぶした。絵があると爽花を思い出してしまう。爽花の笑顔や明るい声、子供っぽいドジ、ぽろぽろと流す涙、アトリエでのひととき。何もかもを捨てるには、こうするしかない。
妻が亡くなってから、どんな日々を送っていたか先生に質問したことがある。
「先生の奥さんって、まだ若い頃に死んじゃったんだよな。その後どうやって暮らしてたんだ?」
美しい薔薇の絵を描いていた先生は動かしていた手を止め、ちらりと瑠の顔に視線を移した。
「……それは、言葉にできないほど辛く苦しい日々だったよ。何度も死のうとしたよ」
「えっ? 死ぬ?」
「彼女がいないなら生きてても意味がないからね。でも私は昔から弱虫で、どんなに覚悟を決めても死ぬ勇気は出なかった。死にたいと言いながら、結局最後は諦めるんだ。そして、彼女の残した手紙の通り、絵を描き続けていたよ」
亡くなる直前に妻が書き残した手紙。私がいなくなっても絵を描き続けていてほしい。絵を描いていれば、いつか見つけに来て好きになってくれる人が現れる。そしてその人はあなたに最高の喜びと愛を与えてくれる。だからあなたもその人に最高の喜びと愛を与えてあげる。
「最高の喜びと愛……か……」
「うん。この言葉を信じて絵を描いていたら、こうして瑠に出会えた。彼女は神様みたいだよ。本当に愛するべき瑠が現れるなんてね」
「神様か。先生の奥さんって、すごい人だったんだな」
「私もすごく尊敬しているよ。瑠にも会わせたかったな。……そろそろ完成だ。きちんと仕上げて綺麗な薔薇にしよう」
「ちゃんと終わりまで手を抜かないから先生の絵は素晴らしいんだな。先生もすごい人だね」
「瑠も、どんな作品も丁寧に仕上げるんだよ。そうすれば繊細で色鮮やかな美しい作品になるからね」
わかった、と頷き、先生の描いた薔薇に改めて惚れ惚れした。
「……絵が描けない時はどうすればいいんだよ……」
ぐったりとベッドに寝っ転がって、独り言を漏らした。絵を描き続けろと言われても、手が震えて筆が持てなかったら。黒く塗りつぶしたキャンバスを眺め、虚無感と倦怠感の波に襲われた。