三話
ふとカレンダーを見ると、あともう少しで高校生活が終わると気付いた。瑠は学校に通っていないため卒業の準備はしなくても平気だが二つ問題があった。このままアトリエを使わせてはもらえないので、次のアトリエを探さなくてはいけない。もしなければ部屋でこっそりと描けばいい。とりあえずアトリエの問題は片付いたが、一番大きい問題は爽花だった。大学生になってから、瑠と爽花はどんな付き合いをするか想像できなかった。慧は爽花と結婚するつもりで、要するに爽花とは義理の家族となる。たぶん結婚しても爽花は瑠の部屋に来て作品を褒めるはずだ。大好きな妻が、大嫌いなライバルと仲良くしていたら、慧はどれほど嫉妬をするか。今まで以上に酷い仕打ちを、瑠にも爽花にもぶつけてくる。爽花が傷つくのは嫌なため、もうアトリエに来るなと告げるしかない。慧の言う通り、瑠と爽花には何の関係もない。ただ好きなものが共通しているだけ。友だちではない。
さっそく爽花に「アトリエには来るな」と話したが、あの爽花が素直に頷くわけなかった。どこまででも瑠を追いかけ、絶対に離れたくないという爽花だ。もちろんアトリエにやって来た。また独りぼっちになろうとしている、どうして誰かと繋がろうとしない。確かに爽花の言葉は最もで正しい。世の中は持ちつ持たれつで、完全に独りで生きられない。いつかは他人と付き合って、共に行動する日が来る。しかしそうではなく、瑠がアトリエに来てほしくない理由は、爽花が慧に痛めつけられるのを防ぐためだ。もう離れ離れにならなくてはいけないのだ。
しつこいほど爽花はアトリエに来た。慧にバレたら大変な目に遭うのを知っているのに、毎日アトリエに通い詰めた。パレットナイフで怪我をさせようと脅したり、服を脱がそうと怖がらせたりしても必ずやって来た。そこで、無理にでも来させないようにするために最終手段をとることにした。爽花に嫌われそうな暴言を探し、全て怒鳴り散らした。二度とアトリエに来たくないと言わせるために、わざと悪者になった。別に慧から酷い名前で呼ばれてきたし、今さら悲しい思いは起きなかった。案の定、爽花は激怒し「二度とこんな場所に来ない」と叫び走って行った。爽花を追い払うと、ふうと息が漏れた。緊張していたのか手に汗が滲んでいた。
イチジクの屋敷にも行き、置かせてもらっていたスケッチブックを回収した。万が一爽花が屋敷に来ていたら会ってしまう。完全に行方をくらまし、どこにいるかわからない状態にした。
爽花と別れて数日が経ったある日、ふとこれでよかったのかという迷いが生まれた。もっと違うやり方があったような気がした。爽花には癒され絵も褒めてもらい数え切れないほど世話になっている。瑠のために、どれほど爽花は悩み、努力したのか。それを全て踏みにじる態度をとって申し訳なくなってきた。本当は……本当はそんなに酷いことは言いたくなかった。もちろん来るなと怒鳴ったのだから爽花は二度とアトリエには現れない。自然に爽花は慧の恋人になり、二人で愛し合っていく。大嫌いな瑠には目も合わせないだろう。瑠は黙々と絵だけ描いて、死ぬまで孤独のままだ。胸を大きな槍で突かれた感じがして、がっくりと項垂れた。血が泥のように濁って、体中がどす黒くなったようだ。しっかりと眠れない夜が続き頭も痛い。おまけに指が震えて筆が持てなくなった。鉛筆も持てない。絵が全く描けなくなった。さらに、描きかけのキャンバスに色が塗られていないように見える。確かに色を塗ったのに、灰色で塗りつぶされている。
「……どうしたんだ……」
低い声で呟いたが、わけがわからずその日は絵画はやめにした。
けれど翌日も治ってはいなかった。ぶるぶると震える手で無理矢理握ってみたが、すぐに取り落として服を汚してしまった。瑠が絵具を服に付けるなど、ほとんどない。油彩絵具は布に付くと洗濯しても落ちないため、その服は捨てることにした。何か病気になってしまったのか。箸や他の物は持てるのに画材道具だけ持てなくなる病気など聞いたことがない。瑠のたった一つの特技が失われ、毎日うんざりとするだけだ。ずっとこのまま筆が持てなかったら、一体どうしたらいいのか。いつか治ってほしいと、心の底から祈って悶々と過ごした。