二話
新井爽花に出会ったのは、本当に偶然だった。立ち入り禁止のアトリエに、突然爽花が飛び込んできたのだ。しかも瑠の弟の慧に好かれ、追いかけられて困っているという。今まで慧は女の子にモテまくりで、自分からは一切動こうとしない受け身の交際をしていた。慧を嫌がる女子がいるのかと不思議で、このとっつきにくい瑠に平気で会話できることにも驚いた。彼女について詳しく知りたくなり、逃げ場という意味でアトリエに入るのを許可した。はっきり言って、もうここには来ないだろうと予想していたが、爽花は何回もアトリエにやって来た。瑠の描く作品に興味を持ち、褒めて感動してくれる。そして、こんなに上手なら公開してもいいだろうと瑠を表舞台に引っ張り出そうとする。アトリエに独りぼっちでいてはいけない。慧みたいに友だちに囲まれ幸せを掴め。瑠にとっては厄介者で、面倒くさい邪魔な存在だった。しかし爽花のしつこさは半端なく、こちらが逃げると必死に追いかけてきた。家にまで上がり、毎日会いに来る。家族も避けている瑠に無理矢理でも関わろうとする爽花。最初は、ただの頭のおかしな女だと呆れていたが、だんだん爽花がどういう人間なのかわかってきた。わかればわかるほど、爽花が怖くなった。この女に、自分が隠してきた心の中の言葉を探られるわけにはいかない。いつも距離を置いて、バレないように気を付けなくてはいけない。そんな気持ちが、ふいに形を変えるのは、爽花が泣く時だ。この子を護ってあげたいと、無意識に考えているのだ。爽花の柔らかな肌や、さらさらとした髪に触れてみたい。しかしそれができないのは、爽花の背中に慧が存在していたからだ。もし爽花と関係を縮めたら、瑠だけではなく爽花まで傷つけられる。欲張りでわがままな王子の起伏はかなり激しい。せっかく描いた絵も、爽花がプレゼントした手袋も、慧が嫉妬の炎で壊してゴミと化した。その度に、爽花に近づくのは困難だという現実が目の前に立ちはだかった。
ただ、瑠にはアトリエがあった。アトリエの中なら、誰にも邪魔されず爽花と二人きりになれる。特に用がなくても爽花に会えるかもしれないと想像し、勝手に足が動いた。楽しいおしゃべりも、おいしいお菓子もなくても、瑠にとっては充分だった。ほんの少しでも爽花に喜んでもらいたく、絵具も数を増やし、より綺麗な色を作るのを目指した。絵が完成するだけで爽花はきらきらと大きな瞳を輝かせて微笑んでくれる。けれど家では、慧のじろりとした目が向けられた。部屋にいると、ドアがドンドンと叩かれた。開くと腕を組んだ慧が睨みながら立っていた。
「何か用か」
「お前、爽花と仲良くなろうとか考えてないよな」
「はっ? わけわかんない話すんなよ」
ドアを閉めようとすると、慧は素早く足を間に突っ込んだ。
「お前と爽花は赤の他人だ。全くの無関係だからな。爽花は俺のものだ」
おかしな妄想をしているとうんざりし、ふうとため息を吐いてから答えた。
「勘違いするな。俺はあいつと仲良くする気は更々ないんだ。そんな心配してる暇があるなら次のデートの計画でも立てろよ」
抑揚のない口調に、慧はにやりと小さく笑った。
「そうか。ならいいんだ。お前にだけは爽花は渡さないからな。死んでもやらないから」
「いちいち言われなくてもわかってる。用が済んだならさっさと出て行ってくれ」
挟んでいた足を引っ込め、慧はくるりと振り向いて歩いて行った。
そう。瑠と爽花は、ただ好きなものが似ているというだけで友だちではない。爽花も瑠をどう見ているかわからないし、瑠も爽花を友だちだと感じていない。ただ何となくそばにいると気分がいい。そんな関係だ。きっといつか爽花は慧の彼女となる。もしなったらアトリエにも来なくなるだろう。慧が監視して、爽花がアトリエに向かおうとしたら絶対に引き止めるはずだ。瑠は独りに戻り、マイペースに絵を描くだけ。昔と同じ暮らしになるだけだ。
急に胸がおかしいほど暗く沈んでいった。俯いて、もうどうにでもなれという投げやりな思いと恐ろしいほどの虚無感と凄まじい倦怠感でぼんやりと心の形が曖昧になっていく。こんな気持ちが生まれるのはなぜなのか、自分でも理解できずにいた。
しかし翌日、爽花と二人きりになると、心の形ははっきりとしている。爽花が瑠の作品に癒されているのと一緒で、瑠も爽花の表情や声や仕草に癒されているようだ。慧からの嫌がらせも爽花が救ってくれた。頭が怒りでいっぱいになっても、爽花を傷つけたくないからと我慢し冷静のままでいられた。可哀想だと泣く爽花を、逆に瑠も可哀想だと思っていた。また、自分のために涙を流してくれる爽花への想いが強くなっていった。もちろん慰めたり励ましたりは絶対に許されない。どんなに爽花が泣いても声もかけてあげられなかった。慧に隠れて爽花に触れられる時間はごく僅かで、必ず最後は慧が邪魔をして明るい気分で帰る日は一度もなかった。
生きがいとしていた先生のスケッチブックを墨で塗りつぶされた時は、さすがにショックを受けた。爽花も泣き、たとえ真っ黒にされても先生と繋がっているためにスケッチブックを捨てるなと言われた。確かにこのスケッチブックは瑠のお守りで、常に肌身離さず持ち歩いていた。爽花の優しさと慧の残酷さを同時に見た出来事だった。
しかし、やはりその後スケッチブックは捨てた。爽花は傷つくとわかっていたが、墨で塗りつぶされたスケッチブックを見る方が苦痛だった。それに過去は戻らない。いつまでも持っていても、このスケッチブックは白くならない。いつか離れる時が来るのだ。今が、このスケッチブックと離れる時だっただけだ。いざ手放してみると、案外心の中はすっきりと軽かった。