十五話
玲也との関係が変わったのは、夏休みが始まる直前だった。とんとんとアトリエのドアが叩かれ開くと、玲也と爽花が立っていた。玲也は丸めた画用紙を持っている。
「パパ、これ見て」
玲也が画用紙を瑠に差し出し、受け取って広げてみた。幼稚園で描いたお絵描きのようだ。綺麗なフルーツの絵が描かれていた。
「先生も友だちも上手だねって褒めてくれたんだ。僕のパパは絵がすっごく上手なんだよってみんなに言ったら、じゃあきっと玲也くんも上手になるよって……。僕、油絵やってみたい」
「すごいでしょ。玲也、すごく画力あるみたい。あたしもびっくりしちゃった」
どうやら瑠の画力の才能は玲也に影響されたらしい。確かに幼稚園児にしてはレベルの高いお絵描きだった。
「油絵が描きたいのか」
「うん。描きたい。もっと上手いねって褒めてもらいたい。パパ、教えてよ」
きらきらと輝く玲也の瞳は眩しかった。爽花も期待する表情だ。
「いいでしょ? パパ」
ぐっと拳を固めて身を乗り出す玲也を、しっかりと見返した。
「お父さんは別にいいけど、そんなに油絵は簡単じゃないぞ。覚えることもたくさんあって難しいんだ。それでもいいのか? 途中でやっぱりやめるは許さないぞ」
瑠の口調が低かったせいか、玲也の顔は青くなり下を向いた。爽花は睨んでいる。
「どうしていじめるのよ。せっかくやりたいって言ってるんだから、優しく教えてあげてよ」
「いい加減な気持ちでやらせたくないって意味だ。甘やかしはいけないだろ。……で、どうするんだ? やるのか? やらないのか?」
俯いていたが、くっと悔し気な目で玲也は大声で叫んだ。
「や……やる! 難しくても諦めないよ。いっぱい勉強すれば、きっとパパみたいな綺麗な絵が描けるもん」
我が子の勇敢な姿に嬉しくなった。爽花は少し困った表情だ。
「よし。もう一度言うぞ。途中でやっぱりやめるはだめだからな」
「やめないよ。絶対にやめない。ずっと続けていくよ。僕、頑張るよ」
玲也の真剣な言葉に、瑠も大きく頷いた。
「大丈夫なの? 玲也、上手な絵を描けるの?」
心配げな爽花に瑠は即答した。
「それはあいつの努力次第だ。ただし途中で投げ出すのは絶対に許さない。どんなことも簡単に逃げられないってことを、しっかり教え込まないとだめだからな」
面倒くさいから、やりたくないからやめてしまおうと、すぐに諦める性格になってほしくない。努力すればするだけ良い結果になるのだと知ってほしい。どんなに無理で奇跡でも起きない限りありえないと思うことも諦めてはいけないと教えてくれた先生の姿が蘇った。自分がされてきたことを今度は玲也にする。やると言ったのだから最後まで付き合ってやろうと決めていた。いつか我が子の描いた作品を褒めてあげたい。教え子が成長し立派になるのが一番の幸せだ。
「まだ小さいから、いじめないでよ」
「いじめじゃない。絵はそれくらい厳しいんだ」
「でも、あんまりきつい言い方はやめてね」
「言われなくても、わかってるよ」
さっさと答えて爽花のそばから離れた。
翌日から勉強が始まった。基本を学ばなくてはいけないため、鉛筆でスケッチブックに丸や線を描く練習からだ。玲也に道具を渡すと、きょとんとした顔で聞いてきた。
「何これ? 筆と絵具は?」
「まずは鉛筆だ。いきなりキャンバスに色塗りするんじゃないんだぞ」
「ええ? そんなあ……。僕、筆がいい」
「始めは鉛筆だ。筆がいいとかじゃなくて順番があるんだ。お父さんも最初は鉛筆だったんだぞ。みんな同じように勉強して、ああやって綺麗な絵が描けるようになるんだから」
べしっと床にスケッチブックを叩き落とし、玲也は首を横に振った。
「筆を使わせてくれないなら、僕、油絵なんか描かないよ」
さっそくやる気なしで、むっと頭に来た。アトリエから出ようとする玲也の手首を掴み叱った。
「やるって言ったのに諦めるのか? そんなんじゃ、いくら描いても誰にも褒めてもらえないな。努力しないで綺麗な絵が描けると思ったら大間違いだぞ」
玲也は「ううっ」と泣きそうな目をした。手を振り払おうとしたが、瑠は力強く掴んだまま睨みつけた。
「もう一度聞く。油絵を描きたいのか? 描きたくないのか? どっちなんだ?」
「パパ、僕のこと嫌いなんだ」
俯いて玲也はぽつりと呟いた。涙も落ちた。
「嫌い?」
「僕が嫌いだから、そうやって怒るんでしょ? 僕はいらない子なんだね……」
おかしな意味でとられてしまった。慌てて玲也の頭を撫でた。
「お父さんは、玲也を嫌いともいらない子とも思ってないぞ。ただそういう意気地なしなのはだめだって……」
「僕のこと大好きって言ってたのに。嘘つき」
「嘘じゃない。お父さんが怒ってるのは」
「いいよ。僕、ママとしかおしゃべりしないから。パパが僕のこと嫌いなら、僕もパパのこと嫌いになっちゃうからね」
きっぱりと言い切り、玲也はアトリエから出て走って行ってしまった。玲也を嫌いだとは一度も考えていない。大切な我が子に絵を描かせたかったし、油彩に興味を持ってもらえて嬉しかった。少し厳しすぎたのだろうか。まだ自分は父親になりきれていないのだろうか。
「玲也を可愛がってあげてよ」
夜寝る前に爽花に注意された。むっとしてすぐに言い返した。
「可愛がってるよ」
「でも今日、パパに嫌いって言われたって泣いてたよ」
「勘違いだ。俺が怒ったのを、嫌われたって玲也が勝手に考えただけ」
「そうなの? 玲也は、僕はいらない子だったんだって、ものすごくショック受けてたよ?」
「……だから」
「もういい。あたし疲れてるから、また続きは明日」
遮って、爽花は電気を消して眠りについた。
父親が子供にかける言葉は何だろうか。愛しているのだと信じてもらうにはどうすればいいのか。悶々として、ほとんど眠れずに朝がやって来た。




