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十三話

 こんこんと軽く音がしてドアが開いた。いつも通りアトリエで絵を描いている瑠に、爽花が話しかけてきた。

「お昼ご飯できたよ。慧もいるよ」

 時計を見ると一時半になっていた。ふう、と息を吐いてから答えた。

「わかった。着替えたらすぐに行く」

「うん。冷めないうちにね」

 爽花もすぐに答えドアを閉めた。

 アトリエの中にいる時と外に出る時の服は替えると決めている。そのままだと油彩絵具独特のにおいが充満してしまう。気分を悪くする人もいるかもしれない。また、ほとんどないが万が一絵具を付けたら捨てることになる。油彩絵具は洗濯しても落ちないので、できる限り古い服や捨てるつもりでいた服を着て描いている。学生の頃はこんなことは一切せず、好き勝手に描いていた。爽花と結婚し独りで過ごす日が減り、こういう些細な点にも気を付けるようになった。素早く新しい服に着替え、においがしないかチェックしながらダイニングに向かった。

 爽花の向かい合わせの席に慧は座っていた。いつもは瑠の席で、少し不快になった。瑠に気づいていないのか爽花と二人きりの楽しい世界でおしゃべりしている。テーブルの上には爽花の作った昼食が並んでいる。爽花は瑠の健康を考えて料理をしてくれる。子供みたいだが、爽花の手料理は慧にも誰にも食べさせたくなかった。

「あ、瑠」

 爽花が瑠の方に視線を移し、はっと慧も振り向いた。せっかく爽花といい雰囲気で話していたのに、と睨んでいるように瑠には映った。暇さえあれば慧はこの家に遊びに来る。目的は爽花だ。慧も爽花を愛しているため、二人で仲良くしているところを見ると、まるで浮気をされているみたいな感じになる。もちろん爽花にはそんな気はないだろう。ただの仲良しの男友達が会いに来ただけ。しかも瑠と慧は双子の兄弟。遊びに来るのは不思議ではない。

「慧は、好きな女の子とかいないの?」

 現在、慧の周りには女子高生がいっぱいいる。教師としての仕事もあり忙しく、未だに女性と付き合う余裕はない。

「出会いの場がないからね。生徒と恋人同士になるわけないし」

「そっか。慧にも可愛い女の子が現れてほしいなあ」

「まあ、そのうち現れるよ」

 ははは、と苦笑した後、ちらりと瑠に睨みの視線をぶつけた。お前がいなければ爽花は自分のものになったのに。諦めると言ったが、心の奥底では嫉妬の炎が燃え続けているのだ。言い争ったり喧嘩をしたりしないのは爽花を傷つけたくないと我慢しているからだ。結婚し妊娠もしているうえに自分も大人になったので、わがままや不満を言ってはいけないと考えているのだろう。

 席を取られたため爽花のとなりの席に座った。慧とは目を合わせないように、じっと横を向いて黙った。

「そうだ、名前の話なんだけど、レイってどうかな? ケイの頭文字をルイの頭文字のRにしてレイ」

「レイかあ……。かっこいいけど、瑠にも慧にも似てて、呼んだ時に誰かわかりづらくない?」

「じゃあ、サヤカのヤを取ってレイヤは?」

「レイヤ? いいかも。もっと男の子っぽくなったね。レイヤにしよう」

「うん。レイヤで決まりだ」

 爽花と慧のやり取りを、遠くから眺めている気で見つめた。親なのはこっちなのに、慧が父親のようだ。会話に入らない瑠も悪いが、二人きりで盛り上がりすぐとなりにいる瑠を完全に透明人間扱いしている。結婚したのに、家族が増えるのに、まだ孤独の世界から逃げ切れていない。こうして三人でいても、瑠だけ違う場所にいるみたいだ。

「瑠はレイヤってどう?」

 やっと爽花が話を振ってきた。特にこだわりがなかったため即答した。

「俺はどんな名前でも構わない。爽花が好きに決めればいい」

「そう? じゃあレイヤにするね。あとは漢字をどうするかだね」

 優しく腹を撫でながら、爽花はにっこりと笑った。

 爽花の母親は難産で、出産は本当に苦しんだらしい。それがとにかく不安で堪らなく、夜になると必ず涙を流した。

「怖いよう……。難産だったらどうしよう……」

 ぽろぽろと涙を流す爽花を落ち着かせるために、ぎゅっと抱き締めて「大丈夫だ」と繰り返した。爽花を護るには、少しでも力になるにはという悩みで、ほっと息を吐ける日は一日もなかった。出産で大変な目に遭うのは女性だけではない。できるだけそばにいてあげようと絵を描かない日が続いた。

「あたし、ちゃんと産めるかな……。難産じゃないかな……」

「大丈夫だって。この世で母親になった人はたくさんいるだろ。病院にも妊婦がいっぱいいただろ。みんな同じ気持ちのはずだ。痛くて辛いのは爽花だけじゃないんだ。それに、俺も慧もいるし爽花は独りぼっちで出産するんじゃない。もう泣き止めよ」

「でも……」

 震えている爽花を力強く抱き締めた。男だから女の痛みや辛さは全く理解できなかった。かける言葉もほとんど一緒で少なかった。

 出産予定日は十二月の始めだった。瑠と慧の誕生日も十二月で、なぜか不思議な気持ちになった。十一月の終わりになると爽花の恐怖はピークに達していた。

「どうしよう。もうすぐで出産予定日になっちゃう……。大丈夫かな。産めるかな……。怖いよう……」

「大丈夫だ。心配しなくても」

「や……やだよ……。怖い……」

 ぼろぼろと大きな腹を抱え泣き続ける爽花の姿は、瑠の心を冷たく凍らせた。けれど、もう後戻りはできない。




 ついに予定日になり、車で爽花を病院に連れて行った。それから病院の電話で慧とアリアを呼んだ。二人とも一分も経たずに飛んできて、待合室で手を合わせて産声が聞こえるのを祈った。瑠も怖くて仕方がなかった。陣痛や恐怖と戦っている爽花の痛々しい顔が、ずっと胸に浮かんでいた。今頃、爽花はどんな思いで、どれほどの苦しみに耐えているのか。

「……大丈夫かな……」

 慧の呟きが耳に入った。慧も瑠と全く同じなのだ。ぎゅっと手を握り締め、ただひたすら祈った。

 どれほど待っていたのかわからないが、やがて赤ん坊の声が聞こえてきた。はっと顔を上げるとすでに慧とアリアは立ち上がっていた。慧は感動で全身を震わせ、アリアも嬉し涙を流していた。甥と孫が産まれたという喜びで言葉が出てこないのだろう。爽花はあまりの痛みで疲れ果てて、まだ会える状態ではないらしい。やはり難産だったのかもしれない。しかしなぜか瑠は座ったまま微動だにしなかった。最も喜ぶのは瑠なのに、ぼんやりと夢を見ているみたいだ。

「お前もこっちに来いよ」

 慧に声をかけられ、びくっと体が反応した。

「お前の子供だぞ。やっと産まれたんだ。お前、父親になったんだぞ。なに座ってんだよ」

「父親……」

 衝撃で冷や汗が噴き出した。父親になったという事実が信じられない。幼い頃から友人すらいなかった自分が父親になる……。奇跡でも起きない限りありえない。

「う……嘘だ……」

「嘘?」

「そんなわけない。俺が父親になるなんて……」

 呟きながら首を横に振り、素早く立ち上がってエレベーターの前へ走った。

「お……おい……。どうしたんだよ」

 病院内のため大声は出せない。慧も足音を立てないように瑠を追いかけた。外に出ようとエレベーターを待っていると、背中から腕を掴まれた。

「おかしいぞ。急にどうした?」

 めまいでぐるぐると回る目で慧を見つめ、先ほどと同じ言葉を繰り返した。

「嘘だ。俺が親になるなんて。絶対にありえない」

「えっ?」

「だって、ずっと独りぼっちだったんだぞ。先生しかいなかったんだぞ? 俺は父親になる資格なんかないんだよ。子供なんか育てられない……」

 あまりにも弱々しい瑠の頬を、慧は叩いた。胸ぐらを掴んで鋭く睨みつける。

「情けねえ奴だな。父親になる資格がない? 育てられない? ふざけんなよ。父親になりたくてここまで生活してきたんだろ。育てるのは爽花一人に任せればいいやとか思ってたのか? もしそのつもりでいたならぶん殴るぞ」

 本気でいらだっていると伝わった。倒れるようにその場に座り込み、首を横に振った。

「そんな……酷いことはしねえよ……」

「じゃあ、そうやって怖がって逃げようとするな。死ぬほど辛い思いしてようやく産んだ爽花も、必死に産まれようと頑張った子供も可哀想じゃねえか」

 慧の言う通りだと痛いほど感じた。瑠が、みんなが幸せになれるように、爽花は努力しやっと乗り越えたのだ。とはいっても、まだこれは第一の壁で、乗り越えなくてはいけない壁は数え切れないほど存在する。子供が産まれてゴールではない。これからがスタートなのだ。

「瑠、慧」

 慌ててアリアも駆け寄ってきた。動揺して困った表情をしている。

「いきなり二人して消えて……。また喧嘩?」

「違うよ。ただちょっとこいつを鍛え直してただけ」

 ぎろりと睨んでいた慧は、すっかりいつもの笑顔に戻っていた。

「鍛え直してた? どういう意味?」

「母さんには関係ないことだよ。じゃあまた赤ちゃんのところに行こう。瑠も来るんだぞ」

 低い声で言い切り慧はアリアを連れてすたすたと歩いて行った。本当は逃げたかったが、はあ……と長いため息を吐いてゆっくりと立ち上がった。

 

 


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